1週間は、7日間で構成されている、これは創造主がデザイン
された暦、神が司る時です。神が全ての創造主である事実があり
神ご自身がこの世界の全てを造られた、神が時をも造られ、
神の”定めの時”=モアデイム=季節と訳されていますが、
神がアポイントした時=シャバット、新月、祭り=全ての
神の記念日を世界へ表すための天の万象を造られたと創世記の1:14節で神が語られた事実はどんな事があろうとも
永遠に変わらないのです。
何も知らない状態、聖書を読んでもいない、人の教え=聖書とは違う解説するイスラエルの神の言葉に対しての偏見など聞いた事など全く無い状態、全く聖書を知らない人と同様先入観の無い
まっさらな前提で、聖書に書いてある事、書かれている通りだけに忠実に執着して、神の言葉を神が意図し書いてある意味通りにだけ理解する事に集中する脳回路をリセットする必要があります。
人類の全ての問題の源は聖書の最初に書かれています。
”神の言葉を曲げた、薄めた、価値下げした、神の言う通りに
聞く必要はない、神は本当はそう言う意味で言ったのではないと
疑わせた存在=地を這う、どの動物よりも透き通ったものと書いてある通りの物が人を神の言葉、神が意図する通りに理解する
命の木からだけ食べる食べ方から意識をそらし、人が神に造られた通りではない聞き方、別の自己像=神の似姿である事実を疑わせ、何か付け足しをしなくては自分は足りない、ダメだと違う
生き方をする様に仕向ける=知識の木=善悪の木の実から
食べてしまったその事に全てが繋がるのです。
神の言葉は終わり!価値がなくなった!今は生きる必要はない!
異邦人には関係ない!それらの教え全て、エデンの園の地を這う
ものの声=教えとぴったり重なる同等の性質、内容の教えです。
神は本当にそう言ったの?とサタンは常に人に神の言葉を薄め
価値下げし、神の言葉を疑わせるチャレンジをし続けています。
でも神はなんと人に教えて言いましたか?
”神と神の言葉は永遠不変、神=言葉である。全てのものは神の言葉で出現した、人は神の口から出る一つ一つの言葉により
生きる、それらはあなたの命をガードするもの、命の値に匹敵
するもの、神の言葉から寝ても覚めても離れるな!それがあなたを守る!”と神は言っているでしょう。神の言葉は歴史途中で
もう無効になったと神がいつ言われましたか?神の言葉を分割したり、大部分を排除する、異邦人の思想は、人の体の臓器を一部捨てたり、取り外したり出来ないのと同じでありえない事なのです。神=言葉=エハッド=全部で一つ=全部でシャローム=
欠けの無い状態であると神が人に言われているからです。
人は神に造られた通りではないことをしてエデンの外=神の内側の外側の中に入り込んでしまったのです。
あなたは〜〜する様に造られていません!と言う神の忠告、
あなたは善悪の知識の木から食べる様に造られていません。
あなたは〜〜する様に造られています!あなたは命の木からだけ
食べる様に造られていますと神が伝えている全内容がモーセの
五書に書かれた人が生きる詳細なのです。
人間を造られた創造主から教えられる全てに対して人はどの神の言葉も拒絶する行為はしてはならないと神が伝えています。
神だけが人間の成り立ち、性質、生き方の詳細を伝える事が
出来る唯一の存在である事をいつも念頭に置いて考える必要が
あるのです。
神の言葉だけを聞き、内側に取り入れ食べ、神の意図する通りを聞いて生きる様に人は造られていますと言う事を神が人に
最初の最初から厳重に伝えているのです。
詰まり、人がいくらどの様に上手く神の言葉を曲げる内容を解説したとしても、神の言葉を否定する、帳消し、又は一時停止状態になって今は生きる必要はないとか、イスラエルが代表者の座を退けられて、異邦人が契約を受け取った代表者になり代わったとか、1世紀後半から始まり現代に至るまで、異邦人達が様々に
作り出して来た教え=聖書とは全く異なる異教徒思想の教え、
神の言葉や記念日が途中で変更されたと言う教えは、神の言葉
だけに基づけば、神が語る真実でもなんでもないのです。
それらの思想神学を語る人も、キリストは救い主、罪が許され
神の子とされたと言うその一部分の真実だけは同時に語ります。
その点は、モーセの五書、預言書に書かれた真実です。
だから、どこからどこまでが聖書の事実なのか、オリジナルの
聖書を知らないで、人の思想神学を信じる場合には、神の言葉と聖書では無い単なる人の教えの識別、見分けが付かないままに
なり、神が語る真理とは異なる人の教えを聖書であると信じ
込んで行ってしまっているのです。そして、神の永遠不変である言葉の真実を知る妨害をされてしまっているのです。
そして神の言葉の元を読まない、学ばない状態がずっと今に至るまで異邦人の世界では続いているのです。だから多くの人は
何が聖書に書かれているのか詳細意味を知らないので、
福音書〜黙示録がトラー、預言書とぴったりマッチしている事実に気が付けない、盲目状態なのです。
単純に神が語る言葉の真理にだけ戻れば良いのです。
”永遠不変の神、永遠不変の神の言葉、神が創造された創造物は
進化変化しない!”その事実だけに立てば、人が解説する様に
時代ごとに変化する神の義の基準や教え、人間の生き方、そして
神が解説する神の創造された世界、暦、神の記念日や神の言葉が歴史の途中で変化する、廃止になるなどと言う仮説はただの人の想像、空想に過ぎないこと聖書にだけ忠実に戻れば
100%確認する事が出来ます。
問題は聖書に書かれている内容を聖書に書いてある通りの意味で
知る、確認する事をしていない事なのです。
人は誰でも先入観と言うものがあります。
それは自分が見聞きして培って来た前提のみからだけに
基づき全ての物事を考え、見ているからです。
自分の既存の考えと違うことは最初から排除してしまうのです。
全ての分野、事柄に対して真実の全てを知っている人など居ないのです。ある分野には長けていても実は別の分野では、全く知識が無い、もしくは、誤解した事を前提に考えていると言うのは
誰にでもある事なのです。例えば科学者であっても”進化論”を
信じているのは、神の創造に反した嘘を前提として単なる不真実である人が編み出した教え=仮説を学びそれが真実であると信じているからです。医者であっても全てを知ってるわけではないし、特に薬に関してなど本当は深くは知らない、学んでもいない、どれほどずれた教育を学校でされて来ているのかは、医学の歴史を見ても理解出来る事なのです。ある部分は妥当、ある部分は人の体に対して完全に不自然で有害な事をしているのです。
医者こそ被害者と言う医者がいますが、人は教科書に書いてある
通りを信じてしまう、教えを刷り込まれてそれが真実だと考えているだけであると言うことが多々あるのです。
人は神の創造された世界を、神が見ている通りを知らないと言う
事なのです。人体など神が知る様に医学の世界はそこまで知らない、知識がない、又はある人の利益を最優先する仕組みの社会の元に全てが成り立っているので、人体に取って有害な事を人の
利益のためにし続けている事を発見する医者は、人間が考えた
教えが書いてある教科書と実際の人体の性質の現実がずれていると気が付き、真実を追求しようとする人達が居るのです。
そう言う人達はメインストリームから煙たがられ、異端として
排除され攻撃されています。
神学の世界も同じです。20世紀近く語り継がれた異邦人達が
編み出した数々の非聖書的教えが聖書では無い事実に、
オリジナル聖書から気がつく人は、オリジナルに戻り神が語る
神の伝えている真理を探求し直しているのです。
世界はあらゆる方向からリセットへ向かい、ある人は真実では
無い事に騙され続け、ある人は真実を発見して行く、
この二極化が今顕著になっているのでしょう。
嘘に生きる虚構の世界を、眠っていても気がつかざるを得ない
状況が置かれているのです。これは神が許された状況なのです。
聖書に書かれた神の言葉は全て”動詞”の世界です。
動詞の世界とは、全て人がそれを生きる!と言うことが前提で
神が語られています。楽譜と同じ、奏でないなら作曲者の音、
演奏は現れ出てない。それと同じです。
神の言葉を生きないなら、神の実態=栄光は神の子らを通して、この世の中で、実際に目に見える形では現れ出ないのです。
栄光が現れるとは、イエシュア=神の性質を神の子らが生きる事
だけに於いて現れ出る事実に気が付いて考えれば理解出来ます。神の家族とは、神の言葉を生きる人=神の性質を生きることを
実際に奏でる楽器=神の子らの性質を生きる人達、オーケストラのメンバーが全て集まり実際に書かれた音符を奏でれば
それは素晴らしいハーモニー、シンフォニーが現れ出て聴衆に
聞こえて来るのです。
だから神の性質=言葉とは違う事を生きるなら、それは不協和音
神に属さない、神の言葉=楽譜に書かれていない別物を奏でて
いる=生きている事なのです。
楽譜の70%を帳消しにしたら、曲は作曲家の意図して造られた完全なる一つの曲は部分的にしか聞こえず、意味不明の不完全な
ものとして聞こえてしまうのです。
異邦人の世界は、思想の世界です。
哲学思想を語る世界ばかり語られ、神の言葉を実際に生きる世界は余り語られません。なぜなら大前提がモーセの五書が廃れた
呪いの律法だ!神の言葉は生きる必要がない!と言う異邦人が
作った教えを聖書であると、疑いなく信じているからです。
そして、神の言葉を捨てれば、何を生きたら良いのか
深く理解出来ないのは当然の事なのです。
教科書、辞書を捨て、ちょっと書かれたあんちょこだけを見て
照らし合わせる大元=根拠=父の言葉=トラー、モーセの五書を捨てているからです。
人はイエシュアを信じた後、神の言葉が終わり!と言うならば、では救われた後は何を生きると神に言われているのか?
自分自身に問うて、聖書から言及してみてください。
これは正直な質問、追求すべき質問だと思います。
長年パスターをされて来た隣に住む人が言っていました。
”信じた後は実際に何を生きるのか、よく分かりません”と
言っていました。
唐突に神の言葉を捨てたら実際に救われた人は、日々何を生きるのか分からないのは当然ですよ!とは面と向かってその時
言えませんでしたが、白やぎさんと黒ヤギさんのお手紙交換の
歌と全く同じで、神の伝えるお手紙=言葉を読まずに食べたので、何が書いてあるの?と聞き続けているのと同じです。
しかもそのお手紙が呪いの律法=恵みに反する生き方だから
読む必要などない、生きる必要もないと教えた異邦人たちの教えを信じれば、どうしてそんな呪いの律法に書いてある内容を熱心に探り、知る必要などあるのかと考えもしないでしょう。
神の言葉を捨てて、神に対して、何を生きたら良いのでしょう?
地図を捨てて、どこへどう行けば良いの?霊に導かれて行けば良いと言うのと同じ事をしているのです。神の言葉とは違う教えを聞き続けることを教えられてしまっているのです。何か変!と
聖書だけ読んで神の言葉が100%永遠不変で真実であると言う前提からだけ読む人は必ず正しい疑問が湧き上がって来るはず
なのです。人の教えと聖書に書いてあることが敵対し合い、
矛盾するからです。
こんな単純なカラクリを理解出来ないほど人の教えは神の言葉の
真理を人の目の前から覆い隠しています。
これはエデンの園であった事件と同じだと理解出来ますか?
続く