主の日 シャバット テイシュヴァ  起動修正のシャバットと呼ばれるシャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ7;20−23に、イエシュアが直接言われた言葉が
書かれています。

 

マタイ7:20 このように、あなたがたはその実<実態=神の性質=トラーに書かれた神の言葉を生きることにより生まれる

御霊の実>によって彼らを見わけるのである。

<偽物か、神に属する本物を生きているのかを見分ける>

 

7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、

みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

<父の御旨とか父の教え、言葉と書いてあったらそれは

100%トラー=父が直接語って直接板に記した、

トラー=モーセの五書の詳細です。トラー=神の教え、

インストラクションを実際に生きて、行う人が神の国の民で

あるのです。>

 

7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって

『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、

あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

 7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、

『あなたがたを全く知らない。不法=<トラー=神の教えから

外れて>を働く者どもよ、行ってしまえ』。

<神の名を利用して、なんでもする事が出来てしまいます。

違う教えを作って人を誘導する事も出来ます。

例えば、救われた人は〜〜しなくてはならない。

3年間夏の間毎年奉仕しなくてはならない、宣教地にボランテイアで行かなければならない。このグループで〜〜の集いに

参加し続ける義務がある。どんな命令でも神の名を使い、

作り出す事は可能です。>

 

ルカ8:19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、

群衆のために近づくことができなかった。
20 そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 

2コリント 5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの

さばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

 

救われたらなんでもやり放題、神の教えに根付き生きる必要

など無いと言う教えは、聖書とは違う教えだと気がつかないと

危ないです。神に贖い出された人達は、神の性質を生きる!と聖書の最初から最後まで書かれています。

 

はじめの愛=トラー=モーセの五書に書かれた婚姻契約の

生き方から外れて、捨てて、生きている!はじめの愛を捨てた!忘れた、はじめの愛=トラーに書かれた生き方に

戻りなさい!とヨハネは警告しているのです。

はじめの愛と言う言葉を、異邦人の世界では単に婚姻した最初の頃の熱心さとか、初々しい愛とか、フィーリングとか、

様々な解説、定義をしますが、ヘブライ人ヨハナンが隠語で

話しているのは、はじめの愛=”モーセの五書”の事なのです。はじめの愛=シナイ山で贖い出された後、最初に受けた

神自ら語られた文字で書かれた婚姻契約書の事なのです。

異邦人の世界では、モーセの五書は破棄されたと教えられています。トラーを捨てた!忘れた!と警告されているカハール=信仰のグループへの警告が語られているのです。

 

もしはじめの愛=トラーに書かれた神の性質通りの人の生き方に戻らないならば、刈り取る結末が書かれています。

 

黙示録2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、

悔い改めて初めのわざ=トラーに書かれた神の性質

行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、

わたしはあなたのところにきて、

あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

燭台=メノーラ=神の光、道を照らす光が取り除かれて

しまう。

 

1コリント2:13それぞれの仕事は、はっきりとわかって

くる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、

ためすであろう。

 

人は神の性質を生きて、その仕事=生き方が周囲に表される

ものです。

人生の時は流れて行き、同じ時を繰り返して生きることなど

出来ません。一つ一つの不注意に発した言葉、行動は

”必ず全てエコーして神の前で明らかにされる日が来ます。

キリストイエス〜神の言葉に照らし合わせて、1歩1歩を

神の言葉を吟味して、自分が神の性質を歩んでいるか注意して

生きよ!と至る所に書かれています。

 

マタイ12:36 あなたがたに言うが、審判の日には、

人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。

 12:37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、

また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

 

これを読んで、キリストに許された人はやり放題ok、

罪犯しても許されるし大丈夫!などと言う考え方をしているならば、聖書ではない違う教えを信じていることになります。

 

人は、日々の中でずれた生き方をしたら必ず刈り取るべき代償があります。傷つきます。修復が大変です。大事な人間関係や

信頼を破壊し失うでしょう。しかも神の子として、神の前に

人の前に、神のみ名を汚し、イスラエルの神を誤解させる事を人の前でやらかしてしまうのです。

”試みに合わせず”とは、神のみ名=実態を自分が汚す様な

行為をする状況に入れないでください!と言う意味なのです。

 

そしてあるズレは、人間関係を修復不可能なほど、破壊するものがある事、普通の常識があれば理解出来るものです。

だから、注意して、神の性質とはずれた生き方をしない、

神の性質=トラーに書かれた生き方に照らし合わせて生きる事をするのが本当のあなたの性質なのですと、神がずっと語っている声=言葉=教えを人の教えで遮れば真実は見えなくなり、

律法の行い”=人の教えでずらずら語られる教えを生きてしまいます。

 

2コリント 5:10神の知識に逆らうあらゆる高慢を

打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、、
<1つ1つの考えをイエシュアの教えの中に照らし合わせて>

 

ヤコブが、本当の自分に直面し、神の似姿にされている事実を

神から知らされたヤボクでの”神の使い”との格闘の後、

もものつがいを打たれました。今までの歩みを完全に絶たれた

事を表すものです。ヤボクのヘブライ語の意味は、

”空にする、失敗、命が減る、無効にする”

ヤコブは兄エサウの衣を母から着せられたのです。

本来の自分の性質、自分の自己像では無い、兄の性質を生きる事を着せられたのです。誰でも自分では無い人を演じるのは

苦痛です。それが自分の憧れの理想の人を目指していても、

神が造られた本来の自分では無いことを生きたら苦しむ。

それを世の中は、強要しているのです。自分では無い誰かを

生きよ!と生きさせる。家庭でも兄弟比べてその子らしさを

尊重せず、親の理想の目標を生きさせることもそれと同じです。

 

ヘブライの世界での衣とはその人の性質を表すものです。

ヤコブが、神に祝福を懇願した意味は、本当の自分が分からないまま40年生きた!本当の自分に出会う=神の義とされた

本来の自分の性質を生きることをこのヤボクで初めて体験する

シーンでもあるのです。

その後はビッコ引きながら格好悪く歩いたでしょう。でもそれは、神の前に正しい自己像で、神の言葉に

根付いて歩み直す事をさせられた事なのです。

 

これが、今の時期、個人で、そして大贖罪日は神の民全体で

神の前に出て軌道修正する日を迎えるのです。

 

ヨムテルアから大贖罪日の中に来る、シャバット=第七日目の

週一度のシャバットを次の様に呼びます。

シャバット シュバァ " שבת שובה 

 シャバット テイシュヴァ" שבת תשובה

 

軌道修正のシャバット。翻訳だと悔い改めの安息日と言うものになりますが、ヘブライ語が本来の意味とぴったりです。

シュバァとシャバットには共通の言葉があります。

発音を聞いても気がつくと思います。

シュヴァ=神のトラーに戻る!リターン=帰還=テイシュヴァ

シャバットは、人の生きる基本、原点なのです。

戻る!神の教えに戻る!神の印、記念日を生きることに戻る!

神が創造された全て、神の創造した意図通りを生きる!

神の子らである印を与えた!神の子らに神がシャバットを与えた!と神が伝えています。

 

イスラエルの神を知らない人はシャバットは祝いません。

その意味を知らないからです。でもシャバットに止まったら

それは神がデザインした人間としての生き方の一部には叶っているので益があるでしょう。でも意味が分からないままやるのと聖霊を受けて、神の記念日の意味を実際に生きるのとでは

全く違う体験になります。

 

世界は軌道修正を促されている最後の時を迎えています。

神を愛する人は、神の仰せを待ち望む!のです。

海沿いの島々も神のトラーを待ち望む!と預言されている

通りの事が今世界中で起きている時の中にいるのです。

 

Shabbat Shalom

 

詩篇 89:15 祭の日の喜びの声<神の到来、祭りを告げ知らせるショファーの音>を知る民はさいわいです。

主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、

 

聖書は全て、神の記念日=主の日を賛美し、祝福し喜びを

歌ています。

 

詩篇98

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって

主は救いの御業を果たされた。

2主は救いを示し恵みの御業を諸国の民の目に現し

3イスラエルの家に対する

慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。

4全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、

喜び歌い、ほめ歌え。

5琴に合わせてほめ歌え

琴に合わせ、楽の音に合わせて。

6ラッパを吹き、角笛を響かせて

王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。

7とどろけ、海とそこに満ちるもの世界とそこに住むものよ。

8潮よ、手を打ち鳴らし山々よ、共に喜び歌え

9主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。

主は世界を正しく裁き

諸国の民を公平に裁かれる。

 

秋の祭りは再臨を表すものです。それを89、98篇で歌っている事実に基づき、神の声に応答する人達は、

一緒に神の再臨を迎える祝いをしましょう。

 

 

ヨムテルアの時に、王の冠を表すハーラーのパンを

作りました。6つのブレードをするものです。

あまり上手く行かなかったかな。。

でも気持ちは主の記念日を祝う喜びで一杯でした。