主の日 シャバット テイシュヴァ 秋の祭り10日間の軌道修正の日 大贖罪日に向かう | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今、先週月曜日の日没から始まった"ヨム テルア”〜叫ぶ日=

角笛を吹き鳴らし皆に知らせる日から10日間悔い改め

神のトラー=モーセの五書=10の言葉に照らし合わせて

軌道修正する日々であり、この水曜日の日没に始まる

”大贖罪日”=ヨム ハ キプリム=最後の審判を表す日を迎え

ます。

 

今の”主の日”の期間の悔い改めは、個人個人だけではなく、

神の民全員でするのです。

神のトラーを生きていたら、なぜあなたの中に貧しい者が

居るのか?イスラエル=神の子らが神のトラーを生きていたら

貧しい者、虐げられた者、ないがしろにされる者は居ないと

トラーに書かれているからです。

あなた方はどこから落ちたか考えなさい=はじめの愛に

戻りなさいと言う神の言葉に繋がるのです。

 

神の前に出て悔い改め=軌道修正をすること、最後の審判を

表す祭りが、”大贖罪日”なのです。

”悔い改め!”毎日しているから、そんなのはいつでも良いのさ!

と言うならば、神が教える預言的内容や意味を理解出来なくなります。神が”こうしなさい”と言う言われる事に素直に聞くと言う

基本がないならば、それは神のみ旨=教え=言葉に沿わない

自己流の悔い改め、自分基準、自分判断、自分が神の座に

座る生き方を選びますと言う事であるのです。

イエシュアは、父に教えられた事、言われた事、父がしなさいと言う事以外しないと言われました。それはイエシュアは地上で

100%トラーを生きて教えて人に示すために来られたからです。神オリジナル創造の人を生きた唯一の人がイエシュアです。

 

ローマ10: 4

キリストはトラーの目標<指標、指針、お手本>であります、

信じる者すべてに義をもたらすために。

 

それが神に創造された人間の生き方、神から聞いた=教えられている事を生きる基本だから、イエシュアはそう言われたのです。YYJDに生きる。

 

この主の日=今のヨムテルアから、ヨムハキプリムまでの

10日間は、個人個人で、家族で、コミュニテイで、

最後は国=神の民全員で悔い改めをする日なのです。

出エジプト20章にある、10の言葉に照らし合わせて軌道修正をするのです。10の言葉は、トラーのお題目です。

1つ1つの言葉の裏にある深い詳細がトラーに書かれているのです。

 

これをクリスチャンの世界でも全員でやったなら

非常に大きなインパクトがあると見えませんか?

 

一人一人が、夫婦が、家族がそして街全体が、仲間全体が

国全体が神の言葉=教えで1つ考え、思索に戻り神の前に

神の教えに照らし合わせてズレた事を発見し、省み、二度とそのズレをしないと決意するその様な考えで神の前に生きる

人達の間には神の命、性質がその人達の生き方から

現れ出るはずです。

 

神の言う通りをした人は、神は必ず神が伝えた言葉を信じて

行動する人の中に現れる、そして大事な神の奥義を教え続けて

下さる約束をして下さっているのです。

 

世界が壊れているのは、神の言葉=教えを捨てたからです!

原因はシンプル!問題の元は明らかです。

 

エデンの園の出来事がその始まりなのです。

神の言葉を捨てて、神の言葉の価値を下げて薄めて、

神の言葉、教えではない別の教え=蛇の声の方を取り正当化し、

そして神が禁じた”善悪の知識の木”から食べたと言う行動を

したからです。

 

世界は、神の意図通りを生きる事と逆をしています。

善を悪、悪を善とし、神の創造されたデザインを破壊し続け

命を破壊し続ける行為を、今もマックス状態で世界中の中で

やり放題し続けています。堂々と”安全”と言う名を掲げて、

人を破壊して行く行為をしている。

 

神の創造された結婚を破壊し、神の創造された人=男女の性質を生きる事を様々に変形し歪め悍ましい別物に変身させ、

それが今の時代の”ノーマル”であるとしてしまった。

神の真理を語る人を批判し、偏見と言い、悪を善と認めさせる。

愛=神の性質を生きる事が冷め、神の目に忌むべきもの、

汚れを、人はどんどん内側に知らないまま平気で取り込み、

神の品性、性質に造られた人の生き方を汚して生き続けて

しまっているのです。

 

ここでクリスチャンの世界で多大に誤解さている点があります。

”救われた事実は、行いによるのではない”と言う神の言葉の
意味を大変な勘違いで受け取ってしまっているのです。
 
その理由は、昇天以降は、モーセの五書=神の教えは破棄され現代生きる必要はなくなったと言う人が作った教えが
1世紀後半から既に異邦人教父達によりされて浸透して
しまったからです。
 
中世は、聖書の真実な内容を教えることなく、ローマ教の
作った人の教えや律法=律法の行い=人が作った教えを生きる事が浸透し、そして、ルターも神のトラーに反旗を翻す事を
してしまいました。
その後19世紀には、マルキオン、ルターの思想と同じ思想
神の言葉は生きる必要はない、聖書はルカの福音書とパウロの
書簡1、2だけを読むだけで良い。山上の垂訓なども生きる
必要がないと言う思想を持ったダービーにより、怒りと恵の神義の基準が時代ごと別、7時代で変化する、ユダヤ人と異邦人への神の教えは別!と言う聖書を本当に理解していなかった人の教えが異邦人の間に受け取られてしまい、それが聖書だと、永遠不変の神の言葉の方を否定したのでその教えが爆発的に
浸透したからです。
 
人間の地上での歴史は、エデンの園の出来事の繰り返しなのです。神の言葉を捨てた!
 
クリスチャンの世界で、神の言葉を生きる人は律法主義であると言う教えは、1世紀後半から作り出された異邦人の反聖書的
思想を信じている結果であり、神の言葉に根付いた聖書理解ではない、ずれた思想から考えていることなのです。
 
神は神の言葉を瞳のごとくガードし、常に注意して右にも左にもそれるなかれ。それはあなたの命そのものであるから、
神の教え=言葉から離れるな!と最初から最後まで
ずっと一貫して同じ事を語っているのです。
 
義とされた事実は、神の教えや宗教が作った行いをして
得る事の出来る性質のものではない。
救われた=義とされた、聖霊を受けたのは、自分のお手柄や
行動や善行や修行で獲得したのではない!
ガラテヤ3章にあるパウロの諭している内容と同じです。
 
でも救われた人、義とされた人は、神の教えを生きなくて良い神の教えを行なう必要など無い、神の言葉を生きることは悪!のごとく、語られてしまっています。
では、クリスチャンとは何を実際に生きるのですか?と言う
問いを自分にしなければならないのです。神の口から出る
1つ1つの言葉により生きると申命記からイエシュアがサタンに返した言葉とは違う教えを生きるのですか?
イエシュアが教えられた引用され教えられた言葉は
100%トラー=モーセの五書=父の教えなのです。
 
聖霊に導かれて生きると言うならば、聖霊は100%トラーに
マッチした性質を行動する様に教えるのです。
 
律法に戻るのか〜!!!と言うスローガンを誰でも聞いたことがあるし、神の教えは古いものと新しいものがあると本気で
信じきっていると思います。
ユダヤ人は律法=神の言葉を生きて滅び、異邦人は神の言葉を
捨てて、破棄して勝利した!イスラエルの神が教える教えとは
全く別の宗教の教えです!
 
そんな新旧別の教えなど聖書には書かれていなのが事実です。
異邦人の世界では一般的に、人の思想=神学を通した聖書解釈しか聞かされません。モーセの五書を原典聖書に書いてある意味通りから学ぶ事がないので、福音書以降には違う教えが
書かれているのだと、人の創作した教えでそう信じ、
さらにパウロが誰であるかを知らないままトラーを否定した
教えをする人だと誤解し、パウロの書簡を完全に誤解している解説しか見聞きしないからです。
 
”審判の日”がやがて来ます。
審判とは、モーセの五書を基にされる事実があるのです。
モーセの五書を捨てたなら、その日はやって来ません。
それは聖書に書かれた預言と異なる事は理解しなければならない事実なのです。
天の神の国の憲法、義の基準、人の生きる基準の全ては
100%トラー=モーセの五書のみ!そこに全てが書かれて
いるからです。
もし、モーセの五書が無ければ、聖書全体は全く不明であり
書いてある内容を理解出来なくなります。
罪の定義、汚れの定義、義、救い、贖い、祝福、恵、愛、etc 
etc 聖書に書かれたそれらは、どの箇所も全て100%
モーセの五書の定義を土台に語られているのです。
福音書以降の愛、恵、許しなど全ては、100%モーセの五書に書かれた内容を土台に短く解説しているのにすぎないのです。
 
 

続く