ヨム テルア 預言的祭り イエシュアの再臨を表す秋の祭りが明日から始まる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

主の日、祭り、賛美と喜び、礼拝と聖書に書かれているものは

全て、レビ記23章、神が創造したオリジナルの記念日、

祭りを祝うことに関して聖書では記されています。

 

主の日と言うヘブライ語の言葉の聖書で表されるもう一つの意味は、ある一定の時期に神が特別な業をされる事を指しても

使われる言葉です。

 

主の日とは、レビ記23章に書かれた神が創造したオリジナの

記念日、もしくは、神が特別な業をされる”ある一定の期間”の

どちらかを表す言葉であり、それ以外の時を表す言葉では

ありません。

レビ記23章、もしくは”神の業をされる期間”のどちらかを

指して使われる言葉が=主の日の正しい聖書の意味、定義です。

この事実から離れないで、聖書を読みます。

 

一般に教えられている教えの中には、聖書とは全く関係ない、

人が想像、考えて作った教えが数多く神の言葉を説明する中に

混在している事を発見し続ける必要があります。聖書に書かれた神の言葉の意味や定義とは全く違う教えを数多くされて

しまっているからです。

 

聖書=神の言葉と、人の作った非聖書的教えを見分ける、区別、

識別して、神の言葉の真実だけに戻る=シュヴァー=悔い改めの軌道修正が必要だからです。

 

クリスチャンの世界では、主の日=日曜日と解説されていますが

その教えは聖書の事実=神の言葉とは反する西洋人が聖書に反して作った只の人の思想であるのです。主の日とは週の第一日目を指して語られているヘブライ語の意味する定義ではないからです。

神の創造された人間や動物は途中で進化変化しないように、

神の言葉も進化変化しない、神の創造されたオリジナルの記念日、祭りも歴史の途中で進化、変化しないと言う聖書の事実に

だけ立って聖書に書かれている内容を書かれている事実通りに

探求しましょう。もし聖書に戻ることを反対する教えは、

それこそが、反聖書、反イエシュア思想である事は明らかであると理解出来ると思います。

 

1世紀後半から、異邦人は既にオリジナルの神の言葉を離れて

神の言葉を捨てて、神の教えとは別の教えを生きる様に主張し

始めました。

現在のクリスチャンの世界で主流に教えられている、

神の言葉は呪いの律法で廃れて別の教えを自由に生きるのだ!と言う解説は、1世紀後半から出てきた神の言葉を否定する教えの

継続、集大成の結果なのです。神が永遠不変の神の言葉と教えているのに、そんな教えを神がしていない証拠が聖書にはクリアーに書かれているからです。人間の教えで神の言葉を曲げ、読み違えているだけなのです。

 

一旦人の教えを全て消して、神が語る神の永遠の真実と

神の祭り、神が作られた記念日の意味を聖書だけに戻り

考える事をしたいと思います。

 

春の祭りは、地上で既に成就した内容です。私達個人個人の救い

贖い、許し、祝福、義とされている事実、神の花嫁とされた事実は、この春の祭りの一連で表されている預言的祭りです。

 

過越の祭から、シャヴオートの祭りの一連です。

クリスチャンの世界でも、救い、贖い、罪の許し、新しく

された復活の命の事実を語りますね。その事実の根拠は全て

モーセの五書に書かれている内容とぴったり合っているものです。

そして新しくされた人が成長する過程を表す7週間、

その後に”婚姻契約”を受け取る祭り=シャヴオート

<ペンテコステ=ギリシャ語>を祝うのが神のオリジナ創造

永遠に祝われる春の祭りなのです。ペンテコステは、

聖霊初降誕祭りではないのです。聖霊は人の内側に最初から、

そしてどの時代の人も、どの民族であれ聖霊は人の内側に

住まわれている事実が聖書には書かれているのです。

使徒2章のシャヴオートの祭りの出来事はシナイ山で起きた出来事=祭りの再現です。イスラエルへ代表として与えたトラー=

神の教え=福音は、全世界の民族へも伝えられる幕開けである

意味の出来事なのです。

それが使徒2章のシャヴオートの祭りです。

聖書に書いてある事実を繋げてて考えてください。

 

イザヤ 2:1 アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。

2:2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、

すべて国はこれに流れてき、

2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、

われわれはその道=イエシュア=トラーに歩もう」と。

トラー=神の教え=モーセの五書はシオンから出、

主の言葉はエルサレムから出るからである。

この始まりが使徒2章の出来事なのです。

 

シナイ山での出来事の方がもっと意味が深くインパクトがあります。天が直接シナイ山の山頂=雲の中に降りてきて、神が降りてきて、そして神の声を直接イスラエルと召集の異邦人がシナイ山の麓に立って聞いたからです!!!

天と地を証人に全世界へ向けて印象付けるやり方で

神の婚姻契約が与えられたのです。シナイ山では、イスラエルを代表として受け取った婚姻契約、それが使徒2章では、

今度は全世界へトラー神の教え=福音が運ばれる印として

起きた出来事なのです。

 

トラーを受け取った事を祝う、祭りの最中にエルサレムの神殿で起きた出来事を、トラーを知るユダヤ人ならシナイ山の出来事と重ねて考える事が出来るのです。

 

神の教えは時代ごとに分断したり、別種の教えである性質では

ないのです。

聖書には一貫して同じエッセンス、テーマ、同じ福音が語られている、聖書の事実にだけ戻って考える時、1つである神の言葉が

分裂せずにぴったり一貫性を持ち、統合されている事実を

聖書から理解する事が出来ます。人の思想=神学で考えるから

矛盾してしまい、その矛盾を埋めるためにまた人の教えが作られ続けて、神の永遠不変の言葉を曲げて否定してしまうのです。

 

クリスチャンの世界ではイースターと言う名が付けられた、

”過越から7日の種無しパンを食べる週の真ん中=イエシュアが

過越で処刑されてから3日とぴったり重なる日に、”初穂”を

捧げる祝い日がオリジナルの神の祭りなのです。

初穂=イエシュア=復活の命に連なる事実。

初穂はぐんぐん増えて伸びて行きます。

復活の命に連なる人の姿を7週の中で表してもいます。

7=完全、完了を表すものです。

 

そして”婚姻契約”=神の子らの性質=イエシュア=第二のアダム

オリジナルの人間の性質が書かれた生き方=神の教え、

インストラクションが婚姻契約の中に書かれているのです。

それがモーセの五書です。

神の言葉は聖書のどの箇所も全てこのモーセの五書を語り、

解説しているのです。救い、贖い、許し、祝福、愛etct etct

と言う言葉を使って聖書のどの箇所をも説明するなら、

それらの言葉の意味定義は100%トラーに書かれた実態であると言う事をクリスチャンの世界では全く教えられず、

福音書以降は別の教えが語られていると解説してしまっている

のです。

 

異邦人の世界では、神の言葉を生きることは、恵みを捨てた

悪い生き方=律法主義的生き方であり、神のオリジナルの

記念日、祭りを祝うことも異邦人には関係無いと神の言葉に反して背く教えをしているのです。

 

だから、神の言葉を今は生きる必要はないから、何が書いてあるのか深くは教えられないし、そして神のオリジナルの記念日や

祭りを祝うことを全くしなくなったのです。

その代わりに西洋宗教は歴史の途中で西洋人が作った別物の教えや記念日や祭りを生きる事に切り替え変更した!と言う事実を、クリスチャンの世界ではほぼ認識されていないと思います。

 

いや、英語圏の世界では、その事実を認識し始めている多くの

人がいます。今やノンクリスチャンでさえ、キリストの誕生日は

12月ではないと知っていますね。事実に基づき正しい情報に

アクセスすれば、世界で語られている教えが真実か嘘か分かるからです。しかも、聖書にキリストの誕生日が12月25日などと

書かれてませんし、ロシア聖教のキリストの誕生日は1月7日です。どうして誕生日が二回もあるの?しかも冬にキリストは

誕生などしない証拠の方が聖書に書いてあるのです。

 

クリスマスの祭りの由来をノンクリスチャンも知る時代になったと言うことなのです。キリストは地上に誕生した事実はあります。聖書ではその事をひっそりした出来事で語っています。

何をどう信じようとも自由ですが、クリスチャンて真実ではないことを根拠に何でも信じるの?と思われてしまうのです。

いや聖書ではない、ローマ帝国の教えが作った伝統の祭りを

やってますと言い替える必要があるのです。

キリストの誕生は強調されない、祝う様に書かれていないですが

多分秋の祭りの間に生まれたか、春の祭りの間に生まれたのではと考える人たちがいます。それは聖書に強調もされず、言及されていないし、当時1世紀の人達は当然知っていたでしょう。

正しい情報を探る人達は真実を見つけるからです。

英語圏での情報は膨大で、ヘブライ語に根付いた神学ではなく、聖書だけを信じ教えるユダヤ人や、異邦人が居るからです。

 

日本語圏では、オリジナルの聖書は永遠不変の神の言葉、

教えであると言うことはほぼ聞かれる事が無いと思います。

又は混ぜた教え=ローマ教の教え、神学の教えとヘブライ色を

混ぜた教えと言うのはあると思います。

 

簡単に考えれば良いのです。なになに神学〜人の教えから

聖書を終末論を語る、読み解く!と言う教えは聖書では無い教えが混じってます!と宣言している教えですと言っているのと

同じだからです。聖書に書いてあるのは人の作った神学ではなく純粋な神の言葉だけです。食品の原材料表示の様に添加物=人の作った教え=神学が混じっていると言っているのと同じだからです。

神のオリジナルの言葉には西洋人が編み出したモーセの五書=

神の言葉、教えを否定する神学の教えなど含まれていない

からです。

そして、永遠不変である神の言葉!と言う事実に反して

神の言葉は廃れた、終わった、ある一部の神の言葉は終わった、異邦人には全く関係ない!生きることも祝う必要もない、

と言う教えも全て100%聖書ではありません。

 

 

 

続く