神の招きは人の教える招きとは違うものです。
"聖なる集会”と訳されているヘブライ語の意味は、
ミクラ=神の言葉=それを読む、書かれた言葉を読む
声=コルと言う意味とも繋がるものです。
神の声により呼び出された人達が、神が指定した定めの時通りに
神の目的通りに”分かたれた”日を神が伝えている通りに宣言する事なのです。神が伝えている通り!それをする事が何より重要
神が伝えていないことは伝えない!神が世界へ宣言してと言う
神の言葉、教えを宣言する!それには同時に神の言われた事を
生きる!と言うのがワンセット=エハッド=シャローム
完全なのです。
その日を宣言する人々が多ければ”集会”集まってくるから
集会と書かれています。
神の定めた時に、神の子らが神の定めた記念日を生きて”
宣言する!”それが神の聖なる集会の特徴です。
神が呼び出した日以外のものは、神のオリジナル創造の記念日とは性質、意味が違うものです。
レビ記23章は一年に渡るサイクル=命のサイクル=イエシュア
の業そのものを表しているものなのです。
異邦人の世界では、神の言葉に対して奥底に初めから否定的で
ネガテイブな敵対心や構えがあります。
なぜ?それはモーセの五書は呪いの律法であり、廃れたもので
あり、それらを生きたり、神のオリジナルの記念日も廃れた呪いの記念日、レビ記23章の記念日を祝う人は、古い律法に戻る
恵みを捨てた生き方をしていると教えられているからです。
それって聖書とは真逆の教えであり、1世紀のパウロや他の
信者たちは100%レビ記23章のシャバット、新月、春と
秋の祭りを祝っていた内容が書かれているのを全く無視して
人の教えを信じているだけなのです。
聖書に戻り神の言葉で表されている真実の事実確認をしない
限り、神が人に伝える永遠不変の神の教えの真相は見えません。
そして、イエシュアが再び戻られたら世界中が神のシャバットと
祭りを祝い、神のデザインした人間の生き方=トラーを生きる!
と預言されているのです。それがエレミヤ31:31
新しい契約=異邦人も皆主を知ろう!と言わない、トラーを
知って頭脳に割礼がされて、神のトラーを生きる時が来る!
と書かれているからです。新しい=再更新された同じシナイ山
で与えられた婚姻契約=参加する人が違う、人数が増えている
その違いがあるだけです。
神の言葉と人の教え、どう区別しますか?
聖書に基づき確認する事をしない限り、聖書か人の教えか見分けがつかない事をし続けてしまうでしょう。
神の記念日に招かれて律法だ〜呪いだ〜と考える事
それが”呪われた状態!” 呪い=神の臨在があなたの上から遠くに
取り除かれる、神の前にあなたの価値が羽の様に軽くなると言う
意味がヘブライ語の呪いと言う言葉の意味なのです。
その呪いの状態を、神が与えているのではなく、神の言葉を
ないがしろにして生きる人の行動、思想が自分の身の上に
自らもたらす、神との隔たりの状態を招きますとヘブライ語では書かれているのです。そうですよね。神の言葉、教えに対する敵対心こそ隔たりそのものであり、神に対する親しい意識、
100%完全に信頼する意識を奪っているのです。
シャバットは命に匹敵すると書かれています。
神の言葉をないがしろにし、捨てることは死に匹敵すると
神は教えています。神の教えは昇天以降変化しません。
それは人を守る鎧兜を捨てて、無防備でずれた状態になって
しまうからです。
ダビデは100%モーセの五書だけを基に詩篇を書いています。
その中身は100%モーセの五書=トラーの知恵です。
箴言も同じです。
その中に書かれた事に共感、同意するなら、愛し合いなさいと
言う言葉に同意するなら、それは100%トラーの教えであり
トラーを生きよ!と教えられている事実に戻る時に
聖書は創世記〜黙示録まで同じ事が書かれている事実に
必ず気がつける日がきます。
神が人のために”シャバット”を設け、神が人と婚姻関係を
結んで永遠の愛を与えている印として下さったのにどうして
それを捨てよ!と教える教えが聖書の教えだと考えているのでしょう?
ローマ宗教の伝統で変えられてしまった記念日や教えを
聖書だと誤解しているからです。
それが本当の聖書の真実が見えない理由なのです!
人の教えが神の言葉を隠している!それです。
オリジナル、神の教え、神の真実の中、エデンの中、元居た
場所に戻りなさい!と神が招いているのです。
初めの愛=婚姻契約=神の教え、インストラクションを捨てた!忘れてしまった!と書いてあります。
黙示録の中で最初に書かれている神の教え=トラーを捨てて生きたグループ=カハールへ警告しているユダヤ人ヨハナンの言葉
です。コード化された言葉=ローマ帝国=異邦人クリスチャンにも直に通じない言葉で書かれています。
最初の愛=シナイ山で与えられた文字として初めて書かれた
神の教え=婚姻契約を”はじめの愛”とローマ帝国に読み取られないトラーを婚姻契約であると知るユダヤ人にしか通じない隠された言葉で書いてるからです。
神の言葉は廃れた、破棄された!その異邦人が主張する教えが、黙示録の”初めの愛を忘れた!”と言う言葉で警告されているのです。そうトラーを捨てて!婚姻契約の印である記念日を捨てて
別物に変形してしまった=初めの愛を忘れている!
神の言葉を破棄し捨てるこそが恵時代の正しい生き方だ!などと言う教えを聞いて、その聖書とは違う教えを信じることこそが
”危険”呪い=神との関係、臨在が自分から遠く離れて行く要素だと神が警告している通りに聞く事が神の中に安全に守られる秘訣です。
神の教えをどんな意味でも度合いでも捨てるように教える
教えこそが、別の福音=危険!と聖書から確認してみて下さい。
Shabbat Shalom
シャバット 新月 祭りを祝うことはイエシュアの実態そのものを皆で体験して祝う祝福であるのに、それを呪いだと教えられてしまう悲しさ。。。。人は神の言葉に無感覚になるほど
神との距離が出来、人の教え、宗教の教えで喜びが薄れ
神との純粋な関係を味わえなくなり、宗教のルーテインをこなす
ものと変形して行くのでしょう。
シャバットや祭りは美味しいご馳走、飲み物、そして人!
楽しい交わりの時が付き物です。
それは、全て神がどんなに良いお方であるのか、神の前に
食べ物、飲み物、楽しいひと時を親しい仲間と喜び楽しむ中で
神がどんなに良いお方であるのか知るため!と書かれています。
親なら分かるでしょう。子供に最大限の喜びを与えたい。
その中身をその意味通りに味わってほしい!
