今日は週一度の”永遠に祝われるべき”わたしの記念日”と
神が人類に紹介しているシャバットです。
聖書に書かれた本物の”シャバット”=止まる日の記念日とは、
第七日目であり、それ以外の第一日目〜第六日目は聖書では
普通の労働日として紹介されています。
歴史の途中で神の記念日は一度も変化していない事実だけが
聖書に書いてある真理なのです。
人が神の記念日を作り出し変えても、神は永遠から永遠に
神の記念日を変え無いと神の言葉で紹介していることが
聖書で語られている本物の真実です。
これから秋の一年の締めくくり、再臨を表す預言的祭りが
やって来ます。
この秋の祭りは、地上でまだ実現していない祭りです。
イエシュアの業を表すもの、福音の中心を表すものです。
神の祭りは週一度のシャバットは第七日目ですが、
それ以外の祭りは、月の1日=新月とそして、第一の月の
15日、第七の1日、15日など、聖書の暦は、月の何日と言う
日程で表されており祭りの曜日はその年、その年違うものです。
だからイエシュアが処刑された年の過越の祭りも
何曜日から始まったのか不明なのです。
2021年の秋の祭りの日程
ヨム テルア ショーファーを吹き鳴らす日
9月6日月曜日日没から8日水曜日日没まで。
ヨム ハ キプル 大贖罪日
9月15日 水曜日日没から16日 木曜日日没
仮庵の祭り
9月20日月曜日日没から27日 月曜日日没まで
春の祭りは、”過越”から始まり、シャヴオートで終わる
一連の祭りです。
クリスチャンの世界は、イースターと言う聖書には存在しない
異教の女神の名前で神の記念日を別の名前に変えられてしまった一部の要素しか祝われていません。
聖書に書かれている神が作られた記念日、春の祭りは、
”過越”=贖い、救い=イエシュアが処刑された
出エジプトの鴨居に塗られた子羊の地、奴隷脱出して
贖い出された事を表す祭りからスタートします。
罪がそぎ落とされた=義とされた事実を”種無しパン”を食べる
7日で表しています。
そして、過越から3日後、”初穂”=大麦の穂を捧げる日=
復活された事実、新しい命にされている事実は、イエシュアが
地上で復活する前からちゃんと地上で祝われている日、
これが本当の復活の祭りなのです。
それはイースターと言う名前で呼ばれる記念日ではないのです。
その日は種無しパンを食べる=除酵祭と言う日本語で表されている、”マッツア”種無しパンを食べる週の真ん中で祝うのが
神のデザインされたオリジナル本物の祭り日なのです。
そして、過越から7週間=7回のシャバットを経て祝うのが
”シャヴオート”の祭りであり、ペンテコステ=第50、過越から
第50日目に当たるのでギリシャ語ではペンテコステと訳されて
いるのです。
ヘブライ語ではシャヴオート=週と言う名前の複数形であり
この中でシャバットと同じ意味の言葉、要素である言葉が
あるのを発音を聞いただけで気がつくと思います。
シャヴオートは”永遠不変の神の婚姻契約”をシナイ山で受け
取ったことを祝う日なのです。クリスチャンの世界では
シャヴオートが何の意味で祝うのか教えられていません。
神の記念日の性質意味は永遠に変わらないのです。
全ての祭りは、シャバット=第七日目のシャバットが中心!
なのです。神の創造された事実!それが人間の生きる原点!
だからです。創造が完了された!神が作られた全ての中だけで
人は生きる様に造られているからです。
神の記念日を一年のサイクルの中で、毎週シャバットを祝い
そして新月、神の祭りを祝うサイクルが神の創造された
祭りの祝い方なのです。新しくされた人が成長するプロセスを
神の言葉に根付いて生きることでもあるのです。
詩篇1章はそれを表している教えです。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
ダビデが賛美、賛歌、主の日、礼拝、この日、祝う=などと
書いてあれば、それは全てレビ記23章の神の記念日を祝う事に
まつわるものなのです。
預言書には、再臨以降は、イエシュアがエルサレムから世界を
統治する時代が来る事が書かれています。
全ての人は神の教え=トラー=婚姻契約に書かれた生き方を
すると書かれています。
クリスチャンの世界ではこの事実を教えられることが無いと
思います。なぜなら、神の言葉は終了した事になったとする教えをされているから、人の教えが聖書の記述とは辻褄が
合わないからなのです。
聖書の事実と人の考えた教えを聖書に基づき区別して
神の語る真実だけに立つことに軌道修正=悔い改めをしなくて
はならないのです。
大贖罪日は個人だけではなく、神の国の市民全て全体が神の前に大軌道修正をする日です。軌道修正とは、神が伝える教え、
神が伝える人の性質とは違う生き方をして来た、その全てを
軌道修正する=これは、神の教え=モーセの五書に照らし合わせない限り出来ない事なのです。
福音書〜黙示録に照らし合わせる?それならその中身は100%
モーセの五書であり、しかも福音書〜黙示録にはトラーのほんの
一部の抜粋しか記述されていないのです。
聖書をひっくり返してみれば、福音書〜黙示録は聖書のたった
30%です。その中身はトラーしか書かれてない。
その詳細はモーセの五書の中に記されているから2度も繰り返し全部の中身を書いていないのが、福音書〜黙示録の特徴なのです。それらは全て100%タナック=トラー、預言書、諸書の
短いコメンタリー、短い抜粋された解説のみだからです。
だから最初の部分をしっかり知らないと詳細が見えないのです。
自分で考える神の教えとはずれた生き方=それは道徳的な事は
分かるでしょう。
人に不親切であるとか、自分勝手である、態度が悪い、
人との関係の中で反省する部分があるなど。又は神の教えを信じていないで、神を疑っているetc etc色々と あると思いますが、
本物の根底からの軌道修正は神のトラー=神の言葉に照らし合わせて行う以外は人は出来ない!と言う事実があるのです。
自分勝手な軌道修正は神の前には意味が無い事だからです。
祭りを祝うと言う意味は、一年を通してシャバットを祝うと言う
事なのです。エデンの園から出て、そして1世紀の福音書以降の時代の人たち、ユダヤ人、異邦人、イエシュア信者達、皆
イスラエルの神を信じる人達は、レビ記23章の記念日を祝って
いた事実だけが聖書には書かれています。
1世紀のユダヤ人、異邦人イエシュア信者の中で、神の言葉に
敵対心を持ち、神の言葉が廃れて無用である、神のトラーを
完璧に生きるなどと言うのは呪いであるとか、神の言葉を
生きられないなら呪われているので、その呪いから解放された
などと言う考えをしている人は誰一人として存在しないのです。
クリスチャンの世界で教えられる、神の言葉は呪いの律法で
廃れて解放された!などと言う人間の教えは存在していない時代!!!神の言葉に対して、変化、終了、破棄された!などと
考える人は誰一人としていない世界である事実を知って下さい。
私たちは聖書ではなく、西洋教父たちが反トラー、反ユダヤ主義の思想を持ち込んで聖書に書かれた事実を様々に変えてしまった
教えを土台とした思想を通して聖書を読んでいる事を西洋宗教
歴史の事実から知らないとならないのです。
神の言葉=トラーを否定した教えを土台とした”ニカイア会議
使徒信条”には、イエシュアが地上で生まれて昇天するまでの
間、何を教えて生きたのか、その事実が完全に抜けています。
それはイエシュアが100%モーセの五書を教え、それを生きる
様に教えていた事実を人に伝えないためでもあるのです。
昇天以降は、モーセの五書を否定した教えをしている!と
言いますが、聖書のどこにもそんなことは一度も書いてないし、
パウロや使徒たち、1世紀当時の人達は、全て100%
モーセの五書を生きて、シャバット、新月、春と秋の祭りを
祝っていた事実しか書かれていません。
神の言葉を否定する教えは、手を変え品を変え、
聖書の記述を人間の教えで曲げて解説しています。
信仰の土台の前提が人の教えなのか、神の教えなのかで
別物の教えが出現しているだけなのです。
続く