パウロが語る”信仰は律法によらない”と言う意味は、
神の国の一員になる、義とされる、神の国での法的立場は、
神の国の一員としての座席確保は、トラーを行ったから得られる性質のものではない!トラーを行っても信仰による義を聖霊を
得られない!改宗儀式をしたり、たとえ神の言葉を、義とされる目的のために実行しても、聖霊を内側には受けることには繋がらない!と話しているのです。
これは新生体験したクリスチャンなら容易に理解出来る内容
です。人が神の事実に気がつけるのは、内側に聖霊を得る事
それだけです。神の言葉や、修行や、改宗儀式をしても
聖霊を受けられない、義とされている事実には、聖霊が示す
内側の深い理解納得で理解出来ない。信仰により聖霊を内側に
受ける事がなければ、神の真実には気が付けないからです。
信仰さえ、神から与えられた無償のギフトです。
信仰が与えられ、神の真実に目が開かれた!
ある時神の真実=イエシュアに気がついた!と言う事だけです。
聖霊が自分の内側に無いなら、神の教えの理解は、神の言葉を
文字通りに読んだとしても違う理解になるでしょう。
神の言葉を聖霊を受けていない状態で、普通に読んだらその人の理解と、聖霊を受けている人、目が開かれている人とは違うのです。クリスチャンの世界でも語られる通りの、神の教えは”ただの掟リスト”にしか見えない、意味不明な神の言葉にしか見えない
と言うのは、神の伝えている通り、永遠普遍の神の言葉であると考えないからです。幕がかかった盲点がある!と言う事に
気がついてください。聖霊を内側に受けても全部が見える訳では
無いのです。神の言葉の真実に根付いて考え続けて、聖書を読み続ける時、神がどんどんどんどん先へ広く深く見せ続けて
下さるプロセスがあるのです。だから一生涯かけて神との関係を
神の言葉に根付いて生きて育むプロセスが聖書の最初から最後
まで書かれているのです。
聖霊が内側に無い=新生体験がない状態で、神の言葉だけ字ズラを読んでも、それは命=新生体験を自分にもたらさない
でしょう。返って”責め”を感じるだけです。
その事をパウロが話しているのです。
改宗儀式をしても、神の言葉を分からないまま生きても、
聖霊を得ることは出来ません!順序が逆。
神の言葉をその通りに信じて受け取り、聖霊を受けた=信じて義とされた事実を内側に得て初めて、神の教えを生きる事を聖霊により導かれ始める事が出来る様になる!と聖書には書いてある、その事実を見逃さないでください。
パウロの論点は、逆をしてはダメ!特にラビ達の編み出した
改宗儀式は、義や聖霊を受け取る事実に導きません!と言って
いるのです。そんなずれた意識で、ずれた行動をしてはダメ!と言う事を言っているのです。
パウロが割礼を禁じています!と言う事を言う教えがありますが
パウロが禁じているのは、ラビ達の編み出した”改宗儀式”をする事であることにパウロの書いた事実を戻して下さい!女性には
割礼はありませんが、改宗儀式はあるのです。現在でもあります。男性はその儀式の中の1つに肉の割礼ももちろん入っていますが、ずれた意識でそんな事をしてはダメ!意味が分かってないのに”肉の割礼”だけやった所でそれも無意味!と言う事を言っているだけなのです。肉に割礼をしても頭脳に割礼がないなら本末転倒、見かけだけ、形だけあっても意味ない!
クリスチャンの世界で言えば、何も分かってない、新生体験も
してない人が、洗礼=水に潜っても意味がない事は理解出来るでしょう。それと同じことをパウロは言っているのです。
トラーや人の教えを生きて、義とされる事実=聖霊を受け取る事は出来ない!と言う事。水に潜って義を得ようとか、改宗儀式をしてもあなたの内側の状態=中身は変わりません!と言う事です。パウロのガラテヤ書での論点の中核が見えますか?
モーセの五書は終わり!神の言葉は生きる必要がないと説いた
1世紀後半から出てきた教え、西洋教父たち、マルキオンや
ルターやダービーの教え、神の教えをどの部分でも否定、終了したとする教えを全部削除して永遠普遍と神が宣言している神の言葉である事実にだけ立って聖書を書いてある通りに読み直してみてください。
神の聖霊、義とされる事実を行いや改宗儀式で得られると
考えている、そんな意識で居る事は、神の臨在が無い状態=
呪い=かけ離れた姿、状態ですと言う事なのです。
そしてそれからがローマ10:4に繋がるものなのです。
12節の、義とされた人は、神のトラーを生きる!。
ガラテヤ3:12律法は信仰に基いているものではない。
<義とされるため、神の国の一員になるのは律法=改宗儀式、
又は神の言葉をやることでは得られない。新生体験=義=聖霊を
受けている事実は何かをやっる事に基づいて得ているのではない。
この箇所を、トラー=神の教えを生きる事は信仰に基づく考え、行動ではないと読み違えてはならないのです。
パウロの論点を把握して読まないとならないのです。
順序が逆、性質が違う事、救いを得るために人の教えや
神の教えを行動すると言う的外れな事をしても無意味!と
言うことを言っているのです。
信仰=義とされる事は、行い=人の教えや神の言葉を生きる結果として得られる性質のものではない!と書いてあるのです。>
続きを読めば分かります。はっきりと神のトラーを生きる人は
神の教えに沿って生きると書いてあるのです。
ガラテヤ3:12かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。<トラー=神の教えを生きる人は、神教えに
よって生きるのである。>
イエシュアに出会った。義とされた=聖霊を受けた。
その人達は、神の教えを生きる!と書いてあるのです。
ローマ10: 4<新共同訳>
キリストはトラーの目標であります。
信じる者すべてに義をもたらすために。
<目標=WWJD イエシュアがお手本=目標としてトラーを
生きた=それが目標、人が照らし合わせる生き方、モデルです!と言う事>
10:5モーセは、トラーによる義について、
「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
<ハバクク2:4の引用=ガラテヤ3:12に同じ引用がされています。レビ記18:5にも繋がります。>
聖書の翻訳での臭い箇所の良い例です。
この様な翻訳読めば、読んだだけで、神は律法を終わらせたのだ〜などと誤解しますよね!ギリシャ語に書かれている意味とは全く違った本質、内容、本来の意味を伝えていない残念な
翻訳です。この様な翻訳をするのは、トラーは終わりと言う
ダービーやルターの教えを信奉している人が翻訳すれば、
神の言葉が終わりと言う風に訳してしまうのです。
翻訳では、本来の意味を変形させたり、埋もれたりするのは
簡単な事ですし、しかも非聖書的思想を信じる場合は
その人の思想に則って翻訳されてしまうよい例だと思います。
<口語訳>
10:4 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、
律法の終りとなられたのである。
<こんな翻訳を読むと、モーセの五書=律法は終わり!と
早合点してしまうのです。新共同訳とはまるで違う翻訳だと
気がついてください。>
10:5 モーセは、律法による義を行う人は、
その義によって生きる、と書いている。
神に贖われた人=義とされた人達の生きる特徴は、神の言葉
教えにぴったり合った生き方、それらが神の子らの特徴なのです。パウロはその事実を強調しているのです。
最初に信仰により義とされた!
トラーをやったらから義とされたのではない。
これが聖書に書いてある事実であり、パウロがガラテヤの人を
別の福音の教えが違う!と諭している点なのです。
トラーを最初にやったから信仰=聖霊を内側にもたらしたのではない。トラーは信仰ではない=トラーを生きてもそれは聖霊を
内側にもたらす事にはならない!と言うのはそう言う意味です。
そして、聖霊を内側に受けた人は、今までの生き方、異教の神々の国々の習わし、生活習慣全てから切り離された生き方、
神が教える、神の子らの性質、それは衣食住全ての領域に渡り
聖別された人達の生き方を神の言葉から教えるから、
それらを生きるのが本当の人間の生き方=神の性質に似せて
作られた本来の人間の生き方ですよ!と教えているのが
モーセの五書に書かれた人間の生き方の詳細なのです。
クリスチャンの世界では、神の教え=トラーを律法で
廃れたと教えているのです。神が永遠にガードして寝ても覚めても常に思い巡らし、子供達にも熱心に教えよと言う神の言葉を
捨てよ!とクリスチャンの世界では教えているのです。
だから福音書に書かれたトラーの短い教えだけを取り出して
元の意味、詳細を学ばないのです。
イエシュアがパウロが教えている内容は100%トラーであり
その詳細は、モーセの五書を学ばない限り深掘り、奥は
見えてこない様になっているのです。
レビ記18章に、”イスラエル”と言う契約の民の大家族に
加わった人達への教え、インストラクションが書かれています。
異教の神々の国々の人と同じ習わし、生き方、ライフスタイルを
継続してはならない!
レビ記18:1 主はまたモーセに言われた、
18:2 「イスラエルの人々に言いなさい、
『わたしはあなたがたの神、主である。
18:3 あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。
18:4 わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
18:5 あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、
これによって生きるであろう。わたしは主である
"人は神の口から出た一つ一つの言葉=トラーで生きる”
は永遠に真実な神の教え、インストラクションなのです。
続く