ガラテヤ 3:12 聖書翻訳の臭い箇所を検証する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ3章を読み進めるために、クリスチャンの世界で教えられている、”律法”=本当の意味は、神の言葉=教え、インストラクションは、呪いで縛りの廃れたものである!と言う思想や

教えは、1世紀当時、パウロ達が福音書以降を書いている

その時代に生きていたユダヤ人、現代のユダヤ人、トラーを

永遠不変であると知っている異邦人イエシュア信者達、

そしてイエシュア信者、ユダヤ人、異邦人含め、神の言葉を呪いの律法、廃れて終わり、キリストがトラーを破棄しに来たので

昇天以降は神の教えを生きる必要など無いなどと言う西洋人の

作った教え=神の言葉に敵対した教えを考えている人など

誰一人として存在さえしない世界!ある事実を知って下さい。

 

クリスチャンの世界では、神の言葉を否定する思想、神の言葉が

ある部分は変化した、破棄されたと言う教えが一般的にされていますが、その思想は、神が伝える神の永遠不変である言葉の性質を完全否定する人間の教えに過ぎないのです。聖書だけに戻り

一人一人がじっくり丹念に神が神の言葉、教えに対して、

何と解説しているのか、人の教えや神学ではなく、

聖書の事実からだけ確認する必要があります。

 

そして、パウロがガラテヤ書でガラテヤの群れに諭している

問題点、内容、論点は、別の福音〜”律法の行い”と呼ばれる

ラビ達が編み出した教え、特に異邦人達に対して、ユダヤ人と

なる改宗儀式を経なければ、神に正式には受け取られていない、

天の国の一員、そしてユダヤ人達の仲間として認められないと言う、イエシュアがされた業=アヴラハムを通して与えられた

無償のギフト=義とされている事実を否定する教えをしていた、

当時のインフルエンサー達の教えに対して、それはトラーの教えとは違う!と言う事をパウロが諭しているのです。

 

クリスチャンの世界では、パウロが”古い律法=モーセの五書”を生きる事は、呪いであると解説していると勘違いしてパウロの

書簡を読んでいるのです。そんな事パウロが教える訳などない、天地がひっくり返ってもあり得ないと言う事を、神の言葉=

トラーを知るユダヤ人なら、聖書に書いてある事実通りに読む人なら誰でも容易に理解出来るのです。

 

そして、クリスチャンなら誰でも理解出来る、信仰の始まりは

100%”神の側から人にアプローチして下さり、信じると言うその信仰さえも、神が与えて、神の真実を受け取れる様に仕向けて下さった。”救い” ”贖い” ”義”とされている事実は、一方的に

神だけにより与えられたものであり、人が神の教えをやったり、ガラテヤの問題の場合は、まして人が作った改宗儀式を経たから救いの事実を受けたのではない!!と言う事実をはっきり捉える事をパウロが話しているのです。

 

そして、義とされた人は、聖霊を内側に受けているので、

”贖い出された人達”は、神の家族の一員とされているので

神の性質=イエシュア=トラーに書かれた神のデザインされた

本来の人間の性質を聖霊に導かれて神の言葉を生きる!と言う

神の言葉の事実から目をそらさないで考えないとなりません。

 

クリスチャンの世界で教えられているのは、

信仰により信じた!だからその人達は呪いの律法から解放され

神の教えは生きる必要がないなどと言う、神の教えとは真逆な

人の作り出した教えを神の言葉を否定して信じてきってしまっているのです。

 

ガラテヤの群れに蔓延していた教え=改宗儀式=割礼と名付けられた、アヴラハムの割礼とは意味の違うユダヤ人になる改宗儀式をしなければ、神に受け取られていません、義とされていませんと言う別の福音の教えをパウロが正しているのです。

 

これは16世紀の中世に蔓延ったカトリックの教えと比べて

見れば分かると思います。

ルターは宗教改革者としてクリスチャンの間ではヒーローと

して讃えられる人ですが、ルターが当時のカトリックの中に

あった教え、ガラテヤの中にあった別の福音と同じ性質の

数々に対して反抗した訳です。

 

1世紀後半以降、中世など当時個人個人の手元には聖書は無く

パウロの様なユダヤ人教師からオリジナルのヘブライ聖書を学ぶ教育もなく、神の教えとは異なる様々な教えを作り出し西洋司祭

達の教え=聖書では無い教えを続けて、腐敗していたのです。

 

その一つに、免罪符と言うものがあります。

免罪符と言うものをお金で買えば、あなたの罪は軽減されますと言う、これこそガラテヤの中にあった別の福音と同じ本質性質の

ズレがあったのです。罪は人が発行した免罪符をお金で買えば

許されます?と言う教えは聖書では無いですよね。

イエシュアがされた業=永遠の中から用意されていた神の救済策のみで人は贖い、救い出され、許され、新しく義とされている

事実があるだけです。

免罪符を買うと言う行為で許されると言う思想が、非聖書的と

言う事を16世紀のカトリック信者は気が付いていない人が居たと言う事なのです。

聖書に書いてある神の言葉を知らなかったからです。

聖書に書いてあっても気が付けないと言うのは、人の教えを

聞き続けていれば、非聖書的教えが聖書なのだと思い込む!

同じ事なのです。今のクリスチャンは聖書が手元にあります。

臭い箇所に気が付きながら、永遠不変の神の言葉!と言う事実

だけに立って読めば、何が非聖書的聖書翻訳なのか見分ける事は

出来るのです。神の言葉を否定する教え!それら全て100%

非聖書的人の思想で神の言葉の意図を塗り替えられた教え!

だからです。

ガラテヤの中の別の福音とは、救われた、義とされた事実は、

”信仰により神のされた業を受け取った”その事実だけなのに、

改宗儀式をしないと認められてない!と言う別の福音です。

罪の赦しも、イエシュアのされた業を受け取り、ズレを神の前に修復し、同じズレを繰り返さない様に神の教える生き方に戻る!

それだけですよね。

 

神の側でしか出来ないこと、人間は神のされた業を受け取る以外

にない事を、ガラテヤで言えば、”改宗儀式”をして神の国の座を

得ると言う教えをされ、16世紀で言えば、免罪符を買わないと

罪は許されないと言う非聖書的な教えをしていた。

同じ性質です。

 

パウロのガラテヤ人へ対しての教えの論点をしっかり把握して下さい。

1 義とされた、神のされた業に気が付いた、

イエシュアを救い主と知った人=聖霊を内側に受けた事、

それらは100%信仰により受け取った!

このスタートがまず第一です。それは、何かをやったから、

改宗儀式をやったから得たのではない!聖霊は人の教えを行ったり、神の教えを行ったり、又はお金で買えるものでは無い。

 

2 そして目が開かれて救われた事実を知り義とされた人、

聖霊を内側に受けた人は、神の教え=トラーを生きる!!!

 

この順序が逆になることはない!とパウロが話しているのです。

信仰により新しい命の生活が始まる。新しい命に移行した人は

神の教え、インストラクションを生きる。

神の教え、インストラクション=モーセの五書に書かれた

イエシュアの性質=本来の人間の生き方=イエシュアが生きられた性質、詳細=トラーを生きる!と言う聖書の事実から離れないで考えて、ガラテヤ3章を読み続けるのです。

 

ルターが主張した信仰義認と言う事実は聖書とぴったりあっています。でも信仰義認された人は、神のトラーを生きる必要ない!

と言うルターの主張は反聖書的思想です。ルターは”反トラー

=モーセの五書を生きることに反対した教えをした人です。

信仰義認は聖書から読み取ったのに、神の子らは神の永遠不変の教えに根付いて生きる真理を、聖書からは読み取れなかったのでしょう。

ルターは晩年、反ユダヤ思想を編み出し、ヒットラーに呪いの下にあるユダヤ人=トラーの教えを捨てないユダヤ人を全殺戮=

ホロコーストを実行する手がかりを与えてしまう大罪を犯してしまったのです。ルターは悪魔に身を売った様な書、

”ユダヤ人と嘘”と言う本まで書いています。

反ユダヤ思想=反神の言葉思想、それは反イエシュア思想だからです。純粋に良かれと考えている事が、実は神に敵対し、

神のみ名を汚し、神の民を迫害し、実際に神に反する行動を

知らないまましてしまう、それは神の語る永遠不変の言葉で

あると言う事実に純粋に無知であったからなのです。

 

ガラテヤ 3:12 律法は信仰に基いているものではない。

かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。

律法=トラー。パウロは神の教えと、ラビ達が作った口頭トラー

の両方を混ぜならがら解説しています。

 

この箇所で、最初の文と最後の文では辻褄が合ってない事を

翻訳でも気が付くと思います。

パウロは順番を話しているのです。信仰により聖霊を受けた人=

これはトラーを行ったり、ラビの作った改宗儀式で得られる

性質のものでは無い!信仰によりただ受け取る事が出来る性質!

そして信仰により義とされた事実を聖霊により気が付いた人は、

トラーを生きると言っているのです。

 

パウロが語っている内容を原典原文通りに読みます。

原文では、”しかし”=デ と言う言葉で始まっています。

11節に書かれている前の内容と12節の解説は繋がっているからです。

ガラテヤ3:11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。
なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

パウロが引用しているのは、ハバクク2:4です。

”見よ、その魂の正しくない者は衰える。

しかし義人はその信仰によって生きる。”

 

パウロがここの節で強調しているのは、”必要不可欠な要素は、

神の契約の中にある神との関係!”を話しているのです。

それは、信仰により受け取れる!それだけ!行いにより受け取れるものではない!人種別にし分けるのも神の教えではない。

それに反して、当時のラビ達、別の福音を語る教えは、

逆を教えている、違う性質を教えていたのです。

行い=改宗儀式や様々な教えを生きる事で受け取る!と教えて

いたからです。特に異邦人に対して。

ユダヤ人はユダヤ人であるだけで、神の国の一員と認められる。

異邦人は、生まれがユダヤ人ではないので、ラビ達公認の改宗

儀式を経なければ、契約の民の一員には成れないと言う教えを

していたのです。神の福音は、アヴラハムを通して与えられた様に人種に関係無く、信仰により神の真実を受け取った人!

その人達は、ラビの改宗儀式をしたり、神の教えの何かを

こなしたからその事実を得たのではない!と言うのが

神が語る真理なのです。

 

続く