宗教改革者と呼ばれているルターも含め、それ以前の1世紀後半から人間至上主義思想の時代16世紀〜19世紀を経て、現代に至るまで、神の永遠不変の言葉=教えに対して、異邦人信者の
世界の中では、こんな思想を蔓延、浸透させて行きました。
”信仰義認”と言う箇所は正しい解釈ですが、モーセの五書が
廃れた終わりだとするルターの教えは、2世紀にマルキオンが
唱えた反聖書的反ユダヤ思想に基づいた教えであり、
この思想は、19世紀にデイスペンセーション神学を作った
ダービーにも引き継がれてしまい、アメリカでダービーの弟子である弁護士職であったスコッフィールドと
言う人が作った人間の教えの解釈をコメンタリー=神の言葉は
時代ごとに違うと言う思想を入れた”チェーンバイブル”と言う
ものが作られ出版され、20世紀に爆発的にその教えが支持され
浸透してしまった非聖書的学問神学を元にした思想を
クリスチャンの世界では主流に聞かされているのです。
これらの神学や思想が聖書とは異なる教えである事実を
クリスチャンの間では全く教えられる事などないのです。
”廃れた” ”破棄、撤廃された” ”無効” ”現在生きる必要無し”
”呪い” ” 縛り” から解放された。
”神の言葉を生きる人は恵みを捨てた生き方をしているのだ”
”律法に戻るのか?!”と言うスローガンを聞き続けています。
"神の永遠不変=神の私たちへの愛の鎧兜である、イエシュア
ご自身である神の言葉に敵対する意識を刷り込む思想”です。
人が編み出した教え=神の言葉は破棄され、変化したと言う神学
思想哲学を信じる人の教えだけ、そればかりを聴き続けていれば
それが聖書だと思ってしまうのですが、神の言葉に対して
神は人に何と説明し、教えているのでしょうか?
”神と神の言葉は永遠に変わらない!”と聖書の至る処で語って
いるのが神の性質と神の言葉の真実なのです。
”全部で1つ丸ごとである永遠不変である神の言葉道徳、
市民、儀式の律法”と異邦人の教えでは3つに仕分けて分解し
それぞれ個人が大事だと思う事を分別し分けて良いと教えます。
神が教えている事とは真逆の教えを教えているのです。
神の言葉のどの箇所も一点一画も、どの教えもないがしろにしたり、捨てるなかれ!とイエシュアの口からも直接言われているのにどうしてそんな教えを作り出して人に教え続けるのでしょう?
神の言葉に敵対する教えに傾倒した人達の教えを伝統的に
伝承し続けているからです。神のトラーが呪いで律法で廃れたと
聖書に書いてもない教えを信じてその教えだけを聞き続けて
しまっているから、次世代のクリスチャンに非聖書的概念が
継承され続けてしまっているのです。
今現在は神の言葉を自由にpick and choose !で勝手にやると言う教え””霊に導かれるから神の言葉は要らない”と言う
教えがクリスチャンの世界で教えられているのです。
神=霊と神の言葉は一体なのです。
神の言葉こそ人が神の実態と人の生きる詳細を知るすべを
神から与えられている!と言う事実に完全盲目なのです。
神の言葉を捨てるなら、それならどの宗教でも、どの神々でも
何の霊に導かれようと自分の感覚に頼る信仰を奨励しているのと同じ事です。聖書のちょっとした教えに自分が勝手に解釈や
色つけして生きる事になってしまいます。
目に見えない神=言葉=見ずに神が伝える言葉を信じる者は
幸いとイエシュアも言われたのです。
聖霊により書かれた神の言葉=神の言葉は神ご自身であると
聖書に書いてあり、言葉=イエシュアが地上に来られたとまで
ヨハネが書いていても、何が聖書で語る言葉と言う意味が何なのか分っておらず漠然と字面を読んでいるだけだと思います。
言葉=神のトラー!!!=父の教え=婚姻契約=はじめの愛=
モーセの五書と言う意味が聖書の定義なのです。
言葉=約束とも訳されいますが、”ダヴァル”神が発した言葉は
即座に永遠普遍の神から人への約束だから約束と訳されている
箇所があるのです。裏のヘブライ語は言葉です。
言葉を意味するものは、トラーなのです。
この様な思想哲学神学を信じた最初から聞かされ、又は神学校の
講壇や説教の中で聞かされ、学べば、神の言葉に対して廃れた
古い呪いの律法、悪い教えと言う意識が形成せれてしまい、
神ご自身が語る神の言葉の性質とは違う教えを完全に頭脳に
インプット定着させてしまっているのです。
”わたしを愛する人は、わたしの戒めを守る"と書いてある意味は
わたし=イエシュアを愛する人は、トラーに書かれた教えを
シュモー=ガードして生きる!とイエシュアが言っていても
神が語る事実とは別の意味にしか聞こえていないのです。
ヘブライ聖書、オリジナルの神の言葉に書かれている
神の言葉が語る意味が見えてないからです。
戒め、さとし、仰せ、etc etc etc は漏れなく全て100%
モーセの五書=トラー=婚姻契約の中に書かれた人間の性質を
生きる詳細を指して語っているからです。
当然ながら聖書を満遍なく、いやオリジナルの聖書に書かれて
いる内容など教師でさえも知らないし、学ぼうともしない
だからヘブライ聖書の中身など異邦人の世界ではほぼ誰も教えないまま現在まで来たのは、神の言葉をクエスト=探求、慕い求めて知る、生きる意味なし!と言う人の教えを信じているからだと
思います。神は寝ても覚めてもわたしのトラーを思い巡らして
生きよ!と教えています。
神=言葉=霊なのに、人は神が伝える言葉の中で神の実態を知り
実生活でそれを体験するのに、神の言葉が伝える事実が分からなければ何を信じているのか信仰の土台となる根拠が無いと
言うことになるのです。
どうして自分が救われているのか、神との関係にある、
神の助けがある、その永遠の保証はどこに書かれていますか?
全てがトラー=モーセの五書の中に書かれているのです!!
それ以降の聖書のどの書もどの箇所も全てモーセの五書を指して語っているのです。その事実をまるで無視した教えが世界に
2000年近く蔓延しているのです。
異邦人の世界での聖書解説は、ほぼ100%組織神学、
デイスペンセーション神学や置換神学など、人の教えを通して
語る聖書解説であり、聖書のある箇所だけを取り出して、
聖書に書いてある内容を聖書から神の言葉自身に語らせるのではなくて、聖書を用いて神学が語る思想を聖書箇所を利用して
自分の考えや思想を語ると言うスタイルが殆どです。
ローマ、ガラテヤ、コリントなどパウロの書簡の中に書かれて
いる、それぞれの地域での問題は多少異なれどパウロは
相互に同じ本質の内容を語っているのです。
パウロの書簡はクリスチャンの世界では多大に誤解されて
曲解され、パウロが語っている事実とは全く違う解説しか
されていません。
オリジナルテキストに忠実に書いてある意味通りを、
ガラテヤ書で言えば、当時のガラテヤ人のグループ、南、北に
あったグループの中で、悪影響を与えていた教え=別の福音を
放り込む人達に影響されて”ユダヤ人になる改宗儀式”=プロセライト=割礼と言う名前が付けられた、アヴハムの割礼とは違う
ラビ達の儀式をしなければ、救われていない、義とされていない、天の国の一員になれないと言う、神の語る真理とは別の教えを聞かされていた事への、パウロの警告であり、どうしてそれが
別の福音なのか、神の語る教えと別の福音の本質の違いを
パウロが解説していると言う事実を把握して読み直すのです。
そして同時に、モーセの五書を学ばない、神の言葉の中身を、
意味、内容、性質を知らない人達には通じない内容がたくさん
書いてあるのです。だから尚更、元の意味を知り、
注意深く考えながら、パウロが意図して書いている通りに
読まないとならないのです。
イエシュアの言葉からも、パウロの書簡からも同じ事が書いて
ある事実があります。
わたしを愛する人は、わたしのいましめを守ると言う言葉と、
ガラテヤの中にあった問題点とぴったり繋がる性質があります。
アヴラハムの契約=義とされている事実は100%神の一方的なギフト、提供したものである!と言う事実があるのです。
そして、無償で”義”=救い、贖い、神の国の一員とされた人は
”神の教える、人間本来の神の性質に似せた作られた性質=トラーに書かれた人間の性質を生きる!”と言うこの二つ事実を
はっきり捉える必要があります。
ガラテヤの中に蔓延していた別の福音とは、この基本中の基本、
義とされる=神の子とされるには、逆をしなくてはいけいないよ教えていた教え=別の福音の事なのです。
人が神の言葉を生きるのは、救われている事実=聖霊が内側に
住まわれている事実=義とされている事実に自分が気が付き、
信仰によりそれを信じた事実を得ていると言う大前提が最初なのです。神を信じた、だから神の言われる教えに聞いて、神が言われた通りを生きる!と言うことは神の子らの基本中の基本の生き方なのです。内側に住まわれる聖霊=神の言葉と100%マッチするから人は神の口から出る一つ一つの言葉=トラーを生きる!と書いてあるからです。救われた人は神の言葉を生きる必要がないと言う教えは、救われたら勝手な教えを生きて神が伝える神の教え無視していいよと言う反聖書的教えであることに気が付けないのは聖書を書いてある通りに学んでいないからです。
この2つの違いに注目して考え続けてください。
自分が救われた時のことを考えたら分かると思います。
救われた事実に気がついた、目覚めたのは、神の真実に触れて
神の言葉に触れて”気がついた!”と言う時があるそれが始まりです。改宗儀式をしたり、救いを得るために何かをしても
聖霊が内側に住まわれる事実を得ることはできない!それを
パウロが話しているのです。信仰で受け取る=義とされた人は
神のトラー=教えを初めて神の霊に導かれて生きると言う体験に
入る!この違いをずっと考えればパウロが語る内容が見えます。
クリスチャンの世界の教えはこれを誤解して、救われたら神の
教え=言葉=トラーを生きる必要がないととんでもなく勘違い
した教えに飛躍させた解説しかされていません。
そんなことパウロは一度も話してません!
聖書=パウロの解説は、義は信仰でのみ受け取ることが出来る
性質のもの。それを人の業やユダヤ人になる改宗儀式を経て得ると言う教えは聖書ではない、別の福音!と話している。
そして、救われた人たちは、聖霊を内側に得ているので、
神の言葉=教えを生きるのは神の子らの性質であり、
神の家に加えられた人の生き方であると一貫して話しているこの事実に目が開かれればガラテヤ書を正しく読み直す手がかりになります。
続く