その2 誤解されている箇所 続き ペテロは元祖ローマ教皇?パウロもキリスト教に改宗? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

一般に考えられている、イエシュア が来られた後”教会”と言う

ものが初めてスタートし、それは異邦人が中心で、異邦人が

新しい契約を受け取る代表者であると誤解されて解説されている箇所があります。

 

マタイ16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。

16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと

言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、

また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者も

あります」。

<人の子の定義が、預言者であるのだと考えていた人もいるのです。ユダヤ教の中でも、人の子=救い主とは時代ごとに与えられる預言者的存在であると信じている人もいるのです。>

 

16:15 そこでイエスは彼らに言われた、

「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。

16:16 シモン・ペテロが答えて言った、

「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。

 

クリスチャンの中の教えでは、ペテロはおっちょこちょいで

おチャラけたキャラクター、先ぱしりで落ち着かない性格であるかの如く語られているのを何度も聞いたことがあります。

でもそれは誤解です。ペテロは12弟子の中でどんな役割をした

存在なのでしょうか?イエシュアがいつもペテロに”質問”を

投げかけて、答えている場面に気がつくかと思います。

それは、ペテロの12弟子の中での役割は、イエシュアの右腕としてのグループのリーダー的存在だからです。

だからリーダーに質問がいつも一番最初に投げかけられ、

ペテロがイエシュアの問いに答えさせられているのです。

ペテロは12弟子の中で一番トラーを知っている

又リーダーの素質があった存在でもあったからです。

 

16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、

「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父で

ある。

バルヨナ=バル=息子 ヨナ ヨナ=鳩、ヨナの息子

シモン=シメオン=聞く、聞かれた、評判と言う意味の名。

 

16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしのエクレシア=ギリシャ語カハール=ケヒラ=ヘブライ語=神に呼び出された人々の群れ

を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 

この箇所を取って、ペテロがローマ・カトリック初代教皇に

なったと教えられたことがありますが、これも空想です。

ペテロもパウロ同様ユダヤ人であり、ローマ教の教えを信奉し

生きている人ではあり得ないことをまず知らないと

ならない箇所です。

ローマカトリック教が作られたのは、聖書が閉じられたずっと後の4世紀の事なのです。聖書に登場する人は、誰もローマ皇帝が

作ったローマ宗教の教え、トラーを否定し、様々に変えた教えや

レビ記23章とは別の記念日を作り、その記念日を生きると

教える宗教など1世紀の人たちは誰一人として知らない!

元祖ローマ教の教えは存在さえしていないと言う事実にだけ

基づき考えたら、人の作った伝統の教えの真実を覆う鱗は目から

剥がれ落ち、聖書に記載された事実に気がつくはず。

 

ペテロもイエシュアの真の弟子として100%モーセの五書=

トラーを信じ、生きて、教えたユダヤ人である事が

書かれているのが聖書の事実なのです。

 

あなたは ペテロ=Πέτρος=ペテロス=小さい石。

この岩の上=ペテロが宣言した”イエシュアこそが救い主である”と言う宣言の上=岩=この岩の上=πέτρᾳ=ペトラ=

イエシュアの上に、この岩=ペテロが正しく宣言した事実の上=”神”=イエシュア=岩=ペトラ大きな岩の上に、カハール=

エクレシア=呼び出された人の群れを建てると言われました。

 

2つの誤解がこの箇所のイエシュアの言葉の解説でされています。

1つは初代ローマカトリック教の教皇がペテロであると言う

誤解です。

2つ目は、この宣言で、初めて教会と言う別物のグループが

出現したと言う誤解。

 

教会と言う創作翻訳用語を一旦全部削除して、聖書の最初から

書かれている1つの大家族=イスラエルの神の大家族=カハールケヒラ=エクレシア=呼び出された人の群れと言うヘブライ語、ギリシャ語の本来の元の言葉の意味に戻す必要があります。

 

翻訳では本来の意味と最初から最後の迄同じ意味で語られている言葉の真意、繋がり一貫性1体性が失われてしまう良い例です。

 

カハール=エクレシアは、創世記からマラキまでは、集会や群と言う翻訳用語で訳され、同じカハール=エクレシアという言葉を、福音書〜黙示録までは”教会”と言う本来の意味が失われた

聖書には無い、元の意味を表さない人造翻訳用語に置き換えられてしまっているので、2つ別物のグループが出現したのだと

何も知らない人が読んだら、そう誤解してしまうのです。

最初から存在し継続している同じ1つの群れ=家族なのに別物と思わせてしまう翻訳トリックの効果なのです。神の家族は人種別=2つであると信じる人が聖書翻訳すると、この様な意味が

繋がらない別の言葉を使って前後の関係性が全く見えない、繋がらない訳を敢えて、神の言葉に対してされてしまう良い例です

翻訳での集会、群、教会は言葉は違えど同一の1つのグループ=カハールなのです。

 

ペテロの宣言の事実の上=この岩=イエシュアの上に、太古から継続している同じ”カハール=エクレシア”を建て続けると言う

本来聖書に書いてある言葉、意味に戻して考える必要があります。教会と言うタナック=トラー、預言書、諸書には使われない

翻訳造語を福音書以降で意図的に使うので、聖書に書かれた真実が翻訳を読む読者には伝わらず、聖書に書いてある通りの理解をこの様な不適切な翻訳用語で妨げてしまうのです。

全てはエデンの園の最初からの1つの同じ家族の継続なのです。

 

別物=教会と言う別物が出現した、又は使徒2章以降出現したという解説は聖書に照らし合わせれば神が解説する永遠から永遠に

エデンの中から出た1つの家族と言う意味とは全く別物になって

しまっているのです。

 

ピリポ カイザリアと言う場所は、古代異教の神々を礼拝する

場所で、大きな岩の中に様々な神々の礼拝所が造られていた所です。崖の上から子供を生贄として突き落として、突き落とした

下にヘルモン山から流れて来る湧き水の中に血が見えたら、

神々に生贄が喜ばれ、受け取られていると言う印であると言う

恐ろしい偶像礼拝、儀式をしていた場所なのです。

その場所に立つとちょっと異様な雰囲気を感じるのは、

犠牲になった多くの子供達の血の叫びが大地に残っている

からでしょう。カインに殺されたアベルの血が大地から

叫んでいると神が言ったと同じ様に。

 

偶像礼拝をユダヤ人達もしていたのです。イスラエルの神が警告

した通り、約束の地に入ったらその地に住む異教徒、異邦人達の

習わしに従ってはならない、でもそれをしてしまうだろうと

最初から神は伝えています。この警告は現在の全ての人に対して同じであり、誰に対しても同じ神の教えなのです。

 

申命記31:16 主はモーセに言われた、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの民はたちあがり、はいって行く地の異なる神々を慕って姦淫を行い、

わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう。

<姦淫=神の契約が婚姻契約である言葉が使われています。

他の神々に走る=他の神々の要素を混ぜてしまう=姦淫。>

 

 31:17 その日には、わたしは彼らにむかって怒りを発し、

彼らを捨て、わたしの顔を彼らに隠すゆえに、彼らは滅ぼしつくされ、多くの災と悩みが彼らに臨むであろう。そこでその日、

彼らは言うであろう、『これらの災がわれわれに臨むのは、

われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか』。

31:18 しかも彼らがほかの神々に帰して、もろもろの悪を行う

ゆえに、わたしはその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。

 31:19 それであなたがたは今、この歌を書きしるし、

イスラエルの人々に教えてその口に唱えさせ、この歌を

イスラエルの人々に対するわたしのあかしとならせなさい。

 31:20 わたしが彼らの先祖たちに誓った、乳と蜜の流れる地に彼らを導き入れる時、彼らは食べて飽き、肥え太るに及んで、

ほかの神々に帰し、それに仕えて、わたしを軽んじ、わたしの契約を破るであろう。

 

はっきり別物なら分かりやすいけれど、問題は中間=混ぜ物の

教え、混ぜ物の生ぬるい信仰、礼拝です。

イスラエルの神とイスラエルの神では無いもの両方を混ぜて生きる事が、実は隠れた重大な問題なのです。混ぜてはダメと様々な事から神は教えています。2種類の種を1つの畑にまくなかれ、

2種類の糸を織り合わせるなかれ、きよいものときよく無いものを自分の中に取り入れ、まぜるなかれ。

 

 

続く