神が創造した人間は、エデンの園に置かれたアダムとエバの時
から徐々に進化、変化したのでしょうか?
人種により人間の構造は違うのでしょうか?
全ての人は1人の人=アダムから出て、同じ土=要素=アダマ
から造られたと聖書には書いてあります。
どうして神が怒りから恵の性質へ変化したり、神の言葉が、
進化変化したと、神や神の創造物である人が神に対して言うのか
神が解説する事実とは違うと気が付かないとならないのです。
人種により生き方が違うと言う教えは、ユダヤ人にはこれを
食べれば毒だけど、異邦人には全く違う作用なので、
影響ありませんと言う事になってしまいます。
大変馬鹿馬鹿しい仮説を信じるのと同じ事なのです。
どの国の人であれ、神は人が取り入れる様に創造したものでは
無いものを物理的にも霊的にも精神的でも取り入れ行動するならそれは危険、ダメージがある事、害毒である事は同じなのです。
神の子らと書かれていますが、神がイスラエルと言う代表名で
呼ぶのは、神はこの地上で1つの国民、1つの国、1つの都=
神の家を選んで天の神の国を地上でそっくりそのまま反映させる目的でそう定められたからです。
だから、誰もでイスラエルの神=イエシュアに繋がる人ならば
誰でも”イスラエル”とパウロも説明している通りなのです。
この内容が12章で解説されています。
同じ家族の中で役割、与えられた才能が違うだけなのです。
神のオリジナルの教え、言葉から遠くかけ離れてしまえば
何が神の語る真実なのか不明で見えなくなってしまいます。
人の書いた書物でも誰かが中身を改ざんしたら、
何が本当に書かれていたのかは不明になるのと同じ事なのです。
神の言葉が終わりとか、神の性質が怒りと恵と変化するとか、
神の言葉は人種や時代により異なる、異邦人には無用で
終了になった神の教えという教えは聖書では無いことにまず
気がつかないと始まらないのです。
聖書に書いてある神の教えは、2つ別種の人種に対して2つ別種の教えなど存在しないことは、聖書の意図通りを把握すれば
容易に理解出来る事です。
なぜなら神の性質は1つ=エハッドであり、不変であるからです。神に造られた人の性質も同等にエハッド=1つで一体である
事がずっと書かれています。パウロが書いた4節以降にも
そのことがはっきり書いてあります。
神は1つ、神に造られた人も1体で1つ、皆が揃って完全なる
機能を果たすことは、神の家の神殿の1つの金が7本の支柱で
造られたメノーラでも、至聖所の前にあるタレ幕、5枚と5枚の布は神の義の印の輪で綴られ、その綴られている状態が、
姉妹と姉妹、家族と家族を表す家族用語で書かれている、
そのデザインでも表されているのです。
どれが欠けても1つ家族として完全では無いのです。
1コリント12:4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
12:5 務は種々あるが、主は同じである。
12:6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべての
ことをなさる神は、同じである。
12:7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、
全体の益になるためである。
かしら=ローシュ=イエシュアを筆頭に人は全て神の下に1つとして存在する事が書かれています。2つの御霊で2つのグループなんて教えは、聖書から出てこない発想です。
12:8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
12:9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、
またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
12:10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、
またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の
異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
ここに書かれている内容を異教徒の世界の思想で考えれば
誤解する内容だと思います。
預言と言えば未来予言、占いと考えるかもしれませんが、
預言=神の言葉=トラーを神が意図する通りに解説する事なのです。ここに書かれているものは、神の造られた人が生きるために
それぞれに与えられた役割、機能がある事です。
よく考えてみると癒しの賜物とあるものも、誰かのマジック
ハンドに触れれば癒されると考えるかもしれませが、
もっと違う事だと思います。
例えば人が病気になるのには、病気になる生活スタイル、
思考回路が必ず存在しています。その根本を解決しないなら
癒されても、元の黙阿弥で同じ状態に戻ってしまいます。
例えばコレステロール値が高い、だから薬を飲む、でも食生活は全く変えない、運動もしない怠惰な生活をし続ければ、
薬を飲んでも状態が改善しないからです。
癒しに導くのはもっと、全体的な事、神の教え、命に根付く
事に引き戻す助言や助けをホールネス的に与えられる事に
導ける知恵を持つ人と考える方が辻褄が合うと思います。
人がずれた思想、生き方をすることから肉体にも病を招くから
です。
異言とは、意味不明な言葉ではなく特定の言語です。
使徒2章にある様々な言語と同じです。
その言語を解く、もし知らない言語を理解出来るならそれは
特別な賜物でしょう。
これら賜の全ては、”神の教え”に基づくもの、トラー=モーセの五書を土台とする神の子らの性質に基づき生きることから発生す
るものであり、神の子らとして成熟している人が持つ御霊の実で
あるのです。そして全ての人=家族全体の益をもたらすものです。
次の箇所にクリアーに神の子らは人種によらず1つである事実をパウロが語っている箇所です。
12:11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、
キリストの場合も同様である。
12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、
奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。
ユダヤ人、ギリシャ人=異邦人、奴隷も自由人も=職業や立場に
関係なく、イエシュアにある人は1つ=エハッドとなるために
同じ御霊のバプテスマ=イエシュアと一体となった事実を
与えられ、同じ御霊=生ける水=イエシュアの命を授かった
からであると書いてあります。
そしてパウロは分かりやすく説明するために、ユダヤ人も異邦人も区別、差別なく同じ神の子らであり、同じ婚姻契約に加えられた同じ神の性質に似せられて造られた人を生きる事実、
でも体の器官で説明され表されている通り、役割が異なるだけ
と言う事をはっきりと、クリアーに分かりやすく解説しています。
12:14 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。
12:15 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
12:16 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
12:17 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。
もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
12:18 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、
からだに備えられたのである。
12:19 もし、すべてのものが一つの肢体なら、
どこにからだがあるのか。
12:20 ところが実際、肢体は多くあるが、
からだは一つなのである。
12:21 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、
また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
12:22 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも
弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、
12:23 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分は
いっそう麗しくするが、
1コリント 12:24 麗しい部分はそうする必要がない。
神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和を
お与えになったのである。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が
互にいたわり合うためなのである。
12:26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、
一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
12:27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりは
その肢体である。
12:28 そして、神はエクレシア=カハール<神の言葉に応答して
呼び出された人>の中で、人々を立てて、第一に使徒、
第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、
次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、
種々の異言を語る者をおかれた。
12:29 みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。
12:30 みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。
みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。
同じ家族の中でもそれぞれに役割が違う。皆が同じタレント
才能や能力を与えられているのでは無い。でもそれら役割が
違う事で、誰が優れ、誰が劣るなどと言う意識も神の目から
ずれている。
釘と金槌の役割が違うのに、釘が金槌になろうとしても無駄であり、金槌は釘の役割は出来ない、それほどシンプルな事実。
そして互いに相手に与えらられている能力、自分には無い能力で
卑下したり、羨んだりする事もずれている事であると言う
事です。
12:31 だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。
続く