愛の章と呼ばれる1コリント13章は、結婚式などでも朗読
される箇所ですね。
ここで”愛”と言う言葉は、ヘブライ聖書では何を根拠にして
語っているのでしょう。
”愛”とは、”初めの愛”とヨハネが黙示録でも語っていた同じ愛
アハヴァ=シナイ山で初めて文字として永遠の証拠として
与えられた婚姻契約の詳細を指して”愛”と語っている事実が
聖書の愛の定義なのです。
詰まり聖書の土台は”愛”=トラーであるのです。
シナイ山で与えられたものを”初めの愛”と言う隠語=コード化
された言葉=ローマ帝国には理解出来ない言葉でヨハネは
黙示録の中で話しています。
モーセの五書=父の言葉=トラーを知らないローマには通じません。トラーを知るユダヤ人ならトラー=モーセの五書は
神からの婚姻契約の詳細である事を理解しているからです。
聖書を読めば、愛、娶る、保護する、忠実、不貞、裏切るなどの
言葉で書いてあります。
それらの用語はモーセの五書に書かれている内容、
そして特に申命記など古代中東での条約書=契約書形式で書かれていて、しかもその中で使われている用語が”婚姻関係”に
まつわる用語だから、その書が婚姻契約書と分かるのです。
申命記は、約束の地に入るときに神の子らである自覚、生き方の
詳細の再度確認として、契約内容=婚姻契約の中に加えられた人達が生きる詳細の再度全て書き記したものとなっています。
もし婚姻契約=モーセの五書が今無効、不要、意味ないものと
されれば、愛の定義もないと言う事、愛の詳細も分からないもの
になるのです。詰まり福音書以降、元になる教えが全部吹き飛ん
でしまう!と言う事になる事を知らないとなりません。
家の土台、柱を取り去れば、その建物は崩壊します。
それと同じ事を人は神の言葉に対して行っているのです。
破片だけ断片的に取り出しても意味が見えなくなるのです。
聖書は100%全てどの箇所も、モーセの五書を指して語って
いる事実があるのです。
パウロはモーセの五書に書かれた愛の詳細を短い言葉で
13章の中で語っているのです。
そこに書かれた神の子らの生きる詳細、その詳細は創造主の定義するアハヴァ=”婚姻契約の愛”に生きる事に基づくものであり、神の定義する愛は全体の中の1人1人が生かされ
互いに助け合い、守り合う姿そのものが書かれているのです。
生きる事はイエシュア ハ マシア=トラーに書かれた詳細とあるのに、トラーは無用と言う教え、人造仮説は完全に聖書、
神の言葉、教えとは異なるものである事は聖書に基づき、
明らかな事実なのです。パウロが語る次の言葉は、
パウロが語る内容は、トラーの短い抜粋=いやお題目なのです。パウロはモーセの五書から人の生き方、コミュニテイのあり方の全てを教えたのです。
それを聞いたコリントの人達がこのパウロの助言を読んで
トラー=モーセの五書からの解説であると理解しているのです。
13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい
鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの
強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、
また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、いっさいは無益である。
4節から7節に書いてあるものは、神の性質に造られた人の本来の姿、生き方であります。
あなたは神の性質に似せて造られており、義とされたイエシュア の復活の命の事実を受けているのだから〜〜何々しません。
あなたは神の性質に似せて造られており、義とされたイエシュア の復活の命の事実を受けているのだから〜これこれをする様に
造り変えられているのです。
神の性質を第二のアダム=イエシュアを通して自分に取り戻されて与えられている本物の神の性質である人を知る事、実際に
その性質を生きて再学習する事、生きる事すなわち実際に
イエシュアの性質を生きる事=キリストそのものとある通りだからです。実際に本来の性質を生きてません〜ズレてます=
的を外して違う生き方をしていますと言う事なのです。
愛の箇所に”わたし”はと入れて考えて実際に愛の実態を生きる事が必要なのです。基準に照らし合わせたらずれて生きている事を
軌道修正出来るからです。そのために、愛の詳細が書かれたトラーに書かれた愛の実際を学ぶ必要があるのです。愛とは何かが
全て書かれたものがトラーなのに、その内容を読まない、書いてある意味どおりに学ばない、知らなければ、自己流、自己定義、自分勝手な愛を愛だと勘違いして生きる事になるからです。
13:4 愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5 不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。
13:6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、
すべてを耐える。
逆に考えれば見えてくるものがあります。
自分の状態、思索、行動が寛容ではなく、情け深く無い、
ねたむことをし、高ぶり、誇り、無作法をし、人から搾取する事
ばかりを求め、いらだち、人を恨み、不義を喜び、神の真理を
否定し神の教えを求めず、喜ばず、忍耐せず、疑い深く、
諦め、絶望し、全てを受け止め辛抱し耐える事がないなら、
それは本当のあなたの姿を生きてない状態ですよ!と
書いてあるのです。これらを生きたら本当不快ですし、嫌気が
指す=それらは自分ではないから、違和感が出るのです。
本当の自分の性質はそれらに対して反発感を持つからです。
13:8 愛はいつまでも絶えることがない。
しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、
預言するところも一部分にすぎない。
<イエシュアが言われた通り、神の性質の全てを生きる事
神の性質のどれをもないがしろにする生き方は意味がないと言われた事とつながります。全て揃って完全なるシャロームの状態、
本来の性質を生きれる事になる。>
13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
13:11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく
語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。
しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
<幼い子、幼子らしく感じ、考えていた。パウロは神の教えに
根付いて生きる事を知る前の状態、神の教え=トラーを
知らず実際に生きていない状態の事を話しています。
大人=成人=御霊の実=神の性質を生きる事を知って実際に
生きる今は、幼な子=神の教えなしに生きていたそれら幼稚で
無意味な生き方を捨てた。>
13:12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに
見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、
見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、
完全に知るであろう。
鏡に映すと言う例えをパウロが使っています。
鏡=本体を映し出すものです。古代の鏡は現代のものの様に
クリアーに見えるものではなかったでしょう。
そして自分自身も自分の顔を見る事は出来ず、鏡に照らし合わせてしか見えません。
神を通して、神の教え、言葉を通して本当の自分を知ると言う
事でもあるのです。神と直接顔を顔を合わせる事が出来る時が
来るまで。パウロは一貫してトラー=モーセの五書から教えているのです。
み言葉、教え、さだめ、おきて、知恵etc etc その内容はトラー
であると言う事実、知識を知ったら聖書はどの箇所もトラー=
モーセの五書を指して語られている事実に気が付けます。
この箇所に繋がる箇所があります。
ヤコブ1:22御言葉=トラーに書かれた神の教えの詳細=を
行う人になりなさい。自分を欺いて、
マタイ 13:3 イエスはたとえ話で多くの事を語り、
こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
13:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。
すると、鳥がきて食べてしまった。
13:5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。
そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
13:6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種はいばらの地に落ちた。
すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞くがよい」。
続く