1コリント11章 過越の晩餐にまつわる教えをパウロがしている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

過越の祭、その日から始まる種無しパンを食べる週、

その時から始まる、初穂=イエシュアの復活の命、

新しくされている事実=義とされている事実で成長する事を

表す、穂を数える7週、7回のシャバットを経た次の日に迎える

”シャヴオート=ペンテコステ”の祭。

 

シャヴオートの祭<ペンテコステ=ギリシャ語>の主旨、意味は、神のトラー=婚姻契約、モーセの五書を文字として正式に

受け取った記念日なのです。神の花嫁として受け取られている事実と、神の家に加えられた人達が生きる神オリジナルデザインの人間の性質、生き方が書かれた内容の書=モーセの五書を与えられた日として祝っているのです。

でもこのペンテコステ=シャヴオートの主旨はキリスト教では

聖霊初降臨祭と言う名前に変えられてしまい、神のオリジナルの祭の意図、主旨が見えなくなり、しかも、神が永遠であると

言われた神の言葉=トラーは終わり!とする聖書とは異なる

別の教えを編み出した西洋異邦人教父達の教えは、

既に1世紀後半から出現したものなのです。

 

神が言われていない、神が創造した人間が勝手に作った教えが

神の教えであると完全に誤解していますが、神の言葉は永遠であり、完全で手直し、補足、変更不要なものである、この事実に

はっきり気が付き、目覚めれば神の言葉、神の性質が変化する

ものではない事実を聖書からクリアーに読み取る事が出来る様になります。そして人の教えと神の言葉の違いを識別出来る、

判別出来る、洞察力、識別力を神の言葉に基づき得る事が

出来る様になります。

 

22節から28節までに書かれている内容は、過越の祭の晩に

行われる主の晩餐=セーダーの話です。

このパン=種無しパンを食し、この杯=三番目の杯を飲むごとに

過越の祭を毎年祝うたびに、皆で主が来られる時に至るまで、

主の死を告げ知らせよとあります。

この過越の晩餐をしていた時、弟子たちはまさか翌日に

イエシュアがローマの手にかかり木にかけられ処刑される事を

自覚してはいませんでした。そして実際に処刑が行われた後に

初めてイエシュアが語った最後の晩餐での言葉の意味を深く思い出し、今までで祝ってきた過越の祭の意味、種無しパンの週の

意味、そして初穂を数える7週の中で復活のイエシュアが

トラー、預言書を通し繰り返し教え直してくれた事を通し、

より一層神の教え、業の意味をリアルに深く理解出来て行った

のでしょう。

 

過越の晩餐の中でする一連の儀式の中でイエシュアがされた儀式は、現在今でも過越の祭の儀式の中で行われています。

4つの杯を飲む。その一つ一つに名前があり、イエシュアが弟子たちに語られた箇所は、ちょうど3杯目の杯=贖いの杯と名付けられている食後に飲む杯を掲げた時の下りが福音書に記されて

いるのです。

そして1つ1つ出エジプト、イエシュアがされた業を表す食べ物を食べる事を過越の祭の晩餐で長い時間をかけて順序を追って

行うので”セーダー”=順序と名付けられる晩餐をして祝います。

これは詳しい説明が必要ですので、また祭の近くになったら

再度書きたい内容でもあります。

 

ここでパウロが話している内容は、イエシュアが処刑される前の晩の過越の晩餐の中でされた事、3杯目の杯=あがないの杯を

飲む時に語られた言葉の下りをパウロが話しているのです。

 

1コリント11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐を

かってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、

酔っている人がある始末である。

11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。

それとも、神の群れ=エクレシア=カハールを軽んじ、

貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、

ほめるわけにはいかない。

 11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに

伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、

パン=マッツア=種無しパンをとり、

 11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、

「この杯は、わたしの血による新しい契約である。

飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

11:26 だから、あなたがたは、このパン=種無しパンを食し、

この杯=あがないの杯を飲むごとに、それによって、

主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

 

わたしを記念するためにこの様に行う=いつ行いますか?

過越の祭を皆で祝うたびにこの晩餐を毎年繰り返し行う中で

思い出してと書いてあります。いわゆるイエシュアの遺言です。

主が再び来られるまで。来られたら今度はイエシュアと共に

皆でこの神の祭を祝うことは預言されてる事なのです。

 

11:27 だから、ふさわしくないままでパン=マッツア=種無しパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。

11:28 だれでもまず自分を吟味し、それからパン=マッツア=

種無しパンを食べ杯を飲むべきである。

11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、

その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。

 

前の節で語られている通り、それぞれが勝手に思い思いで

行動している、貧しい人を省みていないと言うことも書かれて

います。

パウロは1体である主の群れ=カハール=エクレシアが復活の命

にされている、割礼を頭脳に受けているあるべき状態に生きて

いない、機能していない、神のトラーに教えられている通りの

コミュニテイの生き方をしていない事を指摘していることが

明らかに分かる箇所です。

 

1コリント11:33 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。

11:34 もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。

 

このパウロの忠告は、過越の祭の晩餐を実際に祝った人なら

簡単に理解出来る内容です。人が理解出来る共通のもので考えれば分かるかと思います。例えば結婚式で晩餐が始まる時、

最初に挨拶があり、乾杯の儀式があり、式の進行に従い

皆がそれに合わせて、心一つに喜びを一緒に体験し祝うものです。それなのにそれぞれがバラバラに勝手になってやっていたら

一緒に集い祝う意味が消えてしまうでしょう。

 

過越の晩餐は、とても意味が深いものです。

なぜなら、出エジプト、奴隷状態から脱出し、そして贖い出され

救われた人が通ったあの荒野の40年を振り返る事でも

あるからです。イエシュアのされた業そのものです。

屠られた子羊は”過越”の祭りの時に起きて、復活の命=初穂で

表す事実も種無しパンの週の中で実際に起きたのです。

イエシュアに繋がる人なら異邦人でもユダヤ人でも誰でも同じ

体験、贖い出され、救われた事実を生きる出エジプトの道のり、荒野の訓練を通るからです。それを思い出して、主のされた業を思い出すことでもあるのです。

過越の祭を実際に祝い、子供も大人もその事実を色々な方法で

思い出し、主に感謝、賛美、回想する事をやった時には

毎年毎年主のされた業の意味への深い理解を重ねて行くし、

次の新しい年の命のサイクル=神の命のサイクルを神の記念日を祝い、生きて、贖われ救われた新しい人として生きる自覚が

生まれて行く様に神がデザインされたものなのです。

言葉ではうまく説明出来ませんが、実際に仲間と神の創造された祭、記念日を祝う人なら理解出来ます。

しかも、過越の祭の前の準備にも深い意味、学習の内容が

あるからです。全ては”新しくされた人の事実”を深く頭脳に五感体験を通してインプットするための神がデザインされた神の記念日だからです。

創造主は、人が生きるに必要な全てを完璧に神の設計図通りに

造られました。神の記念日も福音を表す中心でもあるのです。

1つ1つの記念日は神の創造された世界、イエシュアの業を

表すものであるからです。

人は神がデザインされたものを変形してしまうので、オリジナル通りの神の意図からズレたものを生きてしまうのです。

 

神の創造の極意の中心、シャバットを生きるのは人の基本、

人の性質なのです。人は6日の間働いて、7日目に止まる。

夕あり、朝ありで人は夕方休み、朝起きて活動する様に神が

デザインされたのです。神が100%全てを与えている。

神が与えたものを神の意図通りに生きる。

創造主を知らない人でさえ、肉体は神のデザイン通りに沿って

生きる様に造られている事を誰でも体験上知っています。

 

神が時を造られ、神が人を造られ、人のために世界の全てを

造られ、最初に神の時を造られ、神の定めの時を司るために

天の万象を創造されたと神が説明している通りだからです。

 

神がシャバットを造られ、この日を神の子らのために聖別し

神の子らは神が聖別した第七日目を永遠に祝うと神が人に伝えている事実があるのです。

それを途中で人が変えても何も意味が無い事であり、神が創造した神の性質に似せられた人間の生き方とは異なることになります。

 

あなたは神の性質に似せられて造られているから、

これこれを生きる様に造られています。

あなたは神の性質に似せられて造られているから、

これこれをする様には造られていません。

それほどシンプルな事実を神が伝えても、神にあれこれせよ、

あれこれするなかれの掟リストを与えられている意識になって

しまうのは、神が人の性質を伝えているという事実に立って

いないから、異教の地で育った異邦人が神の言葉を律法などと

聖書にない言葉で神の言葉を表し主張してしまっている声を聞き続けるので、これこれする、あれこれしないと言う神からの

教えが律法=掟リストを語っていると誤解してしまっている

だけなのです。

 

 

続く