パウロは神の言葉や教えを否定しない事実から聖書を読む | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
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全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリント 7:19 

割礼があってもなくても、それは問題ではない。

大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。

<戒め=モーセの五書に書かれたトラー、神の教えを

ガードして生きる事が何より大事!とパウロが語っています。>

 

<パウロは割礼が意味ない!などと話してないのです。

肉に付けた印だけあっても、神の教え=性質=実態=トラーを

生きてないなら、そんな印も意味が無いことになる!

そう言う事をパウロが話しています。

これはヤコブの箇所と同じです。信仰の実態=生きる、行動が

なければ意味が無い。

そして神の教えは永遠で人が帳消しにしたり、否定したり出来る

ものではない事を知った上でパウロが対処しようとしている

論点を見れば意図が汲み取れます。

アブラハムの割礼の意味、トラーに書かれた意味の本質を

理解していないレベルの人達の間でされていた争いや分裂に

一旦終始を打つために、パウロが表向きの印では無い、

頭脳に割礼がされて生きている事が大事だと教えているの

でしょう。そして、本当に割礼の意味を理解に到達すれば、

その後はどうするのかそれぞれが自ずから回答を神の前に

見出すはずだからです。

 

ヤコブ2章17ー19

しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と

言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を

見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、

自分の信仰を見せましょう。

あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。

悪霊どももそう信じて、おののいています。

ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、

ということを知りたいのか。

 

実際に神の性質を生きている事が一番のポイント!

ラビ達の編み出した改宗儀式を経て、割礼を臓器に付けていても神の性質を生きてないなら、それでは印は空、意味がない!

それをパウロが話しているのです。

何が大事?神の性質である人は、神の教え、言葉を実際に生きる事それが一番大事。神の義を与えられている印=これを身に帯びていると同様に神の言葉を生きるなら割礼の印は意味がある。

もし神の性質=神の教え=トラーを生きていないなら、

割礼の印があっても意味ないです!と言う事なのです。

 

クリスチャンの世界に置き換えて考えれば分かります。

十字架のネックレスを身につけて、洗礼受けても、生きている

実質が神の子らしく無い。仲違い、不平不満、不品行をして生きてたらそんな洗礼も十字架も台無し、意味ないです!と言い換えて見れば意味は同じでしょう。

でもそれだから洗礼が意味無くなったと言うことにはならないのです。パウロの論点が見えると思います。

 

そしてそんな的外れな動機のために割礼=ユダヤ人に改宗する

儀式をするのは意味ないからするな!て事です。

使徒15章のエルサレム会議での対処と同じ性質のものです。

 

割礼=アヴラハムに与えられた義の印、永遠に代々、神の子ら

イスラエルの神の家に加えられた印であるものは永遠なのです。

それは異邦人も変わりないことが書かれています。

イスラエル=神の家に加えられた者=イスラエルの中に加えられたものは同等だからです。養子を家に迎えたらその子は苗字も

同じ、遺産相続も同じ、自分の子と同じだからです。

 

トラーや預言書にはアヴラハムの割礼について何と記されている

でしょうか?神の言葉は永遠不変と言う真実からだけ聖書を

読んでみるのです。

神のものと神のものでないものを表す境界線であり、そして

神から一方的に義とされた実態を与えられている証拠としての

”印”=割礼なのです。代々神の子らに与えられる印で継承され

続けて行くもの。アヴラハムの時から今に到るまで、

神の永遠の教え=印=義とされている証拠を表すものが継承されているのです。この儀式に実際に参加した人なら、神の永遠の

約束が健在である証拠を臨場体験して感動するものなのです。

 

 

 

続く