11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたは
おのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、
あなたがたの身を汚してはならない。
11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたを
エジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。
11:46 これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、
地に這うすべてのものに関するおきてであって、
11:47 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、
食べられない生き物とを区別するものである。
ここに書かれている神の言葉がテンポラリー、
一時的であると言うのは単なる人の考えた教えです。
み言葉を聞けない飢饉とは、神の言葉を神が言う通りに聞けない
理解出来ない、神の言葉の種が頭脳に植わらない悪い地の状態、
その危機の事なのです。
どうして聞けないかと言うと、人の作った教えに神の言葉が
妨害=いばら、おどろ、つまずきの岩でふさがれ、
神の言う言葉通りに聞こえない!その事なのです。
なぜなら、聖別という言葉、その意味、実態は創造の最初から
同じであり、最後まで同じだからです。聖書の最初から最後まで
聖別の意味、詳細は変わらないのです。
トラーが聖書の全ての辞書、定義なのです。
神の聖別の定義はこの様に人間の食べ物の中にも入っている
いるのです。日々実際に生きる中で”聖なるものである状態”に
留まる秘訣が色々な事を通して教えられているからです。
日々の生き方を神の言葉に根付いて、区別、識別する訓練でも
あるのです。神の性質に属するものか、そうではないのか
神の言葉により識別し、自分の中に取り入れる、又は排除する。
あなたは命を選びなさい=神の言われた事を選ぶ=命を選ぶ、
その実態姿はこれら動物でも表されているのです。
食べる、単純な行為の中に肉体的にも霊的にも命を保存する
秘訣があるからです。
そしてそれは日々ずっと継続されて行く物なのです。
忌むべき動物は、人の体に取り入れてはならない害毒のある
ものであるのはそれらの動物の体の構造、性質、特に消化器官を
調べれば分かります。
You are what you eat.あなたの食べるものはあなたそのもの、すなわちそれは物理的にもあなたの血肉になると言う事と
同じです。
忌むべきもの=シェケッツと言う言葉は、忌み嫌う、不潔、
汚らわしい、嫌悪する、汚物、卑猥 etcと言う意味のある
言葉です。
神が神の創造した動物=人間の食べ物として造っていない、
人間の食物に適していない性質の動物を人間が食する事=
神には忌むべきものと言われているのです。
神が聖であるから、人も神の前に汚れを取り入れることを
してはならないとはっきりと書いてあるのです。
それを否定するのか、認めるのかは人の側の問題であり、
人が神の言葉を否定し却下したとしても神の言葉は
永遠に変わらない真理なのです。
ヘブライ語聖書の学びに出会った3年後以降、私を教えてくれる先生方と年に数回定期的に会える機会を与えられるだけでなく、
一緒に海外のセミナーツアーに同行して付いていく機会も与えられ、そこで寝食共に過ごす機会もたくさん与えられました。
イスラエルに行って彼らの家に滞在させてもらい、
暮らしの中で色々な事に気が付く機会を与えられました。
その時に彼らの食生活について初めて考えて気が付いたことが
ありました。
初めは体が弱いから、健康のためにそうしているのかくらいに
考えていました。
”食べられるものに制限あると窮屈ではない?”と
何も分からない私が質問したら、こう答えてくれました。
”食べられるものの方がずっと多いから、食べられるものの中で
食べられるから何ともないよ。”と強制的な教え方ではなく
自然に、聖書に書いてある通りにと言う優しい立場で
普通にやんわりと答えてくれた事が印象的でした。
聖書に書いてある神の言葉、食べ物を神が創造した事
それが聖別に繋がる、聖別の意味を常に食べ物からも教えられる
物理的=目に見えるものと、霊的=目に見えないものは同一で
マッチしていることも知りました。神の言葉、神の言われた性質通りを日々の中で実際を生きる事であると分かった後の話し方はもっと違いました。
人間の食べ物ではないものは実際に肉体にも霊的にも神の前には
取り入れるには不適切、神の宮である人に相応しくない、
”汚らわしく忌まわしいものである”事、
聖書に書かれている通りに分かる様に話してくれました。
初めの印象は、”いちいち考えないで食べちゃえばいいのに”
と言うのが本当の所でした。この神の言葉、教えを考えないで
いると言うのが問題のポイントですね。
神の言葉で教えられている内容を、考えない、意識にも上らないままで生きると言う事が重大問題なのです。私が完全に神の教えに対して無知であった事に気がついたのはその少し後ですが。
私は性格上、自分の前に示される自分の知らない事を自分で
徹底的に調べて事実から理解し納得しないと気が済まないタイプです。誰かがそう言うからそうなのだと簡単に考えないで、
その教えのが聖書にちゃんと証拠、根拠があるのかを自分で調べて確かめて、どうしてそう書いてあるのか自分が理解して、
ちゃんと決着し納得したい。
自分の考えをサポートするための資料探しではなく、
神の言葉が何を教えているのかその事実だけを知りたい!
だから常に聖書から、真実からだけを知りたい、探りたい。
それをずっと繰り返しています。
不透明な点を、真実の点と点だけを繋げて考えていけば、事実がどんどん浮き彫りになるからです。その時に人の編み出した教え神の言葉をどの箇所でも否定する様な非聖書的な教えを神の言葉の中に入れるなら真実は見つからないのです。自分が考える思想に合う答え探し、こじ付けは最初からズレています。
自分で結論を最初から決め付けているから自分に合わない
神の言葉は全て排除する態度からスタートしているからです。
神の言葉が今は破棄された異邦人には関係無いと言う教えは、
自分の考えに見合わない、自分に都合が悪いものは全て却下しても良いと考えるのが普通だからです。
でも人の作った教え=非聖書的な教え=嘘と神の語る真実は
マッチしないし反発し合うのです。
どれだけ偽情報に騙されるのか、自分が知っていると思っていたことが実は嘘だったと言うのはこの世にはたくさんあるのです。
しかも嘘が大きければ大きほど、長い歴史の中で真実だと伝えられているもので騙されてしまう。集団催眠。
騙しの情報世界に囲まれて生きているからです。
まず調べたのは聖書です。聖書に書かれていることを知る。
神は人に何と教えているのか?その基本=神の永遠不変の言葉
を、目の前に書いてある通りを否定するなら神の語る
真実は遮られて見えなくなります。
自分は聖書=神の言葉を自分は否定しますと言う方が真実です。
この部分の神の教えは自分には受け入れられませんと言う方が、神の言葉は破棄されたと言う神に対しての冒涜的発言より
正直で良いです。
自分が受け入れられない、イコール神の言葉が無効になった事には永遠にならないのです。
神の言葉が変わったのではなく、自分には違和感があると
言うのが本当の真実だからです。
神の言葉が変化したと言う嘘を言い続けてはならないからです。
聖書のどの箇所も今は関係無いとか、終わりと言う教えこそ
神の永遠の言葉を知る事を完全に妨害しているつまづきの岩
なのです。
神の言葉が変わっていない事実をまず知ったと言うより、
調べて行けば、神の言葉が変わってない証拠がヘブライ聖書には
クリアーに書かれています。翻訳でも文脈を外さず、書いてある通りに読めば分かるはずです。
神の言葉は神ご自身は永遠、完全、普遍と書いてあったら途中で変わると言う事の方が嘘!変だと気が付かなくてはならないのです。そんなシンプルな事実さえも聖書から読み取らせないほど、人の教えは神の言葉から引き剥がす役割をしてしまっているのです。
神が、神の言葉が変わらない事実は、ヘブライ言語ではクリアーに書かれていますから、否定は出来なくなってしまうのです。
聖書に書いてある神の教えは永遠不変である事実だけに立って、その時に自分の先入観を取るのか、聖書に書かれている自分が
知らなかった神の語る永遠の真実の方を取るのか?なのです。
人の教えではなく、神の言葉を取るのは当然の行為なのです。
聖書に書かれている神の言葉が真実である事実に立って、
どんどん揺るがない神の言葉の事実に神の言葉から確信を
持って行きました。
そして、私を教えてくれる先生方は必要以上にしつこく入り込み教えたり諭したりと言うタイプではなく、ぴったりタイムリーに必要な事を語り、教えてくれます。
と言うか私がいつもいつも質問攻撃をするので、その問いに
ぴったり叶った事を的確に答えてくれると言うのが正確な所です。決定的に分かったのは2012年イスラエルに行った時です。シャバットを初めて体験した事。
そして古代のイスラエルの共同体が住んでいた遺跡などにも
案内してくれて、そこにある混ぜ物の教えの痕跡を目にしたこと。ツアーから帰って留守番していた先生の奥さん<この方も先生ですが>
”何を見てきたの?何が分かった?”と聞かれて答えた事があります。
”イスラエルの神の像とアシェラ像がユダヤ人街の遺跡の中に
並んでいて、混ぜ物の教えを古代ユダヤ人もしていたって
分かったよ。”と答えました。
バアルとその妻アシェラの組み合わせを、イスラエルの神と
アシェラにしている。
混ぜ物の教え=これはイスラエルの神には忌み嫌うべきものであり、姦淫の罪と言う言葉で表されています。
これをイスラエルもそして異邦人もしてしまったのです。
それにより自分で、自分の聞いて来た西洋人の作った教えが
完全に聖書では無い人造宗教の教えがある事と、神の言葉が
混ざっている混在してる事実にはっきりクリアーに
気が付く事が出来ました。
神の言葉を否定する事自体人間がしてはならない冒涜的罪であると言う意識が無い場合には、神の言葉は途中で変化、進化し
人種により異なる教えだと言うマルキオンやダービー、
トラーを知らない異邦人が造った教えが聖書であると言う
虚しい騙しごとの哲学のドツボにはまってしまうのです。
それと同時に、生まれて初めて”シャバット”を体験したことは
一生涯忘れられないインパクトのある体験だったのです。
失われていた数々の祝福と恵みに喜びを覚えると同時に
嘆き悲しみも伴いました。
私は何を信じて聞いて生きてたのか?と言う本当の人生の旅の
始まりに立った瞬間でした。
続く