1世紀のユダヤ人達がイエシュアの語る教え、
言葉を理解していた通りに聖書を読む必要があります。
父の言葉=み言葉=福音=戒め=教え=仰せetc etc etc =
トラー=婚姻契約=モーセの五書であると聖書に登場する
すべての人は理解して聞いているのです。
その基本的真理の知識が欠落すると父の御心=とは一体何か
自分の想像上での”み心”になり、不明なままこの様な箇所を
解説してしまうのです。もちろん御心、神のプランはその時々
それぞれの置かれた場所、それぞれの人に対しての特殊な
”ピクード”があります。
あなたと私とでは神に伝えられた生き方を実際に生きる事は
同じですが、今しなければいけない事、今の生活で神から
任されている内容は個人個人異なるものであると誰でも
理解出来ると思います。
それぞれの人生でそれぞれの季節を歩む、その違いはあります。
でもその生き様の性質は、神の教え=神の性質に
ぴったりマッチした生き方でなくてはならないのです。
”ピクード”とはコマンド=命令と訳されるものでもありますが、
軍隊の隊長の司令がありますよね。それと同じです。
神の時に神の意図通りの指示があり、行動をする事です。
それはその置かれ場所個人により違いますが、
それは全て神の教えに沿った生き方であるのです。
神の教え=神の性質に似せられた人間の生き方をする人が
父の御心を行う家族とイシュアは言っています。
人種に関わらずにすべて神の言葉を愛し、神を愛し、
神の仰せを生きることをする人は天の国を受け継ぐ
神の家族なのです。>
マタイ7:20 このように、あなたがたはその実によって
彼らを見わけるのである。
<神の性質=神の言葉、教えを生きる人=その人達の中に季節=神の定めの時=モアデイムごとに実がなると書かれている
詩篇1章にある意味と同じ実=御霊の実です。
御霊の実は神の教えを生きる人の中に育まれるものなのです。
神の教えを生きないなら御霊の実が成長しないのです。
その人の中にある御霊の実=生活の中でどんな生き方をしているのかによって神のものかどうか見分けられるとありますね。
ヤコブ書とつながります。>
<行の無いあなたの信仰を見せてください。>
ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。
その信仰は彼を救うことができるか。
2:15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、
その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。
暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、
それだけでは死んだものである。
2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には
行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。
そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
ヤコブ2:19 あなたは、神はただひとりであると
信じているのか。それは結構である。
悪霊どもでさえ、信じておののいている。
2:20 ああ、愚かな人よ。
行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
<デイスペンセーション神学の創始者あるイギリス人
ダービーは神の言葉は生きるものではない、学ぶものではない
イエシュアの教えも生きなくて良いと教えたのです。
その教えの土台が余りにも非聖書的なので、その神学はずっと
手直しされ続けています。人の教えと言う土台を根こそぎ聖書に
戻さないとならないのです。非聖書的人の教えは学ぶ必要が
無いものであり、人の教えを通して聖書を語ってはならないの
です。神の伝える言葉、教えを神が伝えている意図通りに忠実に知る、探る、探求し続ける、学ぶそれだけが必要な事なのです。
その様な聖書では無い思想を持つ人が作った神学を信奉する
人達、神学校、特にアメリカ、西洋でその教えを元に
20世紀の宗教界でその聖書とは異なる性質の変化した神の
言葉であると言う教えが伝えられてしまい、教えられて行って
しまって今に至るのです。なんでその教えがそんなに爆発的に
世界に受け入れられ浸透して行ったのか?
トラーに馴染みの無い異邦人の耳には受け入れやすく、
納得行く教えだからです。でも神の語る真実では無いのです。
聖書には全く違った内容が書いてあります。
ヘブライの世界、神の教えでは、信仰イコール生きる事で
あると書かれています。
”生きる事はキリスト”とありますが、キリストとは、
ハ トラー=モーセの五書と聖書には書かれているのです。
神の言葉が人となった。トラー=イエシュアとなって地上に
来られたと書いてあるのです。1世紀当時、イエシュアの教えを聞いた人達もイエシュア=トラーと理解している人達であり、
パウロが書き送っている書簡でも同じ内容が書かれて
いるのです。
ピリピ1:21
1:21の『生きることはキリスト、死ぬことは利益』
イエシュアを愛するとは、イエシュアを想像してアイドルを
慕う様な事をする事ではないのです。
昔のドラマ”寺内貫太郎一家”と言うドラマで、樹木希林さんが
沢田研二さんのポスターの前で”ジュリー”と叫ぶのが
流行った<どんだけ前のドラマ?>のがありましたが、
そんな事をするのではないのです。
イエシュアを愛するとはそんなアイドルの姿を想像して
愛してま〜す、慕います〜賛美礼拝しますなんて
言う事ではない。
イエシュアに付いて行く、イエシュアの御跡を歩くとは何か?
イエシュアの教え=父の教え=トラーに書かれた人間本来の
生き方をする事に熱心に忠実になると言う意味で聖書には
書かれているのです。
神を愛する人は神の教え=言葉を愛しそれを実際に生きる事が
神を愛する人の生き様なのです。
神の言う事を無視して勝手に自分の考えを主張して生きる人は
神を愛しているのではなく自己中心愛の中に留まっているのです。自分ワールドで自分が基準、自分が神。
神を愛する=神の教えを愛する、神の教えを日々実際に生きる。
それを”歩く”ハラハーと言うのです。その生き方の内容がそれぞれ解釈が違うものがユダヤ人の中での論点なのです。>
ヤコブ2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
<クリアーに事実が書かれています。神の言葉を実際には
生きない信仰は死んでいる=神の性質、実態から切り離されている、神の命とは繋がっていない生き方だと書かれています。>
マタイ7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、
みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいます
わが父の御旨=父の教え=父の言葉=トラーを行う者だけが、
はいるのである。
<神の国は神の国の憲法、教えを生きる人で構成され、治められると聖書には書いてあるのです。それがエレミヤ31:31。
イエシュアが過越の祭りの晩餐で弟子たちに確認し、言われた
新しく更新される契約=全ての人が神のトラーを生きる時代に
入る、それなのです。
それは出エジプトしたばかりで与えられたトラー=婚姻契約
シナイ山の麓で受け取った人達、イスラエルと少数の異邦人の
時の状態では無い。頭脳に割礼=神の目から見ることに頭脳を
完全に切り替えた人達で構成される=神の目から見る訓練に熟練した人達=神の子らが神のトラー=神の性質を生きる時代に入る。
この箇所を別物の新しい別の契約や教えが与えられると多大に
誤解した教えをクリスチャンの世界で語られていますが、
”神の教え”トラー=婚姻契約は1つしか存在しない、永遠普遍に同じ神の教え、婚姻契約であり、新しく来る世界は全ての人が
神のトラー=教え=モーセの五書に書かれた神の性質通りに
造られた本来の人間の生き方をすると聖書には書かれて
いるのです。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって
『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したでは
ありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、
『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、
行ってしまえ』。
<知らない=ヤダと言うヘブライ語は婚姻関係の中にある
究極の親しさ、裏も面も知り尽くす関係を表す意味の知ると
言う言葉であり、神の教えとは違う事をする人達に対して、
神の婚姻契約の中にある状態では無い=知らない!とイエシュアが言っているのです。この23節の翻訳=法=律法と言うヘブライ語の裏にあるギリシャ語は”アノモス”ノモス<ギリシャ語>=
トラー<ヘブライ語>婚姻契約=モーセの五書=神の教え
インストラクション無しで生きていると書かれています。
不法=トラー無し=神の婚姻契約=トラー=モーセの五書に
書かれた父なる神の教え、インストラクションを生きていない=
無法と言う意味で書かれているものなのです。>
続く