パウロの書簡はすべて同じテーマ 同じ内容同じ福音 同じトラーに基づき話している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ7:23 わたしの肢体には別の律法=罪の法則があって、

わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在

する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

 

<ここに書かれている別の律法=別の法則=ノモスと訳されている言葉が出ています。この箇所に書いてある法則=律法=ノモスは神のトラー=教え、モーセの五書を指して語っているのではない事は分かると思います。でも同じノモス=法則=律法と言う

言葉を充てがわれているのです。

 

肢体の存在=以前の肉で生きていた罪、肉の法則の記憶=

罪の法則=律法=ノモスが、肉の自分の中=記憶に

今も存在しているのです。

救われたらすぐに以前の記憶は消え新しい肉体は

与えられないから、以前のままの記憶はそのままあるのです。

心の法則=新しくされた人の頭脳=レヴ=神のトラー=神の教え

インストラクション=法則=ノモスを生きる事に戦いを挑み、

肢体=肉の自分の記憶に存在する罪の律法=法則=

ノモスの中に私の思索、行動をとりこにしているのを見る。>

 

この葛藤はだれでも体験している事です。

私達は義とされた元の創造の通りの自分は神の前に雪より

白くされ、本物の自分が取り戻されている。

でも救われた後でも以前の記憶、思考、行動パターンが

物理的に脳回路に存在しているから、それを切り替える事を

自分自身が選択し続けて生きていかない限り古い肉の記憶に

振り回されてしまう。

 

脳回路、思考パターン、行動などが切り替わることは、

自分の歩みを100%イエシュアの実態=言葉に沿って生きる

ことをし続けて行く決意で生きるのか、神の言葉に常に

照らし合わせて考え、行動するのか?全てをキリストの虜にして自分の思考、行動を全て軌道修正する、神の教えの鏡に常に

照らし合わせて注意深い点検、確認をしながら日々歩む中で

新しい人を生きる事が板に付いていくる。

 

鏡の前=神の言葉の前を離れて本当の自分で生きるのをすぐ

忘れるとヤコブ1章のみ言葉を行う人になりなさい!と

パウロが言っている続きの箇所に繋がります。

 

ヤコブ 1:23 おおよそ御言=トラーを聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、

そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

 

この部分を多くの場合していないと思います。

神の言葉=鏡から離れれば、自分が新しくされた人、

神の似姿の性質である事、神に教えられている様々な事を

すぐに忘れる。

 

神の言葉、教えを忘れる以前に神の言葉の中で何を教えられて

いるのかの詳細も、神の言葉を捨てて学ばなければ、元々神に

教えられている新しい人=本当の人間の生き方を知らないと言う現実があると思います。

 

霊に導かれれば他力本願的に自動的に切り替わると

錯覚している部分です。実際に神の性質、教えを生きる!と言う

練習部分が要らないと誤解しているのです。

 

練習がなければ熟練も成長もない!とこの世界でも考えたら

分かるでしょう。

学んだことを実際に実習、訓練、練習するから皆プロ=達人=

熟練者になる、信仰の世界も全く同じなのです。

新しくされた人は、赤ちゃんです。

その赤ちゃんは神の教えからずれないで成長する過程が必要

なのです。

鏡=神のトラー=教えに照らし合わせて、鏡の前から離れないで生きる。それが神と顔と顔を合わせて生きる様に造られた

人間のデザインなのです。

ヘブライ語で神の前に生きると書かれている本当の言葉は

”わたしの顔から生きなさい”とあります。

顔=神の実態=鏡=トラー=神の教えから生きると

書かれているのです。

 

7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。

だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

 

7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に

仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

 

神の律法=ノモス=トラー=モーセの五書と罪の律法=

罪の法則=奴隷状態では同じものでは無い事は、

これを読んでも分かるはずです。

 

同じノモスと言うギリシャ語、そして同じ翻訳”律法”と言う言葉を神の言葉と、罪の法則両方に使ってしまっているのです。

ノモス=律法は、別々違うヘブライ語に一括りにされているので

様々な誤解を生み出しているのです。

パウロの書いている意味、真意を捉えれば、

何を話しているのかの翻訳用語=律法=ノモスの裏にある

本当のヘブライ語の意味の区別がつきます。

 

ここで書かれているジレンマを誰でも経験しますね。

それは自分が罪人であるからでは無いのです。

肉=ズレて生きて学習した偽の違う自分の記憶が人の思考、

行動を振り回す。

だから1つ1つ注意して、キリストイエスの言葉に

照らし合わせて虜にする。1歩1歩の歩みに注意を払う。

幼子がよちよち歩きを初めたのと同じだから、その歩みに注意を

払いなさいと至るところに書かれているのです。

その理由は、前々回に書いた通り、ローマ8:2−4に

書いてあります。

 

ローマ9:4 
彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法<ノモス=トラー=婚姻契約=モーセの五書=神の造られた人間の生き方>を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、
この箇所を律法=罪の法則と訳したら不適切な翻訳だと
分かると思います。律法=ノモス=婚姻契約なのです。
そして、イスラエルが神からの全世界の民族への婚姻契約を
代表として最初に与えられたのです。
それは、イスラエルを通して全世界へ同じ福音=同じトラー
同じ神に造られた神の造られた人間=神の性質をすべての人が
生きるためなのです。>

 

9:5 また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも

また彼ら=イスラエルから出られたのである。

万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。

 

イスラエルの神、イエシュアに繋がれた人は異邦人でも

同じイスラエルの家族の一員に加えられたのです。

イスラエルと言う大家族と同じ生き方をすることに招かれたと

言う意味です。別々の福音、人種別人間の生き方は神が教える

福音=教えでは無いのです。>

 

9:6 しかし、神の言が無効になったというわけではない。

なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのでは

なく、

<はっきり書いてあるのです。神の言葉=ノモス=トラー=

モーセの五書に書かれた神の教えは永遠に有効です。

その次に書かれているイスラエルから出た生物学的な生まれの人が全部イスラエルでは無い!とあります。

7節に説明があります。>

 

9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、

その全部が子であるのではないからである。

かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。

9:8 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、

むしろ約束の子が子孫として認められるのである。

約束の子=神の命に繋がれた人達、神の性質を生きる人達が

本物の神の家族である!これはイエシュアも語られていましたね。神の御心を行う人達が本物のイスラエル、神の家族なの

である

 

マタイ12:47 

それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。

あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、

外に立っておられます」。

12:48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、

わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、

だれのことか」。

12:49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、

「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

12:50 天にいますわたしの父のみこころを行う者だれでも

わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

<父のみ心とは、イエシュアのこの言葉を聞いた人達は、

父の言葉=トラーであると理解して聞いているのです。

イエシュアが意味不明な事を言っているのでは無いのです。

異邦人もユダヤ人も神のトラーを行い生きる人が神の家族!

それが聖書の神の家族の定義なのです。>

 

 

続く