パウロの書いた文章の内容を書いてある意味通りに読む ローマ2章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エゼキエル20:26

また、彼らが初子をすべてささげたとき、わたしは彼らの

献げ物によって彼らを汚した。それは、わたしが彼らを

荒廃させ、わたしが主であることを知らせるためであった。

 

<彼らが初子を捧げたとは何の事でしょう?自分の子をモレク神に生贄として捧げる事です。詰まり自分の子供を殺して捧げる

儀式をしていたのです。こんな事をするなかれ。異教の神々の

慣わしに従うな。でもこの精神は、信仰者の中に潜んでいます。

自分の一番大事なものを神に捧げなくては、

神に犠牲を払わなくては本物の信仰者では無いと言う意識。

神は自分を自分のパートナーを自分の家族、子供を犠牲にすることを禁じています。一番大事にガードして守らなくてはならないのは人、自分、関係の世界なのです。

神は人のために全世界を造られて、全てを与えて

下さっているのです。

神の仰せは、シャローム バイト=欠けの無い家族の家を

ガードすること、それが一番大事な仕事。



異教の神々に我が子を捧げる様なそんな意識で、

ずれた事をイスラエルの神に対してしてはならない!と

神に警告されているのに、その罪をイスラエルは犯したのです。

これが偶像礼拝の根です。自分の努力、アピールで神に近づく

許しを請い、より多くの恵みを頂戴する意識。

しかも一番大事な自分の命に匹敵する我が子を捧げることが

神の対する最高の犠牲、捧げ物、忠誠心と考える

ずれた思考回路=偶像礼拝の思考回路なのです。

 

自分の全てを投げ出して犠牲になり神に全てを捧げなくては

ならないと言う意識そのものが完全に偶像礼拝の根であると

聖書には書かれているのです。

その様な意識で”わたし”=イスラエルの神に近づけない!

汚れた行動は自分自身を汚すと、神は教えているのです。

意識が別の場所にある。神との関係が初めからずれている。

顔と顔を合わせるかげりの無い親しい関係ではなくなる。。。

 

だから彼らの汚れた行動=捧げ物=自分の子供をモレクに捧げ

殺す事で自ら彼らは汚されたと書いてあるのです。

神は神の教えに沿わない行動=汚れた行為を断固拒否する事を

はっきりと預言書でも明言しています。

 

20:27それゆえ、イスラエルの家に語りなさい。

人の子よ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。

お前たちの父祖は、わたしに対して裏切りを行い、

またもや、わたしを冒瀆した。

パウロはこの様な箇所から、”神の名が異邦人の間で汚された”

と話しているのです。

ローマ2章:24

「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」

と書いてあるとおりです。 

 

ここでパウロは預言書を引用して語っている事に気が付きます。

もしパウロが預言書を引用するなら、それはトラーを土台にした

教えであり、トラーから外れた人達へ神が警告しているのが

預言書の内容であると理解するなら、どうしてトラーは無用

不要だなどと言う世間に19世紀の間流通している人間創作の

教えを神の教えであると矛盾、疑いなく平気で信じられるのか?その教えを聖書だと信じることの方全く不思議な事なのです。

 

”神の名” 名前とは、ヘブライの世界では、

”実質” ”実態””性質” ”評判”です。

 

神の名が異邦人の中で汚されているとは、神がエジプトで数々の災いの中、神の言葉に応答したイスラエルと少数の異邦人だけが守られ、神が奇跡を起こして紅海を割って導き出した事は、

エジプト近隣諸国ではその当時もっぱら評判、噂になって

誰もが知っていたのです。口頭伝達でマッハのごとく情報が

伝わった。それなのにイスラエルは神の教えや安息日=

シャバット=第七日目の記念日を汚し、日本語的に言えば神に

対して神の顔に泥を塗り続けたと書かれています。

 

20:12 わたしはまた彼らに安息日を与えて

わたしと彼らとの間のしるしとした。

<神がイスラエルとそして同じ様に神の言葉に応答した異邦人達へ神が彼らと特別な関係に入っている印として永遠不変の

シャバットを与えたと書いてあるのです。そしてその目的は>

 

これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、

彼らに知らせるためである。

 

<神の招き、言葉に応答した人達を神の上に神の目的どおりに

世界と分かたれた存在としたと書いてあります。>

 

それなのにどうなりましたか?

 

20:13 しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、

わたしの定め=トラー=婚姻契約=教え、インストラクションに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできる

わたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。

<異邦人は西洋人に神のシャバットは今は無効なので、今現在は

関係ないと教えられたので、初めからこの言葉は全然自分には

関係ない教えと捉え、耳に頭脳に全く響かないものなのです。

響いていたら、神の言う言葉の意味通りを理解したら、自分の

思想、態度、行動を完全に全部変えるはずだからです!

軌道修正し、変えないのは響いてないからです。

又は西洋人が作った記念日をそれを大事にすれば神の前には

良い事をしていると考えているのです。

 

そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、

これを滅ぼそうと思ったが、

20:14 わたしはわたしの名のために行動した。

それはわたしが彼らを導き出して見せた異邦人の前に、

わたしの名が汚されないためである。

 

あんなに大々的にエジプトから導き出したイスラエルの民を

永遠の婚姻契約をシナイ山で結んだのに、滅ぼしたら、

”な〜んだイスラエルの神はそう言うお方なのか”

と異邦人に違うイスラエルの神像を見せてしまう事になるから

それは出来ない。

 

”パウロが”神の名が異邦人の間で汚されている”と言ったのは

彼らが神のトラー=婚姻契約=モーセの五書に書かれた

愛の実態を生きてないから!とローマ2章で話しているのです。

 

ローマ

2:25 もし、あなたがトラーを行うなら、なるほど、割礼は

役に立とう。しかし、もしトラーを犯すなら、

あなたの割礼は無割礼となってしまう。

パウロはトラーを今は無意味だから捨てよと教えていますか?全くその逆を教えているでしょう?パウロの話している内容は

その通りに読めば、ここでクリアーに読み取れます。

トラーを本当に生きてるのか?とパウロは言っています。

パウロがトラーを否定した別の教えをしているなら、

パウロの語っている内容は精神錯乱した人が、その場その場で

自分の言っている意味も理解しないままコロコロ変わる教えを

していることであると言っている、それは聖書では無いです。>

 

2:26 だから、もし無割礼の者がトラーの規定

<神の定義する義教え、定め>を守るなら、

その無割礼は割礼と見なされるではないか。

 

ここで書かれているのがトラーを知らない人=異邦人でも

腹に書かれたトラー=神の性質をガードして生きるなら、

それは肉に割礼がなくても割礼があると同様の生き方を

実際の生き方で示しているではないかと話しています。

 

それを、パウロが神の永遠の教えである割礼は無用と言う話を

しているなどと飛躍して、聖書の真理=神の言葉の真意を曲げた解説してはならないのです。パウロに対し、神に対し、冒涜。

パウロが語る論点!をはっきり捉えて知る事をする。

形だけ、外見だけ割礼があっても、実際の生き方の中身は、

その人の行動、生き方、思索の実態は、トラーからずれた生き方をしているならば、それは白塗られた墓!外側は白くされた墓だけど、中身は墓=死=命から離れた生き方をする人達へ、

イエシュアが同じ様に叱責した言葉にぴったり繋がります。

マタイ23:27−33

 

 

続く