パウロの論点 パウロは100%神の言葉 トラーを支持し教えている ローマ2章〜3章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ 2:27 かつ、生れながら無割礼の者であってトラーを

全うする者は、トラーの文字と割礼とを持ちながらトラーを

犯しているあなたを、さばくのである。

 

割礼が無い異邦人がトラー=神の性質をDNAに綴られた

人間本来の生き方に沿って生きている、その人達が、

トラーを知りながら、肉に割礼がありながら、

実はトラー=神の教えに反している、犯しているあなた方を

判定すると書いてあります。

 

表向きの宗教哲学思想を唱えるだけで、中身が無い生き方。

神の言葉を実は生きていない!と警告して言っているでしょう。パウロは。

 

西洋神学の世界では、マルキオンやダービー、その他諸々の

異邦人教師達は、神の言葉は現在は生きる必要がないなどと逸脱した教えしているので、その教えを教えられてしまい、

その非聖書的教えを本気で神の教えであるのだと信じているので、パウロが話している内容がトラーから逸脱して生きている

人達への警告であるとすらも全く気がつけないのです。

聖書の字ズラを読みながら、真意を全く読み取れないのです。

 

今は恵の時代でなんでも許されているから古いトラー=呪いの

律法は生きなくてもよくなったなどと聖書のどこにも書かれて

いない、聖書で誰も教えてない教えを、トラーを知らない西洋人が作り出している事実を聖書からこうして見出す事、立証することができるのです。

 

その教えをする場合、聖書は100%モーセの五書が書いてある

事実に全く盲目状態で、聖書を特に福音書以降は別の教えが

書いてあるのだと疑いもせずに信じて読んでいて、聖書の中身は100%全てモーセの五書の解説であるとも知らない、

気がつかないのです。

 

神の言葉が永遠に変わらない真実であり、聖書を曲げる人の

教えは神の教えに敵対する事をしているからです。

 

2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、

また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。

<この箇所も同じです。形だけあっても中身が無いなら

ユダヤ人=神に選ばれた民としての生き方、役割をしていない。

肉に割礼があっても、頭脳に割礼が無いから、神の教えを

生きていない、中身は空!無意味!とパウロは言っているのです。割礼が無意味なんて話をパウロは100%していない。

論点が見えないと話をすり替えてしまう、論点をはぐらかせて

聖書に書かれていない読み込み、誤解の解説を編み出して世界へ公表し続けているのです。

2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、

また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、

そのほまれは人からではなく、神から来るのである。

 

隠れたと言う意味は、内側に秘められている本物の神の似姿に

造られた人間の性質、神のトラー=神の性質を内側に秘めて、

その人が実際トラーを生きるので外側の行動でそれが

見える人こそ本物のユダヤ人の姿を生きている。

 

文字によらず=これは人の教えと言う意味です。

又はただの字面だけ。

頭脳に神の教えが刻まれている=割礼がある状態が本物の

割礼の実態=それがあって肉にある割礼が真実を表していると

言うことになると言う意味です。

トラー=聖書によらないなどと誤解した解説をしてはならない

箇所です。

 

神の霊による頭脳の割礼=神の見る通り、神のトラー=

教え、インストラクション通りを生きる人が、頭脳に資質に

割礼=聖別された生き方を刻んでいる本物であり、その実態こそ

神から認められ誉を受ける状態であると書いてあります。

 

ローマ3章

1では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。

 2それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。

まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。 

<ユダヤ人は神の言葉、トラー、福音を世界へ伝える役割を

与えられた事は聖書に最初からクリアーに記されています。>

 

3それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。 

 

例えユダヤ人がそのミッション、任務に失敗したとしても

彼らの不誠実により神の誠実がキャンセル、無になるとでも

言うのか?とパウロは言っています。

このパウロの発言だけでも、”置換神学”=異邦人クリスチャンが

昇天以降新しい契約を受けて、契約受理の代表者となったという

西洋人の教えが作り物である証明される箇所でもあります。

 

ここで再度考えを軌道修し間違いの聖書解釈を書いてある本当の意味に正さないとならない事を思い出すべきだと思います。

パウロは最初からずっと”トラー!”をガードし、生きて、

他者へ教える事、その役割を担うユダヤ人に警告している事、

パウロが一点一画もトラー=神の言葉のどの部分も否定する

訳が無い事実がずっとパウロの口からも伝え続けられて

いるのです。その事実を見逃して、人の教え、神学の仮説で

解釈、すり替える、塗り替えることをやめないとならないのです。

 

4決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、

神は真実な方であるとすべきです。

「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、

裁きを受けるとき、勝利を得られる」

と書いてあるとおりです。

 

さて、ここで書いてある引用とパウロの言葉の意味、

話し方の意味を見てみます。パウロは、

3節で、パウロは誰かがパウロに質問したとしたら

どう答えるかパウロの考えを述べていますね。

 

”もしユダヤ人神のトラー=教え、インストクラクションを

違反、破ったら、それは神がもう彼らに対して誠実では無いと

言う証拠になるのであろうか?と。

そして、パウロはパウロの特徴的な語り口、”強調!!!”の

形で語っているこの特徴を知って読めば分かります。

 

現代英語で言えば、大声で”NO WAY!!!"この言い回し英語を

話す人、学ぶ人なら聞きますよね。”ノー ウエイ!”

”絶対にありえない!!!!”と言う意味で書かれています。

ギリシャ語での翻訳は、me genoito文字通り、"Let it not be"
決してそうあってはならない。"may it NEVER be so"

英語の言い回しだと、”天が許さない、神がそれを許さない!”

God forbid、Heavne forbid。

絶対にありえない、どんなことがあれども不可能!ありえない。

パウロがトラーを100%ガードしてその事実、土台から話している事を、こうしたパウロ独特の強調フレーズを使っている

話し方で読み取る事が出来るのです。

強調、感嘆形で語っているパウロの言葉はローマ書の中で

繰り返し繰り返し同じ論法、話法が使われているのです。


パウロは、神の誠実さは人の誠実さ、忠誠の状態により変化するものでは無いと強調しているのです。

パウロが引用している箇所は、詩篇116:11

” わたしは驚きあわてたときに言った、

すべての人は当にならぬ者である」と。”

 

そして詩篇51:4から直接引用し神の性質の側面を解説して

います。

51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、

あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告を

お与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは

誤りがありません。


言い換えれば、神は常に神の言葉を保ち、そして神の民が何を

しようとも、神の民に対して誠実を尽くし続けるとあります。

だから、神の言葉と神の裁きは常に正しいと証明されるのです。

神は神の契り=婚姻契約書=トラー=モーセの五書でされた

約束、言葉、契約をどの時代も誰に対しても、決して破ったり、

変えたりしないのです。

 

それが神の言葉=聖書の事実であり、人がその神の言葉の性質

中身を歪めて解説しているだけなのです。でもそれにより神の

言葉が無効、変更になった証拠にも何にもならなのです。

人は神に造られた創造物であり、ただの人間、神では無いのです。

神の言葉をどの一文字、一句でも人が否定する、無効であると

宣言すると言う行為は=神の場所=誰も入れない領域なのに

人間が上って神に成り代わって別の教えを語っている恐ろしい

冒涜に気が付かないと危険!なのです。

 

ローマ3:10 

次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。

3:11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

 

この箇所の内容はパウロがトラーを終わりとしている事と

直接繋がりませんが、”性悪説”と言う人間の仮説、

神学の土台とされている箇所です。これは別の項目で書きます。

ここに書かれているのは、神が取り戻した本来の人間の姿=義と

されている、神の似姿である本物自分を得る前の全ての人、

別の目が開かれてエデン=喜び=神の中から飛び出た人達の

状態を話しているのです。贖われて救われた人達を、神はどう

解説していますか?パウロも”聖徒たちへ”と書簡の最初に書き、

”罪人たちへ”と宛名書きしてないでしょう?

しかもレビ記の中の全ての捧げ物の意味と神の祭壇の前で神が

語る”人”の本当の姿=神が取り戻した人の本来の姿を神が教えている内容を知れば、はっきり分かる”見よ!

全ては新しくなった”と言う意味がクリアーに見えるのです。

これは長くなるので今は脇に置いて起きます。

 

以下の箇所も、モーセの五書が終わり!と言う大飛躍の誤解の

迷路に突入する箇所です。パウロの解説の論点、

ポイントを完全に誤解している良い例だと思います。

 

3:20 なぜなら、トラーを行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。

トラーによっては、罪の自覚が生じるのみである。

 

パウロはクリアーに事実を述べていますね。誰一人自分の手柄

行動、行いで神の義を獲得出来ないと言っています。

だから、神の言葉を行い、義と認められようとすると言う考えは

全くずれているでしょう。

その通りですよね。もし人が何かをして、自分の努力で神の義を得られるとするなら、それこそイエシュアの業はな〜んの意味もない茶番劇ですよね。イエシュアの贖いの血は不必要!では

なんで子羊の血を鴨居に塗り、イエシュアが実際に地上に来られて、木にかけられて処刑されなくてはならなかったの?と言う

疑問が出てきますよね。

 

それは人は誰も、自分で自分を贖い出せない、自分で自分を

持ち上げられないでしょう。人が自分で支払う事の出来ない代価を神が代わりに支払った証拠がちゃんと書いてあるのです。

だから、トラー=神の教えを生きて”義”とされないと言うのは、

トラーは、神の義を得る手段では100%無い!!!!と

クリアーに書かれています。

でも宗教では、ずれた意識、律法主義と偶像礼拝の意識で、

神の前に一生懸命あれこれ頑張らせる事を気が付かないままに

すり替えて、させてしまっているのです。

これはガラテヤの箇所でも解説していますが、神のトラーは

いくつか目的があることがちゃんと説明されています。

 

続く