とんでもなく最大限に誤解され解説されている パウロと彼の書簡の内容 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャヴオートが16日の日曜日日没に始まり17日の日没で

終わりました。

キリスト教の世界では23日がシャヴオート=ペンテコステ

でしたが、聖書の暦とローマカトリックの暦はズレているから、

オリジナルの神の記念日の日程とは違うのです。

 

シャヴオート=ペンテコステの祭りを祝うなら

これも三大都上りの祭りの1つであり、春の最後の祭りであり、春の過越から繋がって7週を経て祝う、”トラー”=神が文字で

記した証拠として婚姻契約書を受け取った記念日です。

その祭りの意味、内容の事実を語られる事は、

クリスチャンサークルの教えの中には無いと思います。

 

オリジナルの神の言葉と、西洋宗教の教えの違いは、

オリジナルの中身を知れば知るほどその誤差が見えて来ます。

 

本質が全く違うものだからです。神の言葉と宗教とは性質が

違うものなのです。神の人へのアプローチも違う、神像も違う。

同じようで似て非なるものです。

 

聖霊に導かれれば聖書が分かると一括りに解説されてしまいますが、聖霊とは、神ご自身であり、神=言葉=霊なのです。

神の言葉は神の霊により書かれたと書いてあるのです。

だから、聖書に書いてある内容を、書いてある意味通りに

まず把握する、もしこれが無いなら、空想や想像の世界で聖書に

書かれている内容とは違うものになり、書かれている内容を誤解すれば、聖霊に導かれて教えられるチャンスが無くなってしまうのです。聖霊に導かれるとは、”神の声の下”=言葉、声の中で

神の語る通りを聞く、その状態にある!と言う事なのです。

だから神の言葉とは違う教えに聞き行ったら、霊に導かれてても気が付かず神の教えでは無い事を信じてしまう事になるのです。

 

当然の事なのに、一括りに聖霊に導かれれば分かると言いますが

聖霊に導かれれば、神の言葉は100%永遠不変、完全と気が

付けるはずなのです。書いてある通りに、神の言葉を理解する、

汲み取る、読み取ることの大前提抜きでは、それはありえない

事なのです。

人間の書いたものでも同じです。文章に書かれた内容を誤解したら、真実に辿り着けない行き止まり、相手の意図を誤解した

ままで停滞してしまいます。

 

異邦人の世界で語られる聖書の教えは、18−19世紀に出て

来た人間至上主義思想を土台に、西洋人が編み出した西洋神学を元に翻訳聖書からだけ語られる世界が主流ですが、

これは又折々書いて行きます。

 

秋の仮庵の祭りまでの間、パウロの書簡に書かれた内容がいかに誤解され、曲げられ、聖書から逸脱している解説を普通に

されてしまったのかのトピックに入ろうと思います。

 

使徒の書簡の中に書いてある、誤解されている箇所、

例えば11章のペテロが見た幻の内容、意味を誤解して

”レビ記11章”の食規定が変化したのだと解説されて

しまっています。

15章などを読み、異邦人にはユダヤ人とは別の教えで4つだけ守れば後の教えは生きなくて良いと書かれているとか、割礼も

要らない、無意味となったとか、とんでもない誤解の解説が普通にされていますが、聖書にはそんな事は書かれていないのです。

 

書かれている意味を知らないと見えない世界があります。

割礼=信じたらユダヤ人になり改宗し、異教徒の世界、友人、

親戚とも一切縁を切り、複雑な儀式を経て改宗すると言う聖書では無い当時のユダヤ人ラビたちの教えの一連を行うことを

”割礼”と言うタイトルで呼んでいたのです。モーセの割礼の話では無い。もちろん、その中にはモーセの割礼も入っていますが。

 

そんなハードル高くしなくても良い。信仰による義を受けた人は

ややこしい人が編み出した一連の不要な事をして仲間に加わる

資格を得るなどしなくても良い。でもトラーを知らない異邦人達は、まず知らなくてはならない事は、交わりをする上でトラーに書かれている神が語る汚れを交わりをする上で持ち込めない!

汚れや聖別の意味を知らない異邦人の振る舞いに、

ユダヤ人はドン引きしてしまうからです。

汚れの持ち込み禁止!その大前提の4つをまず知る。

その後は折々毎週シャバットに神の教え=トラーをパリサイ派の人たちから学んで行けばやがて、異邦人も神の教えに気が付いて学んで成長して行くから、とりあえずこの4つだけは交わりを

する上で守ってね!と寛容な対策を提示したのです。

 

しかもパリサイ派のイエシュア信者のグループです!

パリサイ派=悪者偽善者と誤解していますが1世紀当時、

パリサイ派は社会的に信頼された存在の人々であったのです。

 

中には、ずれた考えをしていた人がいて、そのずれた人々が

イエシュアと議論している箇所を読んで”パリサイ派=偽善者”

悪者律法主義などと言う勝手な想像、空想で聖書を読んでいる

だけなのです。

 

どんなグループの中にもそう言うずれた考え、極端な教えを

押し付ける人物はいるでしょう。それと同じです。

 

そして日曜礼拝になった証拠と言う箇所も実は全く違います。

しかも使徒の中で”安息日”=シャバットはずっと第七日目で

パウロはシャバットで会堂で色々な人とトラーについて論議している記録も何度も書かれています。

使徒1:12 3:17、24、42、44 15:21

16:13、17:2、18:4

シャバットとは第七日目であり、第一日目では無いと言う

事実からだけ聖書、神の言葉を曲げずに読まないなら

書いてないことを書いてあると空想してしまいます。

神の記念日が変更したとは聖書の事実ではありません。

人間が変えただけ!カトリックが変えましたとカトリックが

文書にしている通りなのです。神は変えてない。

 

使徒20:6 

わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、

五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、

そこに七日間滞在した。

20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

過越の祭り=種無しパンを食べる週が終わった後の、

最初の週と言う意味です。穂を数える週の中の事です。

しかも祭りの意味を知る人なら分かると思いますが、祭りは全て1年を巡りシャバットを中心に生きて祭りを迎える。

祭りも曜日に関わらずシャバットとして開始し

シャバットとして祭りを終えるデザインなのです。

 

だから除酵祭りをすると言うこと、イコール、シャバットを

祝うことをしていると言う人達である事に聖書の事実から

気が付かないとならないのです。

 

この文章の中には、”日”と言う言葉は実は原典には無い言葉なの

です。こう言う聖書に無い余計な言葉の挿入は誤解を招く

でしょう。無い言葉をわざわざ挿入しているからです。

 

でもパウロ達はどこに行っても全てシャバットは第七日目を

祝っていることが書簡にも使徒書簡に書かれていますね。

この日だけなんで第一日目をシャバットとして祝うの?

いやシャバットを第七日目から曜日変更して祝うわけないのです。

トラー=神の教えを知るユダヤ人なら。しかも使徒や預言者が

神の記念日を変更する大罪など犯さないのです。

辻褄合わない事に気が付くはずです。そして神の記念日は永遠に変更が無いと神が人に教えている事実を知ってれば、

ちゃんと翻訳聖書でも事実が読み取れます。

ぶれている翻訳の臭い箇所に気が付けます。

 

基本中の基本の聖書を読む土台は、モーセの五書に書かれた教えは永遠に不変であり、同じ神の家の子らになった人達には同等の教えなのです。

それを人がどう受け取るか、行動するか、生きるかはそれは

個人の神の前の選択であり、神の教えは灯台と同じ!

不動!変わらない。船が軌道修正を拒否して、氷山にぶち当たるタイタニック号になるのか、それとも神の教える通りを生きるのかどちらかなのです。

 

使徒の書簡の詳しい内容は以前に書いたので今は書きません。

ローマ書以降の中で、キリスト教の世界で誤解して解説されて

いる箇所を取り上げて見ていきたいと思います。

誤解の前提は、”モーセの五書”が破棄されて、新しい教えを

パウロがしていると誤解していること!なのです。

 

その大誤解の前提を捨てて聖書を書いてある意味通りに

把握すれば、100%モーセの五書、トラーが書かれている事に気が付けるのです。

 

 

 

 

 

続く