シャヴオートを迎える 神の記念日は永遠 預言的祭り イエシュアの業を表している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

捕囚で捕らえられて、異教の地に住んだユダヤ人達も、

その後イスラエルの国を追われて世界へ散らされたユダヤ人も、

異国で出来る限りの範囲で神の記念日を生きて、そして普段の

生活も神の教えを生きると言う神からの仰せをガードして

いたのです。元々神は神の記念日は、イスラエルとそして

イスラエルの神の言葉に応答して、イスラエルと共に鴨居に

子羊の血を塗り、出エジプトして来た異邦人たちも、

家畜に至るまで神の記念日には止まり、祝うと神の言葉で

直接人に教えているのです。

 

イスラエルと共に出エジプトした異邦人=それは私達ユダヤ人では無い、異邦人一人一人の事でもあるのです。

神の言葉、教えに応答して、永遠の命をイエシュアを通して

頂いた事実は、全くどの人種でも変わりないからです。

イスラエルの神の国の大家族に加えられた人は漏れなく、

イスラエルの神の国の”国民的契約”の中に加えられた!

同じ生き方をする!と聖書にはクリアーにずっと記されて

いますし、パウロも同じ事実を語っています。エペソ2章では、

はっきりその事実をパウロは異邦人に伝えています。

 

以前にクリスチャンのサークルの中でペンテコステと言う日を

話題にしたのは覚えていますが、実際にその日を祝った経験も

記憶も私には全くありません。どの国に住んでも、イスラエルの神のオリジナルの記念日を教えられたり祝った事は一度も

ありませんでした。

オリジナルの聖書の中身も聞いたことも学んだ事もなかった

のです。実際に神の記念日、オリジナルが聖書に書いてあり、

それは異邦人にも同じ!と言う事実を聖書に基づき教えられたのは、13年前の出来事。翻訳でもそう書いてあるのにその事実にさえ気が付かなかった。それが全ての初めてであり、聖書、

トラーの再発見、再学習の旅路へのスタートの始まり

だったのです。

 

初めて神の記念日を体験したのは”過越の祭”でした。

これは本当の印象的で楽しく、そして一生涯忘れられないものとなりました。

 

その後イスラエルで初めて祝ったシャバットは私の中では、

決定的分岐点になったものでした。はっきり!理解出来た。

雲が晴れてはっきり見えた。神の教えは、言葉は永遠であり

変化がないもの!だと言う事実。人の教えの雲が吹き飛び、

神の語る言葉の事実だけ!その事実に辿り着くまで約3年

かかりました。なぜなら、人の教えと神の教えの区別がはっきり

見分けが付かないまま、いやそれ以前に私が聞いて来た教えは

人間が作った神学を通して解説している教えであり、聖書の事実では無い数々の教えであったと言う事にさえ全く気が付けない

状態からスタートしたからです。

しかも神の言葉は変化無し!と書いてあるのに、どうしても

途中で変化したと人の教えに引っ張られ続けていたのです。

 

でもなんか変とは気が付いていましたが、これ!と言う決定的

確信、証拠に気が付くまで事実が掴めないまま、分からない

まま探り続けたのです。原典聖書の中身に書かれたもの=

オリジナルに書かれた内容、本当の真意を知らなれば、

決定的証拠に基づき人の教えと、神の言葉の真実を

見分ける方法がないからです。

調査の意気込みは探偵そのものです。

 

でも徐々に徐々に神の言葉の永遠不変性の真実が聖書から見えて来て、今まで聞いていた教えと、本物の聖書の中身との何が違うのか決定的に分かったのがその時だったのです。

ジグゾーパズルのピースを繋ぎ続けて行ったら、

図柄が出て来て見えてくる。それが真実を求める人には

誰にでも起きるのです。

探し続けなさい、そうすれば見つかる!叩き続けなさい、

そうすれば扉は開く!誰でも求めるものは、神の真実を

追求する人は神が神の語る真実を証明して下さるからです。

 

イスラエルの神、創造主が造られた記念日が変更になった

又は個人の価値観や意見で変更して良いと誤解している箇所の

一つが以下だと思います。

 

ローマ14:5 

また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、

ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

 

この箇所で語られている”日”は神の記念日の話では無いです。

ギリシャ語で書かれていますが、定冠詞も無い普通の日の事。

英語で言えば、a dayとthe dayは違います。

ἡμέραν へメラン=英語にすると”a day”です。

日本語には定冠詞がありませんから、表し難いですが特定な日では無い。つまり神の記念日と言う特別な日、ハ ヨムと言う

ヘブライ語では無い、ただの普通の日であることが言語では

分かるのです。 

それ以前に、聖書のどこにも神が創造や暦、神の教え、

神の記念日を人間の意見で変更、削除しても良いなどと言う

西洋人が考える思想は聖書には書かれていないのです。

 

神の創造、神の時=記念日、神の言葉を人間が仕分けして良いと

考えるのは、神の言葉とは何かを知らない異邦人だからです。

神=言葉。神の言葉で創造された全て創造されたもののどれも、人間が入る余地が無い!と言う事実に基づけばクリアーな意識で神の語る真実が見えるはずです。

そう言った誤解から聖書を曲げて読み続けている事実に

気が付けば良いのです。

絶対の前提=神の言葉は永遠であり人間が削除、付け足しが

できない性質のもの!神の時、神のデザイン、神の創造物を

人間が手を加えて改造するから狂うのです。

神を、神の言葉を、神が創造されたものを、

人間が改造出来るとでも主張するのでしょうか?

 

10000%聖書では無い、パウロがそんな人の意見で

神の言葉教え、神の記念日を仕分ける話はしていないのです。

パウロはこの箇所で自分の意見で神の言葉や時を、人の意見で

判定、仕分けられる話などしていない!と言う事実に

気が付いて読む必要があります。

 

この箇所は、パウロの書簡で誤解している箇所で書きますが、

神の記念日の話では無いです。彼らローマにいる信者達、

弱い者=信仰の浅い人が考える”伝統や習わし”で教えられた事

例えば、野菜しか食べないと決めている人がいるとか、

聖書とか信仰とは関係ないけれど誰かの何かの生き方のこだわり、信条がある。

 

どの日も=人間の教えの中の記念日、誰かに取って大事だと

思っている日の話なのです。自分に取っては、この日はあの日

よりも重要と考えている、この日に何々するのが良い、適切と

考えている人がいる、そう言う特別なこだわりがある人、弱い人=信仰の浅い人、本当はどちらでも良い事なのに!どうでも良い事で真剣になり議論になる様な場合にどう対処するのか?

と言う話なのです。

だからどちらでも良い事ならば、その人が確信する良い事を

選べば良いでしょうと、パウロは中立の立場を取って

穏やかな平和的解決策を述べているのです。

 

そう言う人の考えについて、どうでも良いことにああだこうだと

議論せず、それぞれが確信して良いとすることをすれば良い

この箇所のアドバイスは神の記念日に関しての話では100%

無い!!!事なのです。そんな神に対して人の意見で仕分けて

削除、付け足しして良いですなどの冒涜的教えをパウロがするなんてあり得ない話です。人間が神の創造した記念日に手を付けて

変更、削除して良いなんてあり得ない!のです。

 

これは別の記事に、神の教えが変わっていない証拠である事実に

聖書に基づき、イスラエルの神の国の国民的契約の内容に関して書く時に詳しく書きたい内容でもあります。

今日の夕方に迎えるシャヴオートの祭りに戻ります。

シャバットは神が創造を終えて最初に人にそして全ての創造物と

祝った記念日であり、永遠に祝われるもの。

シャバットが全ての中心であり、人が神との関係に入った印で

ある証拠の記念日。神とイスラエル=イスラエルの神を信じて

同じ神の国、家族に加わった人全て、家畜も含めて皆止まり

祝う日と聖書には書かれています。

今年5月16日日曜日日没に来るシャブオートの祭りは

過越の祭に繋がる祭りです。そして三大都上りの一つです。

 

神が造られた神の記念日は神が紹介している通り永遠に

祝われるものであり、神の側では神の招きに応じて共に

祝う人と永遠に祝う記念日であるのです。

 

神の記念日はどれか一つだけ取り出して祝う様にデザインされて

いません。だから単独に”シャヴオート”=ペンテコステだけを

祝うと言うのは神のデザインでは無いし神の性質=エハッド、

シャローム性に反するものなのです。

神の時=神のオリジナル創造の記念日は、週一度のシャバットを

祝い、そして新月を祝い、そしてその中に来る春の過越の祭り

種無しパンを食べる週、その中にある”初穂”を捧げる日を祝い、

そして過越の祭から7週を経て、シャヴオートを祝う。

これが春の祭り、祭りの祝い方です。

 

 

続く