神の言葉、教えに付いて書いてある内容を遠回りして解説しなければならない理由は、1つの内容を理解するには、その前に理解するべき必要な1つのピース、概念=コンセプトがあり、
それが分かった上で聖書の1つの基本的ピースを説明しないと、その解説している意味が分からないと言う様になっている
からなのです。
数字を覚えて、その次に簡単な足し算、引き算、その次に九九を覚えて、割り算へとピースを積み重ねて行かないと次の段階の
内容が見えないのと全く同様なのです。又は言葉の学習と同じ。
赤ちゃんが言葉を覚えるプロセスと同じ。
最初はあ〜あ〜としか言わないのに、だんだんと物と名前が
一致し繋がり、やがて単語が言えて、そして二語文、三語文が
話せる様になり、そしてそのうちに複雑な思考を自分の言葉で
表す事が出来る様になる。
神の言葉もそれと全く同じ性質なのです。
なぜなら神が人間の言葉を創り、人は神の言葉で出来ており、
神イコール言葉と書かれている通り。
言葉は神の性質を表すDNAであり、設計図と同じ。
そして情報伝達手段です。
神の設計図通りに組み立てない=神の言葉の意図でないものを
組み立てたらその場合は神の性質とは違う別物が現れるのです。人の創作した教えと言う別物=別の福音。
その事実が聖書の至るところに書かれています。
神の設計図=神の家=神殿=神の性質、神の性質そっくりに
造られた人間が一番親しい間柄を保ち住まう場所=神殿。
その神殿=”天に存在する神殿”を神がモーセに直接肉眼で認識するために見せた通り、設計図通りそっくりそのまま地上に
造りなさい!”と神が言われた言葉がぴったりその性質を表しています。
神のもの、神に属するものを表すには神が見せる設計像通り!
神の言葉、インストラクション通り!を造り、教えて、
そして神の実態=言葉通りを生きる!
出エジプト25:8
また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。
わたしが彼らのうちに住むためである。
<最初から神が人の中に住まう事実は神の口から
直接最初から語られています。>
25:9 すべてあなたに示す幕屋の型および、
そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。
人は歴史の中で神の言葉を否定し、終わりなのだと見切りを付け神の伝える神の国の家、人間の生き方=”型”=モデル、生き方を学ばない世界に入ってしまったのです。
1つ1つの聖書のファンデーション ピース、土台となる
ヘブライ聖書のコンセプトやヘブライ思索、ヘブライ語の言葉の意味を知って行かないと次に繋げて行けない、繋がらない、
見えないからです。編み物をするのと同じ。
1目1目を編んで初めて形が少しずつ仕上がって行くのと同じ。
だから土台=モーセの五書=トラーを飛ばしたら教えの中身が
自由自在の発想でぐちゃぐちゃの別物になるのです。
大事なピース、要素を飛ばして話したら、何を話しているのか
意味不明になってしまうから1つ1つを説明する遠回りを
しないとならない訳なのです。ある聖書箇所を取り出し、
自分創作、自分の発想で語る事は誰にでも可能です。
どんな教えでも創作し編み出せます。得に神の言葉は変わったと言う教えを信じるなら、それこそ神のどの言葉の箇所もその人の価値観や自己判断で変形して良い事だと考えているから、
神の教え、言葉を変形する言う事をするので、聖書ではなくて、人間発想中心主義の自由自在な教えが出来上がるのです。
それが聖書とはずれた思想の西洋神学の中身。
神にだけに語らせる=聖書の事実だけに語らせると言う事を
しない西洋神学の教え、その教えを土台として信奉している
教えは、別の教えを編み出し続けています。
神だけに語らせると言う事を人はしないとならない。
神が語る=神の言葉があるのに、横から人が大きな声で違う教えを唱えるから、神の語る真実が遮られて、神の言葉、教えの本質=真実が聴衆には聞こえない状態になっているのです。
そして、聖書=神の言葉=教えは全て!全部繋がって1つの
性質なのです。
体と同じです。どの部分も繋がって1つです。細胞と同じ。
衣服はヘブライの世界では実態を表すものですが、
衣服でさえ見えない部分の縫い目や繋ぎ目やボをほどいたり
付属品のボタンやジッパーを取り外して捨ててしまったら
バラバラになって1つの衣服として機能しなくなります。
ただの布切れになります。
しかも、最初のスタート地点から端と端をちゃんと合わせて
縫わないなら、出来上がりの衣服は歪んで、ずれますよね。
土台が歪んでいたら建物は歪み、ピツアの斜塔になります。
ずれた教えは、端と端が合ってない=聖書の記述=神の言葉の
内容に合っていない解説をしているから矛盾がたくさん
あるのです。矛盾を又人の作った解説でうまい具合に穴埋めして
いるだけなのです。
ボタンのかけ違いでも平気で洋服を着ている状態。
服の70%は綻びてバラバラにされていてその状態で無感覚で
いる訳です。神の言葉の真実から人の作った教えがずれていると気が付かないからです。
だから異邦人の世界が伝統的にローマ西洋宗教を土台に語る
聖書解説は、バラバラ、別物、別の教え、新しい別の契約、
別の福音と言う解説が聖書とは全く違う事である事実をはっきり知る必要があるのです。聖書を誤解した教えが、さらに誤解を
生み出す、聖書の教えではない教えが雪だるまの様に
膨れ上がる教えになっている。
聖書では無い教えである内容を知るには、オリジナル言語で
書かれた聖書の意味通りにだけ戻り、その中身を知れば
伝統で教えられている西洋人が作った神学を土台にする聖書解説や発想は異邦人の世界の思想であり、ヘブライ思想=ヘブライ
聖書とは全く異なる性質、全く関係の無い教えであることは
聖書=神の言葉の事実、性質から明らかに分かる事なのです。
ある部分は真理でも、本質や神の性質、アプローチが違うもの
になってしまっているのです。
さてアロンの子らのナダヴとアビフが何故死んだのか?
神は”聖別”の意味を”神の国の国民的契約書=婚姻契約=
モーセの五書の中で詳しく解説しています。
福音書以降も同じコンセプト=概念、意味、同じ教え、同じ
モーセの五書の真理がずっと書き記されているのです。
昇天以降別の福音や別の新しい教えや、神の言葉を否定した
別の契約書がパウロや使徒により語られていると言う
偽りの神話を信じてはならないのです。
聖書のどの箇所にも!神の言葉が消滅するとか変化した教えは
1箇所も、一文字も書かれていない事実に気が付かないと
ならないのです。
ナダブとアビフの用いた火、これは”異火”と日本語訳では書かれていますが、コバーンを神の前に捧げたから死んでしまったと
記述されています。
イスラエル、そしてレビ族のアロンの子らは非常に重たい責任を
負っています。モーセも同様でした。
約束の地に入る前に神が伝えた通りをせずに違う事をした。
岩に語りなさいと言われたのに、岩を二度も叩いた。
それは神の伝える事を正しく人の前で神の教えを伝える代表として神の真意を表し、行動する=そのリプレゼントをしなかった
大きな罪の代償なのです。得に神の言葉、教えを伝えるリーダーは神の言葉通りを伝え、生きる事をしないなら、
その代償は大きいのです。
だから”誰でも教師になってはならない”詰まり神の伝える教えや
言葉の内容をきちんと学習せず、知らないままで、
神が伝える内容とは違う、違う教え、違う福音を他者に伝える
大きな罪ズレの弊害、代償、損失が付いて回ってしまうからです。
他者の人生を左右する過ちでもあるのです。人を誤りに導く
手助けを自らしてはならないからです。神からの資質、訓練が
無いならその役割は担ってはならないと神が警告しているのは
当然のことです。
ヤブ医者は危ない!と普通の人なら分かるでしょう。
それです。
レビ記は”仮の罪”の赦しの数々が書いてあるのでは無いのです。
イエシュアの業、神の子らの生き方がそこに書いてあるのです。
レビ記その他、聖書を読む前提=仮の教え!と言う偽の前提
非聖書的な教えを削除して読む。その中身はちゃんと書いてある
通りに手引きされて学べば、神の愛の深さと神に造られた人間が
どの様に生きるのか、その麗しい生き方の詳細に気が付けるのです。その生き方を捨てるから世界はもうメチャクチャになって
しまっているのです。
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおの
その香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、
異火を主の前にささげた。
これは主の命令に反することであったので、
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、
彼らは主の前に死んだ。
次回からはこの箇所で書かれている意味、そして”聖別”の意味について、書いてみたいと思います。
続く