救い主の系図、その家系の代表であるダビデ王。
油注がれたもの。
ダビデの系図から救い主イエシュアが生まれて来ました。
ダビデもイエシュア=救いを知って、そして神の教え=トラー
を生きて、この詩篇を書いています。
ダビデはトラーの知恵によって生きる内容を賛美で、
又祈りで様々に綴っています。
ダビデの教科書は”モーセの五書”のみ、そこには人に必要な全てが書いてあるからです。
預言書、諸書、福音書以降全ては、トラー=モーセの五書の
解説である事実があるのです。
世界伝道へパウロ達が教えに行ったその教えは、携えて行った
教えは、モーセの五書!!!この事実はクリスチャンの世界では全く語られない、教えられない、知られていない、
認識もされていない。
イエシュアが来られて別物の新種の教えを教えのだと解説されて
しまっています。
イエシュアの教えた内容は100%完璧にモーセ五書=
トラーなのに、10000%完全に神の言葉を勘違いされた
解説が流通しています。
新約聖書は新しい教えが語られていると思い込んでいると
思いますが、新約聖書と人間がタイトルを付けて呼ばれる
箇所の内容は、トラーの短い解説です。
福音書〜黙示録の箇所は使徒達がこの地上から去った
何世紀もたった後に初めて聖書として認識されたものです。
一般に流通したのは、印刷技術が開発されたずっと後。
15世紀以降です。それまで書物は全て手書き。
部数も少ない。個人が聖書を持てない。
ユダヤ人の間ではトラーを丸暗記しているので、
聖書は太古から彼らの間では口頭伝達で、神の言葉が
普通に教えられていたのです。その違いがユダヤ人と異邦人との聖書教育に関する環境の大きな違いなのです。
そして福音書〜黙示録の中身は100%トラー!なのです。
しかも中世以降まで印刷技術が無い時代です。
その新しい部分の、トラーの解説書は、誰もほとんど知ることが
なかったものです。もちろん福音書やパウロの書簡の手書き
コピーを読んだ人も特定の人達、本当に極少、限られていたのです。
はっきり言って、福音書〜黙示録の中には、
キリスト教で教えられているような神の言葉を否定した、
別の新種の教えなど1カ所も書かれてなどいないのです。
その事実にクリスチャンの多くは気が付いていないだけ
なのです。
なぜ?イエシュアが来られて違う教えが教えられたとのだと
異邦人が主張している聖書とは異なる教えを信じているから。
そしてモーセの五書を原典聖書に書いてある通りには、
学ばない、教えられた事がないから、何が聖書で何が人の作った神学=教えなのかの区別が付けられないと言う簡単な理由です。
モーセの五書の中身、預言書の中身を書いてある通りに教えられれさえすれば誰でも中身は永遠不変の神の一貫してぶれない
同じ唯一の福音=内容である事は理解出来るのです。
福音書〜黙示録は100%どの箇所もぴったりトラーに
マッチした内容だけが書かれているからです。
コロコロ変化する、二心、二枚舌の神なんて
イスラエルの神ではないからです。
文書の理解能力の問題ではなく、聖書の事実では無い、異邦人が
創作した教えだけを信仰の最初から聞いていることが問題の根。
そして中世の時代も文盲の世界で、西洋カトリック修道士だけ
から、彼らの思想を通して解釈している聖書の内容を解説されて、聖書でも何でもない、関係ない教えが聖書であると、
教えられてしまったのです。
それは多くの人が知っている事実だと思います。
聖書では無いカトリック修道士が作った教えが聖書だと信じて、それが大問題だったからです。
だから当時の中世の教えに反発したのがルターでしたが、
そんなルターもカトリックの教えを全部削除せず、続いて継承し続け、人間の教えを一掃せず、オリジナルの神の言葉には
戻らなかった”落とし穴”があるのです。
だからカトリックもプロテスタントも信仰、信条、儀式、
記念日の内容日時など多くの点で共通点があるのです。
信仰の根を共有している。プロテスタントはカトリックの教え
から枝葉した教えだからです。
だからどちらも”神の古い教えは終わった”と人の作った教えを
聖書であると信じているから、イエシュアがモーセの五書を
教えているとも気が付かないのだと思います。
西洋宗教と言う共通点。ヘブライではない。
トラー=神の言葉、教え、インストラクションは、なぜ始めから人に知られていたのか?神がエデンの園から、時代ごとに、
同じ神の教え=人間の生き方=同じインストラクション=
トラーを、神が口頭で直接人に伝え、教え続けたからです。
その記録がモーセの五書です。誰に?ユダヤ人にです。
アヴラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神は、
神が呼び出した代表者に神のトラーを伝えていた。
エデンの園から同じです。
アヴラハムが神のトラーを理解していた事もはっきり書かれて
います。
創世記26:5
アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。
わたしの言葉=トラー=さとし、いましめ、さだめ、おきて
トラーに書かれている内容なのです。
詩篇119編一番長い章ですが、その中に書かれているのは、
トラー、神の教えを慕った賛美が書かれています。
そこに”教え、さとし、いましめ、さだめ おきてetc が
書かれています。
ノアもどうして邪悪な時代にたった一人神の前に
正しかったのか?それは神の教え=トラーを理解して、
神の教え=トラーに書かれた、神が口頭で伝えたトラー=神の教え、インストラクション通りを生きてたからです!
それをユダヤ人達=残りの民が口頭で次世代へ教え続け、
そして出エジプトした時に初めて”イスラエルが1つの国民”と
して、神が国の契約書をモーセ代表として与えられ
受け取ったのです。
古代から一字一句、神の口から出た言葉を書き記し、
それをユダヤ人達が厳重に保存し、そっくりそのままを
書き記した。トラーを書き記す人はトラーの中身を
理解していないとならないのです。
特別な訓練を受けた人達だけがその任務を遂行出来る事だから
です。
だから、聖書に出てくる律法学者と訳されている人達は、
トラー学者でありトラーを書き写す能力が訓練、学習を
通してその仕事が出来る人達をそう呼んでいる。
律法と言う最大級に不適切な翻訳用語を神の言葉に対して
使うのはもうやめましょう。イスラエルの神の性質と、
神の言葉の性質を表すものではないからです。
遺伝子組み換え=DNA組み換えと同じです。
神の言葉の本質性質を変えてしまっている。
聖書の事実、性質を表す言葉とは全く違う性質の翻訳は
人に違う意識を与え続けてしまうから!除去、消去、削除。
神が直接語られた言葉を代々人が一字一句間違えずに書き記す。
完全なる奇跡ですよね!聖書を書く事自体も奇跡です。
神が選ばれた人達を通して瞳をガードするが如くに
神は神の言葉=教えをガードして人に伝えて来たのです。
このぶれない証拠があるから、今聖書が存在する。
翻訳聖書では訳す人の思索や信条により、翻訳用語が千差万別、人の思想まで入れらたり、翻訳用語も聖書にはマッチしない言葉を造語したりと不適切なものもあり、さらには聖書に無い文章、言葉まで、入れている。なぜ?自分達の思想に沿ってそれを証明する意図があるから、聖書に無い文章や言葉を挿入して
オリジナルの意味を変形しているのです。
人間解釈の非聖書的注解、聖書とは異なるコメンタリーを
入れている。
その代表がダービーの思想に傾倒したスコッフィールドと言う
問題ある人が作った非聖書的=彼らが編み出し創作した神学を
証明するための注解を入れた聖書。曲げられた聖書の教え。
そして旧約新約という聖書では無い概念のページまで
刷り込まれてしまった。
でもヘブライ語原典聖書は違うのです。ごまかし、変形が
出来ない様に神が1つの言語を選んだ!ぶれない。同じ!
どの聖書も同じ言葉、同じ文字数ぴったり同じでずっと
書き記されて来た。
たった一つの言語、たった一つの国民を選び出し、
ぶれずに1つ!全ての民族は1つ神の言葉=1つの福音=教えを生きることに戻り!そして1つ大家族として修復されるそれが
黙示録の最後のページに繋がるのです。
そして一般のユダヤ人も、学者ではなくても、口頭でトラー=
モーセの五書を丸暗記する教育を家庭でしていたからです。
日本人が長い名前”じゅげむじゅげむ”を言えるみたいに、
昔話を言えるみたいに、彼らユダヤ人達は、トラーを歌にして、そして体をゆすり踊って、モーセの五書を覚え学ぶ事をしていた。今でもそうです。ユダヤ人は体を揺すりながら、歌にして
トラーを学ぶのです。独特のメロデイが付いていて、聞いてる
だけで意味が分からなくても覚えてしまいます。
続く