エステル記 サタンの計画から神が救い出した史実 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

明日の日没はプリムの祭りなのでちょっと話をそれてみます。

今年は3月27日土曜日の日没から過越の祭りが始まります。

プリムの祭りの背景、由来は”エステル記”に記載されているので

それを読む事をお勧めします。

その中に一度もイスラエルの神の名は出てきませんが、

ジェノサイド=ユダヤ人全殺戮を企てた”悪者”ハマンの策略から

イスラエルを完全救出したのは”イスラエルの神”ご自身であることが明らかに書かれています。

 

聖書に記載されている出来事は、人間的に見て歴史の中で重要であるからと言う位置付けはなく、神の中で重要な出来事、

人に必要な事を教えるために、これら歴史の中で起きた内容から

選択し、それらの事実を通して教え続けているのです。

しかも、多くの出来事が互いに繋がり、そして並行して繰り返されたりして、繋がっているのです。同じテーマで。

 

第二テモテ 3:16 

聖書<トラー、預言書、諸書>は、すべて神の霊感を受けて
書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、
義に導くのに有益である。
 

この言葉は何を意味していますか?神の言葉、どこの箇所も

100%聖霊=霊=神=イエシュアにより書かれたものである。

どうして人の教えでは永遠不変の神の言葉を捨てろとか、終わりとか、この部分、あの部分は今は無効なのだと言うのでしょう?

 

この第二テモテをパウロが書いた時点で語っている聖書とは、

タナックのみを指して話しているのです。どうして?

福音書〜黙示録、使徒達が書いたトラー、預言書に関して書いているコメンタリーである書簡はまだ存在していない、そして普通の人は誰も読んでいない、世界で聖書として認証されていない時にこの2テモテは書かれたからです。

神の言葉は最初から最後までどの部分の言葉も捨てると

教える教えは、イエシュアが言われた通りです。

マタイ:19 

それだから、これら=トラーの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も

小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これ=トラーをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

イエシュアが言われた言葉を否定しないで、書いてある通りに

読んでみれば書いてある通りの意味が分かります。

私達は、神にではなく、ローマの教え=人が考えた教えにより、神の言葉を今は否定する様に教えられてしまっている事

気がつける事さえ出来れば、真実を知る妨害をしている邪魔な

目の鱗はボロボロ剥がれて聖書に書いてある真実、意味が

見えてきます。

 

このプリムの祭りの内容は又別の記事に書きます。

プリムはレビ記23の記念日とは異なる性質ですが、

歴史の中で神がイスラエルを救い出した史実を元に、日時も

作り物では無い正確な日に行われ、ハヌカと同じ種類の祭りです。

神の創造された記念日=23章は全て福音の内容=イエシュアの業を網羅するものなのです。

 

クリスチャンの世界では、ローマ帝国の勅令により聖書に

書いてある通りの神の記念日を祝う事を禁止され、

それ以降ローマ皇帝が作った別の形の祭りを祝う様になり、

それが1500年以上の長い間に渡り定着して行き、

現代に至っていると言うのが本当の事実なのです。

1世紀の信者と現代のクリスチャンとでは教えられている内容や

信仰の土台、祝っている祭りが違うのは人=西洋教父と

ローマ帝国が神の教えをたくさん変えたから、

それが本当の原因なのです。

 

でもクリスチャンの世界の教えでは、神がイエシュア昇天以降、神が神の教えや神の記念日を新しく作り変えて、2000年前迄とは違う、違う教え、違う祭り、違う日時、曜日で祝う様に

されたと信じられていますが、それは聖書の事実では無い事を

聖書から再確認しなくてはならないのです。

神の言葉=聖書の真実の点と点だけを繋げない限り、

本当に人間が作った都市伝説、フェークニュースを元に

聖書では無い教えなのに、それが神の教え=聖書なのだと

疑いなく信じ続けてしまいます。That's a deep deception.

 

クリスチャンとして復活を記念して日曜日を、イースターを

そしてキリストの誕生を記念してクリスマスを祝っていると

言うのは、それは人間の心情、理由付けであり、神の”仰せ”だからと祝っていると言う意味とは違うものです。

しかも、神は永遠に祝われるべき神の記念日を捨てよ、忘れよ

祝うなといつ命じましたか?イエシュアは死に渡される直前に

過越の晩餐の中で過越を毎年祝うたびに、種無しパンと贖いの杯で祝宴する時に皆で思い出してと言う遺言はどうなるのでしょう?1列王記12:32のヤロベアム王がやった罪を繰り返してはならないのです。

 

この違いが分かると、神の教えに忠実になるのが何より大事

である事が聖書=神の仰せから見えてきます。

私達は神が言われた事、教えの中に人の混ぜ物の教えを入れる

事を硬く硬く禁じられているのです。

どうして変えたらダメなの?何が本当なのか分からなくなるからです。そして別物の教え、要素に変身してしまうから。

別物とは神の霊とは異なる別の霊!それは危ないからです。

感じなくても危ない。

アダムとエバの食べた木の実と同じです。食べても感じない、

すぐに影響受けない、でも確実に死=セパレーション、暗闇が

入り、破壊の世界に向かってしまう。その結果の最初に記されている罪が家族殺人であり、その後はソドムとゴモラの無法地帯

でしょう。神の言葉、教えを変形する事=タガが外れればどこまでもボロボロ外れて行くのです。今の世界と同じ。悪が堂々と

大手を降って奨励され、それを妨害すれば皆消される。

 

私達救われた人達は、神が教える事を教えられる通りに生きる!

と言う事が大前提なのですが、それを異邦人達は歴史の中で

変更し続けてしまった。それが神の前に大問題である、聖書では

それらの行為を神が何と教え、書かれているのか。神の言葉を

捨てたら、大事な警告全部捨てて危険状態になっているのです。

 

それは預言書を通してずっと警告されている内容でもあるのです。今の時代も同じです。いつでも同じ。イエシュアは昨日、

今日、永遠に同じ。イエシュア=トラー永遠に同じと書いてあるのが聖書なのです。

人が勝手に神の言葉のこれは関係ない、今は関係ない、自分には関係ないと言っているだけである事に、神の言葉に基づき気が

付いてないだけなのです。

それは正しい導き手=神の言葉を知っている人達=ユダヤ人に

オリジナルを学べないまま来た、その代償なのです。

だから聖書が分からないから人造の神学、西洋教父の教えや

19世紀に出てきた様々な思想神学を神の新しい預言的掲示、

現代への新しい教えだなどと信じてしまうのです。

 

この事に関しては、今書いている歴史の中でいつ誰によりどの様に神の言葉が帰られ続け、改ざんされ続けて今に至るのか?で

もう少し詳しく書いてみたいと思います。

 

ユダヤ人と異邦人の間だけの分裂ではなく、ユダヤ人の中にも、

分裂がありました。

”イエシュアを信じるユダヤ人”へ、イエシュアを信じ切れない

ユダヤ人達による軋轢、弾圧”これが以前のパウロの姿でも

分かると思います。

彼らの動機は純粋なのです。異物な教え、偽物を混ぜたら危険と

本当に信じているからです。異邦人には分からないかもしれない

側面ですが、一旦聖書の神の言葉の意味が分かると、どうして

彼らユダヤ人がそれほど別の教えを拒否するのか?異邦人をも

遠ざけるのか?

使徒15章に書いてある通りの意味で分かれば、理解出来ます。

神の前に、神の教えとは違うことを取り入れすることは罪だからと考えるからです。そして異邦人は神の前に何が汚れなのか、

何を神に禁じられているのか分かってない。それです。

だからトラーは終わりと信じる人達は、神が語る真実、

聖別、数々の深い教えが全く見えてない状態なのです。

 

彼らユダヤ人の中では、同じ神の教え=トラーを生きると言う点では全く同じなのです。違いは、2000年前に来られた

イエシュアが、トラー、預言書に書いてあるそのお方である事を認めていない、見えない、知らないユダヤ人達。

でもその救い主がされる内容をトラー、預言書から知っている

多くのユダヤ人はいるのです。この内容は異邦人よりはるかに

深く理解しているのです。

 

 

 

 

続く