今ネットやメデイアの世界では”偽情報”と同時に、真実の情報を
探り出す人達がいます。でも日本語圏には情報が極少なので、
皆海外=英語圏の世界の中から情報を調べて取り出しています。
今や聖書信仰を持たない、神を信じない普通の人までもが、
キリスト教で語られている伝統的な教えや祭りの由来が
実は聖書の事実、根拠では無いローマ由来の教えである事を
普通の人達が知っています。日本人の中にも沢山います。
クリスチャンよりその事実を調べて知っている人達が
いるのです。
だから、イスラエルの神、救い主を信じている人が、
神が言った事では無い、聖書に書かれている教えでは無い、
神は神の約束を変えていない、聖書に根拠の無い事を、
人が作り変えた教えなのに聖書です!と語っていたら、
”だから眉唾物の教え信じているインチキくさい。”と
言われてしまうのです。
嘘を本当だとどうして言って信じているのか?本当の事知らないのですか?と言われてしまうのです。いや信じている人達が
人の教えであるのに、神の教であると信じ込んでいるので、
聖書と神学=人の作った教え、神の言葉を変えた教えとの区別が付かないでいるのです。
だから真実の情報の点と点だけを繋げ続けて行かないとならない。一般に偏見や先入観や人の教えを教え込まれていない人の方が、聖書を読んだだけで事実が見えて来るのです。
真実の点と点を繋げて行かないと、どうしても見えないものが
あります。いきなり1つの事実だけを取り出して説明しても、
”何言ってるの?”と反応され、真相の理解には至らない、
聞きなれない馴染みのない内容は突然理解出来ないからです。
ジグゾーパズルはピースの部分が集まれば集まるほど図柄が
見えて来る、それと同じ事です。
世界の真実の動きを話す人達も、ただの陰謀論じゃないの?的な
誤解を受けますが、真実を知っている人達は何年も何年も時間をかけて丹念に調べ続けて、正しい情報を集取し、点と点を
繋げて見えて来ると言う下地の調査をしているのです。
偽情報、デマ、騙しなど見分けるには、何がどうなっているのかの本当の事を知らないと決して分からないからです。
しかも、世間一般で流されている情報は、真実を知らせない目的で流されているものばかりですから、それに気が付かない限り
一方的に流させるデータや情報イコールそれが本当と騙されて
しまうのです。
神の言葉や教えを否定していること自体が、最大のズレ、罪、
誤りの思想、行為である事に聖書から気が付かないのは、
人の教えが聖書の主張だと信仰の始めから誤解しているから、
それが当然真実だと思い込んでいるからです。聖書を書いてある通りに読まないように教えられてしまっている。
聖書では無い教えを聖書であると、始めから教えられてしまったのです。聖書では無い教えでも聖書と誤解している理由はそれ。
それは1世紀後半から既に編み出され始めた教え、聖書の本当の中身の意味を知らない”異邦人教父達”の教えが2000年近く
語られ続けてしまい、様々な非聖書的教え、発想、哲学神学に
枝分かれして今に到っているからです。
永遠不変の神の言葉と神が人類に伝えているのに、それが聖書に書いてある事実であるのに、どうして歴史の途中で神の言葉が
変わったのだと言うことにしてその人が作った教えを本気で
聖書であると言い続け、教え続け、信じ続けているのでしょう?
と考えた事も無いと思います。
その教え、思想、信仰の根拠はどこから来ているのだろうと
考え直せば良いのです。聖書だけに戻って。
常日頃聞き続ける教えが人が作った神学の教えを通した聖書解説しか無い学習環境なので、それが聖書だと思ってしまって
いるのです。
最初から本当の事、オリジナルの聖書の中身を教えられた人は
真実と嘘は簡単に見抜けるし、誰でもオリジナル、真実だけを
教えられたら西洋神学の教えが聖書に根拠が無い教えであると
クリアーに理解出来るのです。
今主流に聞かされている神学は、聖書とは違う教えが沢山盛り込まれているものなのです。もちろん以前の自分含めてそれが
まさか聖書の教えでは無いとも考える事もしない、発想も出来ない、聖書に書いてある事と違うことを信じている事に読んでいても気が付かない、辻褄合わない教えが変だと考えられない。
スマホの画面にぴったり貼られたガラスの膜みたいに本体と
一体となって区別が付かない。
本物、照らし合わせる本物の聖書の教えの基準をなし崩しに
しているから。それが神の言葉を変えた教えの影響、代償。
人の教えが聖書とは違う!と指摘することが何か失礼、無礼な
行為と考えるのは、神の言葉ではなく、伝統の人の教えを支持して、神の言葉を退けているから。そして伝統的な教えイコール
真実だと信じ込んでいるからです。
神の言葉を否定することを冒涜考えないのは どうして?
どう言う思考回路なのでしょう。
使徒5:29
これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、
「人間に従うよりは、神に従うべきである。
世間一般に受け入れられている、常識として信じられている、
まともに真実だと聞こえる教えにも重大な間違いがあるのです。
これは何も聖書に関する事だけでは無いのです。
今の世界に流されている様々な情報の全てがそうなってしまって
いるのです。それが当然の事となってしまっています。
例えば 医者が言っているからとか、教科書に載っているから
それらは全て間違いないのである!と、そんな根拠は全く
あてにならないのです。只の人間であり神では無いしょう?
100%の真実を語っていないと言う方が当てはまるでしょう。
誰でも偽情報、偽の教えが本当であると、本当に信じて、
騙されてしまっている分野や内容があるからです。盲点がある。
聖書に根拠のない教えを長い伝統の中で疑いなく信じてしまっているのは、聖書の基本、神の言葉が絶対に変わらないと言う事実が全く分って無い教えを聞き続けているからなのです。
どうしてその教えを信じるのか、何を理由にその教えを支持しているのか?大先生が言うから 長年の伝統だから?
それとも聖書に根拠があるからでしょうか?
信仰の前提、根本〜聖書に無い根拠もない人が作った教えを
聖書の教えだと、疑いなく信じていると言う大問題を見つめ
直す、考え直す、真実に戻る必要があるのです。
それには聖書だけに戻って、書いてある内容を比喩、寓話化、
そして人種により時代により適用される教えはそれぞれ違う教えであると言う人の教えに変換する作業をやめない限り、
聖書が語る真実では無い教えを神が語る真実だと信じ込んでいる誤りにさえ気が付けないのです。
日本語圏の世界では、聖書の真実情報の鎖国時代が今も続き、
正しい聖書の情報が無いから、人の教え混入の混ざりものでは
無い教えだけを取り出すことが出来ません。でもこのカラクリは今に始まった事ではなく歴史の始めから同じなのです。
今日本で一般的に教えられているのは、1世紀以降から
ローマ帝国政府の圧力と弾圧により、ヘブライのオリジナルの
神の言葉=トラーを否定する教えから出た、数々の西洋教父達が
編み出して継承され続けて、様々に聖書とは違う教え、形態と
なった人造神学、教理の教えの土台を通して”永遠不変”である
神の言葉、教えを曲げたり、所々変えたりした教えです。
もちろん教えの内容の全部が不真実ではなく、真実も混ざって
いるのです。でもそれが問題!だから見分けられない。
半分真実、半分嘘、混ざっているからどこからどこまでが
本当で、どこからどこまでが人の作り話なのか、本当に聖書を
知らないなら見分けられない。何が神の言葉か何が人の教えなのか混じっているから分からない。
神の言葉の解説は全部真実でなくてはならないのです。
神の言葉は変わらない!と言っても逆に反発され、跳ね返され、
全然通じない理由は、デイスペンセーション神学の教え=
人の哲学の教え=聖書であると殆どの人が信じているから!
です。
私も同じ場所に13年前まで居たので、その状態がどんなものであるのかを、良く理解出来ます。本物の聖書の中身に出会う人は誰でも通過する現象なのです。
続く