人の教えを生きないで神の教えを継承していた異邦人信者達 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

19世紀の数々の思想家、そして聖書とは異なる新しい神学を

編み出した人達の教えは、古代1世紀後半から西洋人達が編み出した教えを継承して、それにさらに付け足した雪だるま式に

膨れた思想を編み出し続けて行きました。

 

1世紀後半から、中世の腐敗、暗黒、神の言葉ではなく

宗教の教えに塗り替えられた物が伝えられ教えられていた時代を

通り、同じ要素=神の言葉を否定する教えの根はずっと継続し

より根深く、より根強く継承され続け現代でも同じ教えが

語られているのです。

 

”人の言い伝え、人の作った騙しごとの哲学”とパウロが

警告した通りの事が起きました。

 

簡単に言うとそれらの教えの原因は、異邦人はヘブライ聖書を

先祖代々知らない生まれ育ち!神の言葉に対する畏敬の念と神の言われた通りの意味を知り、守り続けると言う意識が全くゼロ。

生まれ育ちが代々異教神の思想に根付いているからです。

イスラエルの神の言葉に対する絶対性の意識が全く無い。

よって神の言葉に対する絶対的な忠誠心が欠けている。

神の言葉がなんたるかが生まれつき分からない。

これらが人間思想で神の言葉を平気で塗り替え続けられる意識、

神の言葉を否定する教えに対しても何も感じない、

考えない無感覚状態の原因なのです。

 

聖書を知らない異邦人西洋司教達が、ローマ帝国の弾圧の下で

作ったヘブライ色抜かした教えである事。政治的弾圧、圧力に

多くの西洋司教達は操作され、ローマの命令に迎合していた事。

ローマ帝国は、ヘブライ色ある神の言葉、教え、生き方、

記念日、ユダヤ人殺害で全て廃止!異邦人もトラーを生きるなら

異邦人もユダヤ人と同じだから、同じく処刑!これをされたら

ユダヤ人と私達異邦人の信仰とは違いますよ!と主張したのは

保身の為なのです。命拾いするためでもあったからです。

 

今の世界と同じ。皆がグルで悪者をサポートするグループに

入っていた、脅されたから本当の事は言えない!と言うそれ。

言論や行動の自由を上から恐怖圧力で禁止する様に指示されたら

一体どう行動するのか?と同じ事。これから宗教の同一化も

計画されています。なぜ?イスラエルの神の教えは邪魔だから!好き勝手に曲がった生き方を歪んだ生き方を生きたいからです。悪が善、善が悪とされるソドムとゴモラ時代に突入しているからです。神の言葉=教えを変えた、捨てた結末を今迎えているのです。法も正義も何にも無い無法地帯です。

 

神の言葉を塗り替えることが罪であると聖書から本当の意味で

知らない異邦人教師達、別の教えに寝返る事、自分の考えで

神の言葉を変える事に無感覚な人達により数々編み出された

教えの根が中世を経て、さらに近代1800〜1900年代の

啓蒙思想、人間至上主義思想、印象派思想、それが信仰の世界の人達に影響を与え、感情高揚体験主義、再臨待望強調主義の

教え、宗教活動中心主義、奇跡、不思議、預言、予知、印の現象を求める事に走る、様々なムーブメントを編み出して現

代に至るのです。

 

この半世紀、異邦人は元々神の言葉を知らない上に、神の言葉を学ぶ事から遠く遠く離れ、神の言葉、教えに根付き生きるより

活動、ムーブメント、現象求めに傾倒したのは、それらの

思想のおかげです

デスペンセーション神学はもっと後に書きますが、その教えを

作り出したイギリス人ダービーは、”神の言葉、福音書や

イエシュアの教え、山上の垂訓など学んだり、もう今は恵の時代で生きる必要などないものである!”と主張しました。

イエシュアの教え=聖書の教えとは真逆の教えです。

神の言葉、教えに反抗する教え!罪、ズレそのものなのです。

 

2世紀の異端的教えをしたマルキオン思想をこの神学の中にも

そっくりそのまま取り入れたのです。その教えの理由付はなぜかと言うと、ダービーはクリスチャン達だけに秘密軽挙があるので、もうクリスチャンは今は神の言葉を生きる必要がない、

だからユダヤ人だけ神の言葉を生きれば良いのだ!と

ダービーが言ったのです。こんな教え今でもずっと語られている聞く教えでしょう?でも出どころ、根拠は聖書ではありません。

 

聖書ではない変な偏見混じりの教え。クリスチャンだけに

秘密軽挙?がある?ジーザス=救い主が現れる?

そんな事聖書のどこにも書いてないのです。

人種別に再臨がある無いなど聖書の教えでは無い。変。

 

いや19世紀に出てきた人達は自分が見た変な幻や発想、

夢に基づきそれが神からの啓示であると思い込み、

彼らの神学を編み出しているのです。新興宗教の教えです。

 

それをクリスチャンの世界では聖書だと教えられ、人にも教えて皆それが本当だと信じ続けて教え続けているでしょう?

皆が信じているから聖書の教えらしく聞こえると思いますが、

それは聖書の教えでは無い!イエシュア の教えではないです。

幼いころからパウロの様にユダヤ人の様にトラー=聖書に親しみ

正しく教える教師に学んだら人の作り出した嘘は簡単に見分けられるのです。

その教え聖書では無い!と気が付かないまま、それが新しい時代の正義なのだ!!煩わしい呪いの縛りの律法から全て解放された〜!と言う爽快感と共に、ジーザスが呪いの律法を破壊し

解き放つために来てくれたのだ!と正義到来!と本気で純粋に

それが聖書信仰であると教えられ、信じているのです。

 

安全帯付けずに高層ビルの窓掃除する。安全帯=トラーを破壊しに来てくれた!としたら変だと思いませんか?

神の言葉=教えを完全誤解しているからです。

今は律法=罪の縄目、縛りの呪いの罪の法則の下に、

贖い出された人達は居ないと言う意味です。

ノモス=トラー=神の教え、人間の世界の法律、罪の法則、

法廷や司法のルールetc 様々な別の意味の言葉が、同じ1つの

ギリシャ語が適用されあてがわれているので、その言語の意味を知らない人達が意味不明な翻訳、解釈、解説を編み出してしまう

言葉なのです。

 

今は神の言葉=契約=約束=保証=婚姻契約=ノモス=呪いの

律法の下にいないと言う考え、解説をするなら

それは聖書の事実では無い誤解誤訳です。

神の言葉は人を生かすもの、永遠不変の約束が同時に、

呪いの律法=破壊し神の教え=約束=保証から解放された?と

するなら変でしょう?

 

今は恵の時代だから神の言葉を生きる必要は無いと言う

今もクリスチャンの世界で唱えれられている教えは、

聖書の正しい解釈でも聖書の教えでも神の言葉でも無いのです。

初代西洋人教父やその他大勢、ダービーと同じ思想を考えた人達

が作った教えなのです。神の教え=聖書の教えではないのです。

 

10世紀以降の人達も、ローマ帝国皇帝の作ったローマ・

カトリック教の教えに抵抗して1世紀のイエシュア信者達、

パウロ達と同じ信仰を継承していた人達の記録があります。

 

小アジア地区に住んでいた人達です。

 

”クアルトデシメンズ”<ユダヤ人イエシュア信者、

異邦人イエシュア信者>は、シャバット、新月、春の過越から

始まる一連の祭り=初穂、初穂を数える7週、

そしてシャヴオート=ペンテコステだけでなく、ヨムテルア

<ショーファーを吹く>ヨム ハキプリム<大贖罪日、スコート<仮庵>の秋の祭りも全部祝っていたからです。

 

クアルトデシマンの絶対のサポーター=支持者達は、

東方に居るそれらの信者達の事が”黙示録に書かれている”と

みていたからです。

クアルトデシマン達の失望は、西洋ローマ教会が”聖書の神の

オリジナルの記念日を変えてしまった事なのです。

人が勝手に神の記念日を変えてはならない警告は聖書の至る所に書かれているのに、気が付いてない西洋ローマ教父達。

ヤロベアムの罪とずっと書かれているそれです。大罪。

神が変えたのでは無い!人が神の言葉に手を付けた!

それが全ての原因。

 

例えば、聖書では”過越の祭り”を”イエシュアの死が復活の命に

変貌した事が強調されています。

イエシュアの死により死の縄目から解き放たれ新しい命に

復活した事、それが過越の祭りの中で表されているのです。

実際にエジプトで起きた事、出エジプトで紅海が割れる奇跡を

体験し、同じイエシュア=救いを見よ!と神からの言葉を

モーセがイスラエルと異邦人に語り、紅海の水の中をくぐった

事実。全部イエシュアの死と復活を表しているのです。

死=水を潜る。仮死状態。そして水をくぐり抜けて復活の命に

以降した事実が、預言的出来事=歴史の事実の中でも表されているのです。初穂を祝う事で表されるのです。

 

でも西洋教会は過越の祭りの一連とシャブオートまで続く

穂を数える週を祝わずに”復活の命”だけを強調しています。

新しくされた命=子羊の血で贖い出された命は、

マッツア=種無しパンで表されているのです。

出エジプトする前の出来事、そして前の晩の出来事全部含めて

福音のエッセンスを表しているのです。

それを祝う、回想し、皆で祝う事、それが過越の祭りなのです。

イエシュアも毎年過越の祭りを祝うたびに、ペサフの晩餐の中での儀式で、皆で思い出してと言われたのです。

もちろん復活の命、贖い出された事実は毎週のシャバットで

ずっと繰り返し語られ続けているのです。

 

ローマ・カトリックがこの過越の晩餐の中で祝う儀式を

月の第一日曜日=太陽=サンの日、サンデーの聖餐式というものに変えてしまい、そして種無しパンを”種ありパン”に変えて、

神が教える大事なメッセージを捨ててしまったのです。

どうりで救われた後も”あなたはどうしようもない罪人”と言う

教え、コンセプトを強調されて教え続けられてしまうのです。

種ありパンでは意味が無い、そしてこの儀式、種無しパンを

食べる過越の祭りの中でするものなのです。

聖書を知らない人々が勝手に自分の考えで、神の教えを

言われた通りでは無いものに変形してしまったのです。

 

なぜ種ありパンに変えたかと言う理由は、”種無しパン”は

ユダヤ人の教えであるからであると言う理由からです。

これって、本当に変な教えです。イエシュアはユダヤ人です。

ユダヤとは、”超えたもの”過越で出エジプトで奴隷から

紅海を渡り、超えた人達の印なのです。出エジプトした人達の

中に異邦人もいるのです!その事実を見逃してユダヤ人だけの

教えと強調します。

 

今現在もイースターサンデー=太陽神の祭り、春分の満月が来た

すぐの日曜日に復活を記念して祝う事で、神の教えを変えられてしまった教えは保存されているのです。クリスチャンの世界の

教えではそれが聖書=神の教えだと信じているのです。

 

 

続く