命を生み出すもの 神の性質 教えを生きる事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルで育ち、ヘブライ語でだけ聖書を読み、キリスト教の神学や教えなどは一度足りとも一切全く聞く、触れる事無しに

育った人達。

もちろんイエシュア =救い主として知っている人達。

 

私の友人の中にもいますが、その人がキリスト教の世界の教えや

活動を初めて見た時、同じ聖書の教えとは全く認識出来ないほど

違う教えだとショックを受けるようです。どうして?

神の言葉を否定する教え〜ヘブライの世界では聖書では無い、

ありえない教えだからです。

 

1世紀に生きていた人達、パウロや使徒達も、もし今の世界に

流通する教えを聞いたら同様に同じ反応をする事は間違いない

でしょう。特にパウロなど、別の新しい教え=トラーを否定した

新しい教えを世界へ伝えた人に祭り上げられてしまっている。

神の使徒として一番の誤解、侮辱的レッテルを貼られて

しまっているからです。

自分が命がけで伝えた神のトラーの教え、解釈、生き方が、

別物の教えであると誤解した人達が聖書を塗り替えて作った教えがローマから、ヨーロッパを通して、そしてイギリスから発祥の

ダービーの教えが不真実な注解訳聖書を通してアメリカで

大爆発に浸透した教えとして伝えられてしまったからです。

 

聖書だけに戻れば、永遠普遍の神の教えの真実が見えて来ます。

 

細かい事は理解出来ないとしても、これだけ知っていれば

偽ものの教え=人が勝手に言っているだけの教えか、

神の教えかの見分けが出来ます。

 

どんな場合でも神の言葉を、どの一言、1部分でも否定する事、

神の言葉は歴史の途中で終わったとか無用とか、この人種には

関係ないと言う教えは全て創造主=イスラエルの神=イエシュア=聖霊から出ているものでは無い!と言う事実があるのです。

 

何で分かるの?神の口から直接語られているからです。

聖書の至るところに永遠普遍の神の言葉と書いてあり、

イエシュアも父の言葉=聖書のどの部分でも、一点一画でも

差し引き、付け足しする者、神の言葉を否定する教えをするもの

神の言葉をどの部分でもないがしろにするように人に教える

人達は、天の国で一番無意味、一番軽い無価値な存在であると

まで言った意味はそれです。

 

簡単でしょう?神の言葉を否定する教え=神から出たものでは

無い。イコールではどこから出てるの?

別の霊=エデンの園に忍び込んだ霊から出たもの=明らかです。

 

異邦人はもともと先祖代々、異教の神々の教えに浸り続けた

生い立ちなので、思考回路が異教徒思想、異教の文化で神の言葉を読んでいるのです。これは、誰にもある事、自分の中に始め

から決めている思想、偏見、偏った考え、先入観から聖書を読んでいるのです。特に人の思想=神学を最初から教え込まれてしまったら白なのに、色付きの聖書の内容になってしまうのです。

 

イスラエルと言う代表になる人が選ばれなくてはならなかった

理由はクリアー、シンプル!です。

異教の神々に染まった人達の中で本物の神=本物の人の生き方をする、教える人達、”区別”する代表を選んだのです。

それは1つ。その1つの家族の中に全世界の民族が加わる事、

これがイスラエルの役割なのです。

長男。その大家族、長子のトップが”イエシュア”=ユダ族の家系

から出る、本物の人=トラーに書かれた人の性質を生きる、

人であり神であるお方です。

 

弟や妹は後から生まれて来たから長男に教えられる以外は

分からない。だからお兄さんに教えてもらうでしょう。

それがイスラエルの異邦人=弟、妹達への役割、責任なのです。

同時に、異邦人でも誰でも神の大家族に加わる者は、

天の祭司の役割=神の教えを正しく知り、生きて、そして

他者に教える、伝える、メンターとしての生き方の手本になる。

それが地の塩、世の光の役割でもあるのです。

 

神の言葉が途中で変わるわけない事は、聖書の最初から書かれています。その一番の証拠が、神の創造です!

6日の間で全てを完了!この意味を誤解しなければ、

この事実、真実から聖書の事実を繋げて行けます。

 

完了!加えるもの、必要何も無し状態!と言う意味です。

人の教えは、神の教えに手を加え続ける必要があると唱えますが

完全に非聖書的、聖書では無い、人の教えを教えているのです。

シャバットでそれが表されています。

全てのものが作られた。これで終わり!だから止まる!この創造の事実の中に全て必要なものがもう造られて存在している!

その事実に注目する。それは永遠の中から存在する。

形として現れたのが創造の6日の間!それが完成したのが6日目、そして、全てが完成して揃った、神が止まられた事を祝う、

創造物とそして神の似姿に造られた人間が揃ってシャバット!

を祝ったのです。

 

世界は今大きく変わろうとしています。

偽物と本物が仕分けられる時が来ているからです。

 

もし神を愛するなら、神の教えに逆らうなんて考えないはず。

知らない場合は、神が一番忌み嫌う事が分からないから出来る。

でも人はそれをやり続けて今に至る。それは何が神の言葉の事実かきちんと教えられていないからです。神の言葉は終わり!と

考える人達は、神の教え=言葉をきちんと学ばないからです。

同じ事が繰り返し、繰り返し、歴史の中で繰り返されて

来たのです。

イエシュアを愛する人はイエシュアが教えた教え=父の言葉=

神の言葉=モーセの五書を愛して生きるとイエシュア が言われている事実に気が付いていますか?

トラー以外の別の福音も教えも神には無いのです。

神に敬意を払う人は、神の言われる事を熱心に探り求めるもの

です。ダビデが言われた様に、神の教え=トラーは人を生かすもの蜜の様に甘く、私達を死から引き離すものだからです。

死=神と離れた意識、教えを生きる事です。死=別離、隔たり。

 

サタンは巧みです。人に与えられた最高の宝、神の祝福を

奪い続けています。どうやって?神の言葉=教えをねじまげて

疑わせ、そして別の混ざった教えを神の言葉だと思わせて

神の性質とは違う別物、混ぜ物の性質を生きさせる事です。

 

クリスチャンの世界では疑いなく、昇天以降は新しい教えや

別の霊が初めて降ったと信じていると思いますが、

別の霊も別の教えも聖書に書かれた事実では無いのです。

同じ、ずっと永遠から永遠に同じ。

 

イエシュア  ハ マシアは、昨日も今日も永遠に同じ!と

信じているのでしょう?どうしてその神の言葉を唱えながら、

同時に神は途中で変わると大矛盾を言い信じているのですか?

どうしてその矛盾に気が付かないのでしょうか?

イエスキリストは2000年まえに初めて現れた、初めて救い=イエシュアが与えられたと信じているからだと思います。永遠の中から居られたイエシュアが地上に来られて人の間に住んだのは

あの時、あのイスラエルの場所だけでしたが、聖書には最初からイエシュアが人の中に住まわれている

事実が書かれているのです。

エデンの園から、世界の四隅へ流れる生ける水。

荒野を付いて来た岩=救いの岩と書いてあるでしょう。

そして、雲と火の柱。神の家ー移動式ミシュカンの中=神の家に神の霊が住まわっていた。天から降った24/7絶えず祭壇の上で燃えていた火は、神が起こした下した火。

人が作ったものでは無い。

 

ずっと聖書は私達へ永遠普遍の真実を語り続けているのに

人は神の言葉に手をつけて、人造宗教に変身させてしまったのです。

神の招いている週に一度の記念日は第七日目。

それは第六日の夕暮れから第七日目の夕暮れまでです。

1日は日没から始まるからです。第七日目だけ、

名前が付いています。シャバット!止まる。

天の現実に今生きている事実、神がなされた業、

全てを思い出し、奴隷から贖い出されて来た事実を思い出すためでもあるのです。福音の全てを思い出す日。

そして、家族との時間!を大事にする日。活動しない日!

ご馳走食べて、味わい、神が造られた世界の喜び体感する日。

 

簡単な事実を忘れて、神の前にこまネズミのごとく

忙しく活動する事をさせてしまうのが人の教えです。

 

神の記念日は人のために設けられたのです。神がされた事、

神がどんなに良いお方か、味わい知り、お互いを祝福し

そして止まる。止まれば色々な事に注意を向ける事が

出来るから。そして社会からこの世から”分かたれている

”事実を皆で思い出す日。この世に在って、この世の者では無い事実を思い出す!

 

人が神の記念日と神の言葉を変えたのです。ダニエル7:25

この事実に気が付いた人。意識の中に光があたったら

何が神の言葉の語る事実か、何が人の教えで変えられたもの

なのかはっきり分かります。

 

神を愛する人、神に敬意を払う人は神の言う事を生きたいと

願う様になるからです。神の教え、言葉を否定して生きる、

ひどい事だと単純に分かるものだと思うのですが

深い騙しと洗脳は、1つ1つ嘘の教えを捨て続けて

行かない限り神の言葉が語る真実には気が付かないのです。

 

イザヤ 56:1 主はこう言われる、「あなたがたは公平を守って

正義を行え。わが救の来るのは近く、わが助けのあらわれるのが近いからだ。

56:2 安息日=シャバットを守って、これを汚さず、その手を

おさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。守る=神の教えを実際に生きる人。

 

56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、

「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。

宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。

 

 56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、

 

 56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。

56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く

守る異邦人は―

<異邦人=日本人も入ってます!>その人達は?以下の様に

 

56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

<全ての民=全世界の誰でも!神の家に加わり、神の教えを生きる家族は、同じ家に加わる!>下矢印

56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。

<同じ1つの家族=カハール=呼び出された人びと=すでに集められた者の中にさらに人を集めてくわえ続ける。人種別の別の

グループと言うダービーの仮説は、聖書に全く反する教えであると書いてあります。>

 

JNDやCISの唱える神学とは全く違う事を神が語っているのです。あなたは誰の教えを信じているのか、人の教えか、聖書=

神の言葉か聖書から確認してみなくてはならないのです。

 

Shabbat Shalom