神の命の継承をする代表として選ばれたユダヤ人からすれば、
トラー=モーセの五書=トラー=神の言葉、インストラクション
を代々知らない異邦人が、勝手に神の言葉に手を付ける事、
変形させる事がどれだけ危険な行為をしているのか知らず、
全く無感覚、冒涜的な事だと思っています。
彼らが西洋宗教の教えが別種の新興宗教で危険な教え!と
考えているのは、神の言葉を曲げた、聖書とは関係の無い別の
教えをしていると言う点に於いてそう考えているのです。
オリジナルの神の言葉=トラーとは違う、神の教えを塗り替えて
別物にした、プラスユダヤ人を迫害するリーダーが新宗教の
教祖様?危険な教えと誤解しているからです。
それで防衛線を貼り続けている人達がいるのです。
イエシュアを誤解されている。プラス救い主像が違う人が居る。
1世紀と同じ彼らが待っているのは”イスラエルを、世界を
安全に統治する王”だからです。
これはユダヤ人の世界に入れば、分かるしその理由も
納得行きます。”イエシュアを信じる”と言う家族が言うものならば、精神科に連れて行ったり、ラビのところにカウンセリングに
連れて行かれます。果ては離縁、親子関係縁切り、勘当。
DNA遺伝子操作と同じレベルの危険度なのに、
その侵入してはならない領域に人が平然と介入して行く。
歴史の中でずっと繰り返されて来た、情報操作と、そして事実を
変えて伝え続ける事。これが信仰の世界にも入り込んでいるのです。これはエデンの園の最初の最初からの警告!として示されている事件と同じです。
人は創造主と初めて出会い、気が付いた後聖書から、この世界が
神の言葉により造られた事、自分が神の似姿に造られた事を
知るのです。それは、モーセの五書=創世記のはじめに書かれて
いますね。神の創造、神の創造された人の生き方が書かれている書=モーセの五書が終わり?と言う教えは、神から来たのでは
無い事をちゃんとクリアーな意識で神の言葉に真剣に真実だけを知ろうと素直に向き合えば、そこには永遠不変の神からの声、
教えが今も自分の中に、太古の人が初めて聞いた時と同じ意味、内容が響き渡るのです。
創造主である神の言葉=教えを呪いの律法と言い、毛嫌いする
意識を刷り込まれてしまった。
呪いの律法だと考える意識って、神との関係を始める
スタート地点からして変形した、歪められたものなのです。
楽譜を読めない人が、ごちゃごちゃ混み入った譜面を見ても
ただの暗号にしか見えないでしょう。何が書いてあるのか
読み取れない。そして楽譜に書かれた音を奏でられない。
でも楽譜を読み、それを演奏出来る人は、素晴らしい美しい
音楽、音色を再現出来るのです。それと同じで、聖書の内容を
読み取り、神の似姿の生き方を生きれば芳しい、キリストの香りがその生き方の中から溢れ出てくる、それが”神の教え!”
なのです。その楽譜の読み方、奏で方を教えてもらえないから、美しい神の子らの生き方が、ただのごちゃごちゃ=面倒臭い律法だとしか見えないのです。
神の言葉の意味を教えてもらえない、知らないと言うのは
それと同じことなのです。
神の言葉に対して!人間であるものが堂々と”神の言葉は古い
呪いの律法で今は無用、読む必要も無い、生きる必要もない
モーセの五書を生きる人は、恵を捨てた生き方をしているのだ!
と言うのです。それはオリジナル聖書に書かれている内容、
意味を知らないからなのです。一旦神の言葉の本当の意味を
知り始めれば、神の言葉、教えはどこもイエシュアを指して
おり、人がどの様に神と人と関係を持ち、どの様に過去の歪み、痛みを修復し回復して行くのか、生きる秘訣の全てが全部
書かれている事に気が付けます。
神の家=エルサレムの神殿の中で教えられていたのは、
”実際実習体験学習”です。神の家の一番親しい茶の間=祭壇を
囲んで、なんの覆いも障害物も壁もない、自分そのもので神と
相見える。
人が神の目に完全である=義とされている事実をまず教えられる、見る、知る。そして本来の姿からずれたら、どの様に修復
するのか、回復するのか、自分の中に取り込んだ様々なゴミや
泥をどう全部神の前で洗い流すのか。
そして人とどの様に和合し、元どおりの関係に戻るのか?
最後は、捧げた”動物”でBBQ〜皆で宴会なのです。
仲直り、修復、安堵、シャローム、だから宴会を神と人と祝いが出来る。その内容がレビ記の儀式の中で説明されているのです。
今の説明はざっと端折っていますが、一つ一つの意味、捧げ物が
意味するところ、儀式の仕方全て、イエシュアがされた贖い、
救い、そして人間の回復など全て盛り込まれてもれなく語られています。
神の家の中の詳細、色、飾り、物、捧げ物の動物、植物、
1つ1つに神の家の子ら、神の性質、神の家族の性質が表されているのです。
その全ての人は、イエシュアの中に住まう事実もその建造物で
表されているのです。
救われた後、人は過去、いや先祖代々負って来た”傷”や”ズレ”を
実は神の教えを知らなければどう修復、回復して良いのか
分からないのです。信じた後、何も変わらないのは、生まれ
変わった後の成長過程の手引きが無い=トラーを知らなければ人はどう神と関係を持ち、どう回復し、どう修復、癒しを受けるのか、その詳細が分からないからです。
神の言葉に対する誤解は、人の作り出した教えとプラス、
原典聖書に書かれた内容、意味を教えてもらえる手引きが、
教育が全くなかったからなのです。だから人の意見で神の言葉を仕分けると言う発想自体が異邦人そのものです。
ユダヤ人は神の教え=トラーを代々知っている人達なので、
”神の言葉は蜜の様に甘い”と子供達に教えられるのです。
この違いが分かるでしょうか?
異邦人は神の言葉に対して敵対心丸ごと丸出しを教えられ、
オリジナルを知る人は、オリジナルの意味から、”神の言葉は
人を生かすもの”と言う聖書に書かれた事実を日々神の言葉を
生きること、神との密接な関係を育む生活の中から知って
いるのです。
異邦人の世界で語られる言い回し、スローガンの数々は、
実は19世紀にオリジナル聖書を知らない人達が作った神学の
教えなのです。神が言ったのではない!人が言った事なのに、
神が言ったと本気で信じているでしょう。聖書に書いてもいないのに。その一つに”律法に戻るのか〜” ”今は恵の時代で神の言葉を生きる必要が無くなった〜”と。救い主を信じたら”ユダヤ人を
やめなさい”と言うのもその一つ。信じたらユダヤ人やめろではなく、イエシュア=ユダヤ人である救い主を信じたら、異教徒で引きずって来た混ぜ物の教え、生き方の全てをヤメなさいと
神が言われているのです。
まず真実事実を知るために、聖書から歴史の事実から確認し、
神が神の言葉を変えたと言う大きな誤解を解くことがまず必要なのです。人の人間関係の世界でも、相手を誤解したら正常な関係は持てないのです。
”恵の時代の新しい教えがつまびらかに明らかにされ、神から
新種の教えを掲示された!”とオリジナル聖書を知らない異邦人達が、その新しい時の教えに飛びついて行ったと言うのが事実なのです。神の言葉を正しく教え、紐解く導き手がいない、
盲人が盲人を手引きしたら両者とも穴に落ちる。
だから”誰に聖書を学んだか!”が鍵であり、パウロが言った言葉に繋がるのです。似て非なるもの=人間の教えが混ざった宗教。
見た目は同じに見えても、本質が違う。ある部分は同じように
聞こえるけれど、根元が全く違う。遺伝子組み換えの食品と同じ
純粋な神の言葉=教えではないものが、神の言葉の中に混ざれば人は必ず迷い出る、そして不具合生じる、本来の命を活き活き
生きる道のりから外れてしまうのです。真理は人を自由にし、
解放するけれど、不真理は人を不自由にして縛る。
4世紀以降から、そして中世も、ユダヤ人の教師無しのままで、
正しい手引きの無いまま、西洋人司教達により様々な人造の宗教の教えが作り出されました。しかも多くの人達は文盲、かつ、
一般の人達は聖書を読む事とさえ出来ないので、司教達から
聞かされる教えがすなわち聖書だと考えなければならない
暗黒時代があったのです。
聖書の神の言葉に戻り確認する術が全く無い時代。
教えられた教えを鵜呑みに信じる以外無い時代。
み言葉を聞けない飢饉の時代。
その矛盾に気が付いたのが何度も書いている”ルター”です。
カトリック教会の語る教えが権威ではなく、”聖書だけ!”
これ正解です。
でもその発言、根元、根底までとことん100%聖書にだけ
戻らなかったのがルターの盲点だったのです。だから多くの点で
オリジナル聖書では無い根を保存したまま継続して行ったのです。
聖書とはモーセの五書!だからです。ソーラ スクラプチュラ!
聖書だけに戻る!とルターが言うならそれは、ヘブライ語
オリジナル原典聖書=トラー=モーセの五書の内容であるべきなのです。ローマ帝国が作った教えでは無い、オリジナルの神の
言葉=教えが語る生き方に戻る。
モーセの五書の中に神の教え=エデンの園の中に造られた人の
生き方の詳細の全てが書かれているのです。そしてその後の
預言書、諸書、福音書〜黙示録は全て!100%トラーに関しての解説、コメンタリーなのです。聖書は神の完全な言葉であり、
聖書のどの箇所を取ってみても互いに繋がり矛盾は一言もない
一箇所もない、互いに相反する別の教えなどどこにも書かれて
いない!と言うのが神の言葉の事実なのです。
これをクリスチャンの世界では、神の言葉の真実に人の教え=
神学と言うおおいがかけられ、神の言葉の真実を見る、知る
障害物になってしまっているのです。
なかなか本題にたどり着かないままイントロが少々続きます。
続く