聖書から事実を探り出す パウロは100%トラーを教えシャバット祭りを教え祝っていた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

使徒 20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから

出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、

そこに七日間滞在した。

 20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために

集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、

しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

この箇所、週の初めの日だとしても、これはグレゴリオ暦では、土曜日の夕暮れの話です。土曜日の晩の話。

しかし注目すべきはこの箇所は、様々な事実が言語に戻ると

発見出来ます。

まず”週の初めの日”と翻訳されている箇所は、ギリシャ語では、

”日”と言う言葉は実際には原典言語には無い言葉なのです。

書いてない言葉を挿入されたら、事実が見えない。

更に何が書かれているのか知るには、神の記念日=祭りの日程を知る必要があります。

 

そしてもう一つ聖書の事実に注目する必要があります。

クリスチャンの世界で、今は聖書に書かれているイエシュアや

使徒達、1世紀の信者、諸外国に住むユダヤ人、異邦人まで

祝っていた神の永遠の祭りを、呪いの律法だから祝いませんと

教えられてしまっているのです。そして実際に神の創造された

記念日、シャバットも祭りも祝わないのです。

代わりにローマ皇帝が作った記念日を祝っているのです。

それら人が作った記念日を祝うことは律法ではなくて、どうして神が造られた記念日を祝うことが律法なのか?不思議でしょう。

 

たくさんの誤解の概念がその思想、思索の下にはあるので、

1つ1つ誤解を解いて行く必要があるのです。

ユダヤ的な事=律法主義。新しい新種の教え=自由、正義、恵

解放された人の生き方であると言う聖書でもなんでも無い

固定概念を人の教えで植えつけられてしまっているからです。

 

この使徒20章に書かれた箇所はいつの話が書かれていると

思いますか?クリスチャンの世界では馴染みの無い、聖書の暦や祭りなので、ただ読んだだけではその内容を実際に生きてないと

ピンと来ない内容なのです。

でもちゃんと聖書に書いてある通りに読めば気が付くはずです。

彼ら聖書に書かれていた信者はイスラエルと異邦人全て、

父の言葉=モーセの五書に書かれた生き方、記念日だけを

祝っている事実が聖書にはっきりこうして記されているのです。

 

除酵祭り=種=酵母無し=ペサフ=パスオーバー=過越の祭りの1週間。春の祭りです。この過越にイエシュアが処刑され、

復活され、昇天されたのです。預言的祭り、神の祭りは全て

100%イエシュアの業を表しているものなのです。

 

過越の日から、7日間、種無しパンを食べる週の話なのです。

この祭りの週の中に”初穂”キリストの命に繋がる復活の命を表す日もちゃんと始めから入っています。これが週の初めと言う言葉にかかっているものなのです。イースターと言う異教神の名前で呼ばれる祭り日では無いです。

 

復活の命=初穂を捧げる、過越の祭りのシャバットから、

”オメル”=穂を数える7週になるのです。そしてその7週間=

49日間が終わった次の日がシャヴオート=週<複数> 

ギリシャ語で第50を表すペンテコステの祭りなのです。

 

だから使徒20:7は、週の最初の日ではなく、過越から

シャヴオートを待つ週の中、種無しパンを食べる週終わった最初の週の話しているのです。過越の1週が終わったから、

旅に出ると言う設定になっている箇所が使徒20章です。

 

これは実際にレビ記23章の神の創造された神の記念日=祭りの日程、意味、内容を知ってやれば、何が書いてあるのかすぐ分かる内容なのですが、今伝統的にローマ教が神のシャバットや

祭りを4世紀以降全部無し、帳消し、その代わりに変更した

日曜日礼拝や別の祭りを祝うようになったのです。

聖書ではなくローマ帝国が作ったものを語り継ぎ、違う祭りを

祝うようになったので、聖書のオリジナルの記念日を教えられたり、実際に祝わない様になってしまったのが歴史の中で起きた

本当の事実なのです。

 

この人間が変更した神の記念日に対して、神がイエシュア

昇天以降、神の言葉、神の記念日を変えたと言う別の話に

すり替えられてしまっているのです。聖書に基づく事実だけを

語るのがキリストに付く者=神の国、家族の一員の責任でも

あるのです。

 

歴史の中でずっと同じなのです。エジプトでも、ギリシャ帝国、ローマ帝国、ハヌカやプリムの背景にある事件も、そして中世とそして近代のヨーロッパも、神の言葉を捨てさせ、神の言葉を

生きる事、神の記念日を祝う事を禁じたのです。神が変えたのではなく、人が神の言葉を捨てた。これが本当の理由です。

処刑を持って禁じられたら迎合するしか無いでしょう。

そして気持ちは同じ、同じ神を礼拝しているのには変わりない

から良いのだと自分に言い聞かせ辻褄合わせ、不協和を自分の中で解消した大勢の人達。でも人の教え、混ぜ物の礼拝に完全抵抗した人も大勢いるのです。

 

そしてシャバットが日曜日に変更になったのだと言う誤解をして解説しているもう一つの箇所。

使徒20章の時期と繋がる、パウロが日曜日が今は安息日と

変更されたので?献金を日曜日に集めておきなさいと考えている箇所ですが、これも同じく神の祭りに関係した内容なのです。

1コリント16章。

 

日曜日礼拝の献金だと考えるのはローマ教から来た慣わしに

馴染んでいる異邦人の世界にいるからです。礼拝献金集めと

考えるのですが、違うものなのです。どうして分かるのか、

”エルサレムに届ける”この意味はユダヤ人、トラーを生きて、

神の記念日を生きる人ならすぐに分かる内容だからです。

 

1コリンと16:1 聖徒たちへの献金については、わたしは

ガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。

16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時に

なって初めて集めることのないようにしなさい。

16:3 わたしが到着したら、あなたがたが選んだ人々に手紙を

つけ、あなたがたの贈り物を持たせて、エルサレムに送り出すことにしよう。

16:8しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。 

16:9わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。

 

ここに書いてあるのは、使徒20:6、過越の祭り、種無しパンを食べる週が終わり、穂を数える7週の中で次の都上りの祭り、”五旬節”=ペンテコステ<ギリシャ語> シャヴオート

<週>ヘブル語の祭りを迎えるための準備期間の話なのです。

 

ローマ教の仕来りを受け継ぎ時代の中でキリスト教の儀式や

礼拝式を編み出したのですが、その中で、係りの人が献金を

礼拝中に集めると言うものと重ねて想像する箇所だと思います。

でも、聖書の神の教えでは、安息日には金銭のやりとり、

ビジネスは一切しないでと神は言っているのです。日常やって

いる仕事、仕事をして生活の糧を得るそれを止める日なのです。

 

神から全てを与えられている事実を思い出す日でもあるから。

自分の努力ではなく、神から常に与えられているその供給元の

事実を思い出す日でもあるからです。

特別に神の意図通りに、目的通りに過ごす日がシャバットだからです。

だから日曜日=週の初めの日にお金を集めなさいと言うのは、

それは安息日ではなく、普通の日=労働日=週の第一日目の労働が開始する日であると言う証拠がちゃんと書かれているのです。

 

そして、ここに手がかりになる言葉がいくつか書かれています。

選んだ人たちに、贈り物を持たせて、エルサレムに送り出す。

それは、これから五旬節=シャヴオート、エルサレムで行われる都上りの祭りがあるからです。

祭りは手ぶらで神の前には出ないのです。

しかも捧げ物をした後、皆でその捧げ物で宴会をするのです。

 

都上りの祭りの時に全員がエルサレムに行ける訳ではないこと、

パウロが祭りの時に今度はどこにいて何をすると言うプランを

書いているので分かると思います。その場合、親族や街囲みの

代表者を通して捧げ物をエルサレムに持ち込むのです。

そのお金で、コバーンを買ったり、美味しいもの、飲み物など

宴会に必要なものを買う。

祭りで入り用があるので、皆の献金をエルサレムに持ち込むために、労働日の最初、週の初めに集めておくのが良いとパウロが

提案しているのです。安息日に、お金集めはしないからです。

 

この様な箇所を、内容、背景を全く理解しないまま読んで、誤解した解説が伝統的に定着し、一人歩きし続けているのです。

 

そして、伝統的に教えられている教え、神のオリジナル創造の

記念日は、今は呪いの律法の祭り、又は異邦人は祝う意味は無いとして祭りの内容を教えることもないし、実際に異邦人は

祝わなくなってしまった神の記念日。これらの神の記念日、

祭りをパウロ達は、諸外国に居ても、その諸外国の信者達と

祝いそしてトラーに書かれた内容を教えていた記録がちゃんと

聖書には書かれているのです。人の教えから出る不協和に絶対的違和感を持って、聖書の事実だけに戻ることをしないとならないのです。疑問に思い始めたらちゃんと調べて行けば、事実を聖書から探り出すことが出来ます。

 

伝統的に教えられている教えと全く辻褄が合わない、不協和

だらけである事を聖書の記述に戻れば必ず遭遇、発見し続け

ます。調査、探求、読み続け、神の言葉だけに基づき考える場合は、真実が見えてきます。

 

続く