識別する手段は神の真実の言葉 世の中に蔓延する真実では無い情報 教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

早いもので、12月になりました。

日々の暮らしがとても忙しく、気が付くとシャバットを迎える日に来ていると言う感じの今日この頃です。先週は北米人なら

盛大に祝う、感謝祭でした。その週末も思いがけない祝福の時を

ここにいる神の家族、友人と共有しました。

ご馳走を毎日食べて、ゲームをしたり、楽しいひと時。

久しぶりに死ぬほど笑った〜と皆が喜んでくれました。

 

2020年は不思議な一年でした。それぞれにそれぞれが

今までとは違う体験をした年だったと思います。

 

個人的にも、社会的にも様々な事がいっぺんに様変わりして

しまい、前代未聞の健康な人がロックダウンされる日々。

早いような、長かった様な毎日。何も予定通りになんてならない。それぞれが様々な理由で、色々なチャレンジに直面する、

し続けている日々だと思います。

 

我が家もこの一年行き来が難しく家族の誰とも会う事が

出来ませんでした。悲しいけれど、今までの色々な当たり前が

全てアバからのギフトだったのだと恵を数えて噛み締めて

います。

そして今こんな状況の中でしか、気が付かない事、学べない事を、実生活の状況からたくさん教えられている事は100%

確実に間違いないです。

 

そしてこの状況は主が舵取りをしている事も100%間違い

無い事。この時代に生まれ今生きていることも、間違いでも、

偶然でも無い。一人一人の人生の日々は神の計画通りに

進んでいる事も間違いない事です。

 

”あなたの齢は数えられている”とある通り、神の前に生きる日々の全て綿密に計画された中を生きていると言う事です。

詩篇139章に書いてある通り、人の生きる日々の全ては

神の書に記されているとあります。

 

139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを

見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日
まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書に
しるされた。
<わたしの生きる日々全ては、永遠の中から神のプラン通りに
入念に計画され、形造られ、決定されている>
 

色々とあるけれど、信じる者達の現実は神の中、天の現実の中、

何も恐れる必要はないのです。

今日生きるのがみむねならば、生きるに必要な助けの全ては

与えられる。

そして今こそ、混乱、無秩序、暗闇の中で、神の子らは、

地の塩、世の光として一段と輝く”役割”を今こそ本当に

強く意識する時なのだと思います。

 

出エジプト10:21 

主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手を

さし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。

そのくらやみは、さわれるほどである」。

10:22 モーセが天にむかって手をさし伸べたので、

濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。

10:23 三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれも

その所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。

 

エジプトの地、ゴシェン、真っ暗闇の中に閉じ込められた

エジプト=イスラエルの神を信じない人達、そしてエジプトを

脱出する前のイスラエルの間には、”光”があったと書いて

あります。

この光は”イエシュア”そのものだったのでしょうね。

創造の最初に”光”が出てくる太陽も星も月の光でも無い”光”

荒野を導き共に居た神=イエシュア=火の柱、雲の柱。

暗闇の中で神の子らは安全に守られる。

 

世界に散る友人達とシャバットや、その他の学びの時に、

それぞれの国の様子を伝えあったりして、距離はあるけれど

近さや連帯感を以前よりずっと近くに感じる事が出来ます。

まさにこんな状況だから、いつも友達とズームで会って学び、

分かち合える。

お互いに励まし合うことは本当に必要です。人は一人で生きる

ように造られておらず、神の家族の中で生きるようにデザイン

されているから。

 

アメリカでは今多くの人達が軌道修正を迫られ、そして神の前に

皆でj祈り、待つと言う一致団結を体験しているそうです。

”悲しい状態の中なのだけど、同時に嬉しい、固い絆と連帯感を感じるすごい体験をしているよ。”と話してくれました。

 

不正がはびこりとありますが、神の定める人間の生き方を無視

すれば、誰かの思惑通りに事を運ぶために、不法が平気で許されるてしまうのなら、この世界は神に反するものの手により

どんな方向にも、そして極限まで果てしなく的ハズレな生き方をする事が許されて行ってしまうのです。

 

1つはっきり言える事は、世界で、過去も含め、現在も流されている情報が全て”真実”ではないと言う事。

真実な情報を探る、嘘とまことを見分けるには、真実な情報を

まず得なくてはならないと言う事はどの分野、世界でも共通の

真理です。特に聖書に関する解説や情報に関しては、聖書に

書かれている本当の意味をまず知る!それが重大な鍵です。

人の教えがたくさん入り混じった聖書の事実とは異なる解説を

放り込まれて聴き続けているままだと、何が神の語る事実なのか全く見分けが付かない。

本物の羊飼いの声を聞き分ける=聖書に書かれた神の言葉通りをまず知る、学ぶ事。

神の言葉から離れた生き方、神の言葉はもう必要ない時代などと言う意識を様々な方向から浸透させ、放り込んだ教えが19世紀以降に出てきた様々な教え、ムーブメントなのです。

 

創世記からマラキが書かれた後、福音書が書き記される1世紀

までに、約400年余り聖書に記されていない時代の聖書には

書かれていない空白の期間があります。

 

聖書には書かれていないその時代の出来事は、他の文献で

知る事が出来ます。そして、今月10日にはハヌカが始まりますが、ハヌカの事件の土台になった”マカバイ戦争”もその空白の

時代に起きた出来事です。マカバイ戦争167BC-160BC。

この事件の背景なども当時の残された文書など、

マカバイ記などその他の歴史文献でも知る事が出来ます。

 

聖書は1世紀の使徒達が書いた書簡で完全に閉じられて

います。

閉じられていると言う意味は、それ以降聖書を書き記す役割の

神の預言者はもう出て来ない、永遠不変の神の言葉を塗り変える様な教えも無い、余分な聖書箇所の付け足しの部分は今後現れないと言う事実です。

 

そして、聖書は創世記から黙示録まで、どの箇所も、どの言葉も互いに相反す内容も無い、一貫して同じ事=同じ福音が語られているのですが神学は神の言葉とは違う事を主張しているのです。

よく考えれば見えます。神の言葉同士が仲間割れすると言うのが神学の主張する教えです。それは”イスラエルの神”では無い神を

語っている教えなのです。

 

別の福音はない!と言うのが聖書が語る事実です。

別のイシュアも居ない。人種により救いの内容が違うと言う

言葉は、元の意味にすると、人種により別のイエシュア=救いが存在すると言っていることになるからです。

アダムとエバから同じ福音!同じ神の教え=言葉=インストラクション=同じ救いの内容が書かれているのが本物の聖書、

神の言葉の真実なのです。

 

逆に別の福音を語る、その聖書とは異なる教えに対しての警告が聖書の至る所にされています。

 

パウロの書簡で誤解されて解説されている箇所を書こうと

思いながら、忙しく時が過ぎるのと、その前にどうして二つ別の福音は無いと言う聖書の主張とは違う、二つの福音=別の教え=別の契約、人種や時代により別の救いや教えがあると信じ込んでいるのか?聖書では無いその教えの出所があるのです。

その教えの内容が聖書とは異なるものであり、人の作り出した

思想、哲学なのだと言うことを理解する必要があるのです。

 

長い歴史の中、人の作り出した伝統の教えが聖書の事実であると言う固い硬い堅い誤解が何重にも重なっているので、その誤解をまずちゃんと自分の中で解かないとならないのです。

”神の言葉は永遠”と言うその言葉が真実だと信じるなら、

神が言う通り、神の言われた言葉は途中で変わらないと言う

信仰に立てば真実はちゃんと見えて来るのです。

 

歴史の途中で様々な人により、神の言葉に人が手をかけ、

神の言葉の真実を歪め、壊し、腐敗させてしまったのです。

 

それは、世間一般に流通し続けた神学は、実は聖書が土台の教えでは無い事に気が付かない限り、見えない事実があります。

 

1世紀以降、使徒達が書簡を書き終えた後から今までの歴史、

特に西洋宗教史に関しては本当にしっかり学び、誰が、いつ、

どの様な理由で、何が起きて神の言葉を変形して行ったのかを

知る必要があるのです。

神が神の言葉を変更する訳が無いと言う聖書に基づきその事実に

立ち、それでは誰が一体神の教えを腐敗させたのか?

曲げたのか?破壊したのかと言う原因を知れば良いからです。

 

大きく誤解している事の一つに、聖書に書かれた最後の時代に

生きた1世紀の信者達は、アダムとエバから、マラキまでの

聖書に書かれた神の言葉=トラーを生きていた人達と違う生き方に1世紀以降は切り替え、変更したのだと言う誤解です。

前に書いた”ウルトラマン、ウルトラの父を倒すの巻”の作り話の

ストーリーを本気で信じているのです。

 

聖書だけに基づけば変だと気がつくはずです。

イエシュアは父の言葉を伝え、教えに来た。父の言葉を離れて

何も出来ない、しないと言っているのです。

しかも、トラー=救い主そのものと書かれているのです。

黙示録の最後の箇所までに渡り、全てはモーセの五書に反する

生き方をする人達への警告が書かれているのです。

預言書とは、”トラー”=父の教え=婚姻契約=モーセの五書=

イエシュアそのものの姿に書かれた神が造られた人間の生き方から外れる事への警告、そして神の教え=言葉に戻れ!と言うのが聖書の言う悔い改めの本当の意味だからです。

 

ヘブライ人は、父の言葉=トラー=モーセの五書に書かれた詳細とはっきり理解して聞いているのです。

それなのに父の言葉=教えは呪いの縛りで人が生きれない教えなので、子=救い主が破壊しに来ましたと言うストリーが、

西洋人により造られて、それがヒットし、浸透し世界へ流通してしまったのです。

 

 

続く