人の教えと言う障害物 壁 弊害を取り壊せば人を生かす神の純粋な言葉にたどり着く | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書=神の言葉に対する誤解、2000年前にイエシュアが

来て、一時的に与えられた呪いの仮の教え、人が生きることの

不可能な呪いの律法を終わらせたのである〜と言う聖書の内容と

100%相反する世界に流通している伝統の神学による教え。

 

それらがどうして聖書と違うのかは、聖書に書かれている

オリジナルの内容、いや翻訳を読んでも、先入観が無い場合には分かるはずと思うのですが、様々に手を加えられた不適切な翻訳

や人が作り出した教え=神学での解説と言う障害物があります。

 

オリジナルヘブライ語で書かれた、ギリシャ語で書いてある

福音書以降、実はヘブライ語で書かれた原書が多数発見されて

いて、世界の図書館に保存、存在しています。

 

たとえギリシャ語で書かれていても書いている人達はヘブライ人なので、その思索言語の元の意味は100%ヘブライ語、

ヘブライ思想=トラーであるその事実に戻って考えて行けば

神学で解説される聖書とは全く違う世界が見えて来ます。

 

聖書に書いてある通り、大前提=神が語る通り、神の言葉は歴史の途中で決して変わらない、永遠に変わらないと言う事実に

基づき、聖書に書いてある通りに忠実にちゃんと読んでみれば

気が付くはずなのです。

西洋神学の教えを聖書より上と信じる解説では、聖書に書いて

ある事実を塗り変え続けてしまうので、聖書に書いてある真相

通りを実は読みとっていない、考えていない事が起きて

いるのです。

 

聖書の、神の言葉のどの箇所にも”トラーが終わりで

新しい教え”を生きることに変更されていることなど、

実は一度も書かれていないのが聖書=神の言葉の事実なのです。

 

パウロ達は何故、昇天以降も神殿に詣出て、動物の捧げ物

生贄と訳されるコバーンを持ってナジル人の請願をしたり、

使徒15章にあるように、異邦人イエシュア信者は、

トラーに基づき、汚れた行為や汚れた動物を食せないのかちゃんと書かれています。

過越や仮庵やシャバットを変わらずに祝い続け、神の祭りを

種無しパン=新しくされた人の実態で祝おうと教え、

シャバットにトラー、預言書を朗読しているの?

と聖書に書いてある事実、書いてある通りに基づき、事実だけを考えてみれば見えて来ます。疑問に思わないとならないのです。

この1世紀の人たちはどうしてトラーを生きているの?と。

 

神の言葉=父の言葉=婚姻契約を否定、破棄、終了とする、

そんな事天地がひっくり返っても神はしない、有り得ない事

だと言う事実の認識、常識が、基本的知識が先祖代々異教神の

教え、思想だけにどっぷり漬かった異邦人には全く始めから

無い考えなので、19世紀に西洋人が創作したような教えを、

神が隠していた真理を新しい最新の掲示、教えとして明かされたのだと信じてしまう。オリジナルを知らない弊害なのです

 

はっきり言って聖書をどの箇所、一点一画でも否定するその教えは、神の言葉に基づけば、それらは偽預言者=偽教師の唱える

教えなのです。神の言葉を否定する=死に匹敵値する重い罪。

簡単に神の言葉が終了したと本気で信じられる西洋人が作った教えを、神の言葉を退け本気で信じて、そして他者へ教え続けて

いるのです。

 

ちゃんとよく聖書だけを読めば気が付くと思いますが、1世紀、

聖書の中に書かれている登場人物の議論で、誰一人トラーが

終わりなどと言う教えも語ってもおらず、語る訳もなく、

逆にパウロがトラーを否定する教えを教えていると言う疑惑の噂が大問題になったでしょう。だからパウロはトラーを100%

生きて、否定などしない証拠としてナジル人の誓いをした、彼の

弟子たちと共に、弟子たちに費用もパウロが持って行った事が

書かれてます。使徒21章。聖書に事実が書かれていても、

その事実を全く読み取らない、聖書の記述に基づき何も考える

事もしないでパウロはトラーを破棄した教え、新しい教えを

した人とされているのです。とんでもなく聖書の事実から逸脱する教えです。全て始めの前提がずれているから。神の言葉が

終わったと言う教えがずれて狂っているものであるからです。

 

ユダヤ人がしている論点は全て”イエシュア”があのトラー、

預言書の救い主であるのか?と言う事に関してであって

トラー=神の教えを生きるのを終了した時代に入ったなどと

言う異邦人が語る神話、空想の世界の話など聖書には書かれて

いないのです。自分の手元にある翻訳聖書を読んで確かめてみても分かると思います。

 

そして、彼らがイエシュアと議論している内容は、自分達の

宗派の伝統で作り出した教え=ハラハー=手洗いの儀式の議論でもイエシュアと言い争っていますが、自分達の編み出したトラーの解釈、生き方を人に強要していた。これはクリスチャンの世界でも同じことがあるのです。神の教えでは無いのに、それを忠実にやるように人に強要し、課する。それが出来ない場合、神を

第一にしてないとか、神に対する愛が無いとか言われる。

それをイエシュアは神の教えでは無いよ!と正したのです。

 

でも当時の教師たちは彼らの伝統の教えを生きさせることが

イコール神への忠誠心とか愛だと本気で考えるので、自分達の

人間的な伝統=口頭トラーの教えと違うことを言う、イエシュアに対して最大限むかっ腹がたったのでしょう。

イエシュアがされたトラーの解説は、天直送、人を解放し、自由と喜びと命に溢れさせる、父の純粋な言葉の真意そのものを

人に語った、それがたとえ話とか、山上の垂訓として福音書に

書かれているのです。イエシュアはトラー=父の言葉=モーセの

五書に書かれた人の生き方を天直送の解説をした。

トラーを否定した別の教えを話していると私は教えられたし

多くのクリスチャンはトラーをイエシュアが教えているなどと

夢にもつゆにも考えないと思います。100%トラーしか

イエシュアは教えてないのです。

イエシュアは父の言葉以外話さない、生きないと言われたでしょう。聖書の事実だけを繋げて考えればちゃんと真相が見えてきます。

 

これは自分の世界に当てはめても分かることです。どれほど人の教えに縛られて、それが神を愛することなのですと言われて苦しめられるのか。

 

散々この種類の悩みを聞いてきました。それをイエシュアが

正されているのであって、トラー=ご自分の教えを否定するなどと言う誤解をしているのが神学の世界の教えなのです。

 

 

この内容は時間を費やす必要があるので、今は詳しく書きませんが、彼ら1世紀のユダヤ人イエシュア信者、極少数の異邦人

イエシュア信者が生きていた、教えられていた、学んでいた

毎週聞き読み続けていた教えていた内容は100%トラーです。

 

毎週シャバット=第七日目ごとに街の中にある会堂でトラー、

預言書が読み上げられていた記録が使徒に書かれていますよね。

どうして聖書に書いてある内容を認めないのだろうと不思議に

思うわないのが不思議ではないですか?

この事実を異邦人は全く見過ごして別の新しい教えが来たのだと

本当に空想の世界の中で誤解しています。

 

聖書の冒頭に”ベルシート”と言う言葉が有ります。

神が人に直接語る最初の最初。人に伝える創造の始め。

その一言から黙示録の最後の言葉まで、全ては神の言葉であると本当の意味で信じているなら、どの箇所も神ご自身=霊であり、聖書の中にある神の言葉のどの部分も、今日、今この時点で、

大地に今住んで、天に太陽、月、星を観測するなら、神の言葉は

変わってないと神が神の言葉で宣言、神が人に伝えた、教えた

通りをどうしてそのまま信じないのでしょうか?

 

信仰とは、神の語る教え言葉を聞く事から始まるのに、

信仰の始まり、土台が神の言葉を否定する事から始めたら

ずれてそれた方向へ進んでしまうのです。

その神の教えの中にジャンク=人の教えが混ざり、神の言葉を

極限まで遮り、真理を知る妨害、障害物となり、最後は

2000年で呪いの律法は終わりと言う教えを、ヘブライの書

トラーに全く馴染みの無い西洋人が作り出したましたが、

福音書以降〜黙示録に書かれているのは、トラー、預言書であり別の新しい教えなど1つも書いてない事に、人の神学を信じる

場合は全く気が付かないままになっているのです。

神の言葉を否定する事自体が全くもって神に対する叛逆、

冒涜なのです。

 

トラーを知るユダヤ人ならクリアーに、福音書以降に、

トラー、預言書が書いてある事実を読み取る事が出来るのです。

 

神の言葉に手を加えると言う行為は、神の言葉を否定し、

終わりになったと人が宣言し、その教えにより様々な教え、

宗教をどの形に変形しても作り出し続ける事が可能に

なるのです。

 

考えてみても分かるのですが、どうしてユダヤ人には神の言葉は

蜜の様に甘いと箴言に書いてある通りの捉え方をし、

家族に教えるのに、異邦人は、神の言葉は呪い、律法、厳しい

生きられないおきての数々と言うのか。この違いはどうして?

聖書には同じ神の言葉が書かれているのに。

 

後者がトラーをオリジナルの言語意味で学んだ事がなく、

人の教えを信じて、聖書をちゃんと学ばないからと言う単純な

理由なのです。白ヤギさんと黒ヤギさんのお手紙交換現象が

おきているのです。読まずに食べて捨てたからその中身に何が

書かれているのか分からないので、さっきの手紙のご用は何?と

聞き返しても、そのご用の内容を、トラーを知らない人が考える、語る,西洋神学の教えの解説だけを聞かされるので、

それが神の言葉の真意だと思ってしまっているのです。

ある部分、ある事柄は真実でも根本的な神の言葉に対しての

思想、概念の土台がまるで違う。

 

楽譜が読めないなら、作曲者が書いたオリジナルの曲=音楽を

奏でられない。

これまた楽譜を読めない誰かが、誰かから聞いたその曲を

歌った歌がその作曲者のオリジナルのその曲であると教えられて、他にも教え続けて行く。

その曲をリピートしても、それはオリジナル楽譜に書かれている

メロデイとは異なるものなのに。でも楽譜が読めないので

本当の曲は実際にどんなものなのか確認出来ない、

よく分からない。オリジナルヘブライ語、ヘブライ思索で

書かれた神の言葉を教える人が、元の意味を知らないとは、

それと同じ現象が起きてしまうのです。

正しく人に神の言葉を教え導くための確固たる証拠を知らない、

神が神の言葉で伝える真実の根拠が無い、明確では無い、不明、不透明と言うことだからです。

 

だからオリジナル聖書を知らないまま、人の作った神学を

強調する教えは、オリジナルのヘブライ語聖書を学ばず、

聖書に書いてある通りを知らないので、事実確認無し、

把握してない事なのです。

 

神の言葉は永遠、絶対である事を認めない=それが人間の教え

神学=神の言葉は2000年前に廃れたと言う教えだからです。

 

 

続く