神の言葉への誤解 パウロの書簡の内容に対して誤解された解説が流通した原因 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロの書簡の中で多くの箇所を誤解され、そして聖書に

書かれた内容とは違う解説されている箇所を考えてみたいと

思います。

 

その前に、アメリカでも、日本でも、どこの国でも、西洋宗教の

作り出した神学は、聖書とは違う事を教えていても、それが

伝統的に根強く揺るがない地位を獲得し、世界に神学の教えが

大々的に浸透し信じられ、聖書を書いてある通りに読まない

風潮があるのに、それに対して何も違和感を感じないと言う

無感覚状態が起きている事をまず認識しないとならないのです。

 

宣言する信仰の内容と神の言葉に対しての取り扱いが矛盾している、信仰宣言=神の言葉は永遠、神の言葉を信じますと言い

ながら、実は聖書に書いてないけど、本当はテンポラリーと

言う、反、非聖書的、聖書に書かれていない人間の教えを宣言し、人間の教え通りに神の言葉を取り扱っているのです。

 

西洋人だけが語る、西洋人による、西洋思索の、翻訳聖書の

解説の世界が今までずっと流通したのは、”ユダヤ人”=神が

神の言葉=福音伝達を託した民族と、そして神の言葉に敵対する勢力がそれを”バン”=禁止、追放して来た歴史があるからです。

 

ユダヤ人迫害とは、その裏にある本当の意味は、イスラエルの神と神の言葉=契約、神の民=神の言葉、教え=トラーを生きる

人達に対する抹殺思想、反抗、反撃、攻撃でもあるのです。

 

イスラエルの神の国、神の言葉、神の民を潰すと言う勢力が

聖書の最初から登場し、書かれています。

 

その事実から目をそらさずに考えれば、どうしてこの様な道筋を

歴史の中で辿っているのか、はっきり神の目から理解すること

が出来ます。

 

そして、世界へユダヤ人が散らされたのは、一方神の言葉=

福音=教えが世界の全民族へ伝わるためでもあるからです。

そして、ユダヤ人が神の言葉=トラー=婚姻契約の生き方から

外れた生き方をしたら、世界を危険に巻き込む、

そう言う重い責任もユダヤ人にはあるのですが。

 

聖書を誤解している一番の原因は、”オリジナル聖書、

ヘブライ語で書かれたオリジナルの聖書”=翻訳の様に

文字数や 言葉を変えることがない聖書=人が手を加える事が

出来ないオリジナルに、何が書かれているのかを異邦人は

殆ど知らないと言う事です。

 

だから聖書教師である異邦人=西洋人の中に、パウロや使徒、

ユダヤ人の様に代々ヘブライ語のトラー、預言書、諸書に精通し生涯学び続け教える、その様な聖書の学びの訓練を受けて来たと言う人は今まで本当に余り居なかったと言う現実があるのです。

 

自分の教師は、異邦人だけど、パウロの様なヘブライの書を

読み、ヘブライの聖書に書かれている意味通りに教え、

オリジナル聖書から直接解説する。解説するだけではなく

イエシュアがされていた教えられていた通りの生き方、衣食住、

そしてシャバットや過越、仮庵の祭りを祝うと言う教師を

持つ人が周りに全く居ないのはそれが理由です。

 

異邦人はオリジナルに触れては来なかった事実がある。

日本人は、異邦人=西洋人特にアメリカ人に、信仰の手ほどき

手引きをされたのです。

 

異邦人が作り出した西洋神学を通して、本当の意味がよく見え

ない幕や壁がある翻訳聖書だけを読み、しかも、異教の神々の

地で培った異教徒思索概念から、ヘブライの世界の

古代ヘブライ人が読んだ聖書を理解しようとする。

 

聖書に関する基本的な理解しなくてはならない様々な情報に

欠如して読んでいるので、書いてある真相が、書いてある通りに

見えてこないが起きているのです。

その事実にさえ気が付いていないと思います。

 

聖霊が教えて下さいますと言う前提は、聖霊=神=言葉、

神が伝えている言葉の内容、意味通りをまず把握する事、

その大前提ありきで、神の言葉の真理だけに立ったなら、

神が人に伝えている教え、言葉の意味、意図を神の言葉から

教えてくれるし、見えてくるのです。

 

聖書に書かれた事とは違う理解をして考えていたら、それは

神の言葉が語る真理から外れた思索の中で考えているので、

別の教えを作り出し、神の言葉が語る、教える真相に

辿り着く事がいのです。

ある部分は見えるけど、根本が宗教=人の教えと混ざったもの

であるのと、神の純粋な言葉とは異なるものがあるのです。

 

神の言葉など詳しく知らなくても良いと考えているのは、

イエス様を信じたら許されて、天国に行くからそれだけでOK。もうそれだけ十分と、ほんの小さい小さい狭い世界だけを

考えているから。信仰とは、神を信じるとは、それで終わりと

考えているから。神が用意して下さった素晴らしい神との関係、

本物の自分を知り生きる、そして他者との関係の世界に

入る事無しに、別の神像を教えられても、それが自分の本当の

生き方を阻むと考えもつかないからです。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にすると

ある、その真理を知らないなら、本物の自由も本物の喜びも

実は分からないままと言う事になってしまうでしょう。

 

だから私の記憶にあることは、信じたら、多くの人を救いに

導く、この活動中心だけを主に聞いて来た記憶があります。

それ以外、本当に学んだ記憶が無いほどに。。

信じるって天の国の会社に入った社員みたいな、歯車の1つに

なった意識の人も大勢いるのはそんな教えからだと思います。

 

自分は誰か?と言う本当の自分=イエシュアが永遠から取り戻して下さった本当の自分にさえ救われた後も実は未だに出会って

いない、分からない多くの人がいるのは、神が人に伝える、

語る教え、言葉の意味が分からない、それが原因なのです。

 

私個人の話であり、私が辿り理解し、教えられた事を話して

いますが、内容に違いが多少あれど大体同じ事を聞いた事が

あると推測します。なぜなら、日本だけでなく、私は主に西洋

アメリカで教えられている教えを聞いて、皆どの国に居ても

同じ様な事を話している情報収集をして来た経歴が実際に

あるからです。

 

まず聖書に書いてある細かい内容を分からない、知らなくても

こんな風に教えられて来ました。

 

2000年前、ジーザスが来られるまで、完全な救いや、贖いや

許しは無い状態だったので、そのために、仮の手段=生贄=動物や植物を神殿でささげ、神の怒りをなだめ、許しを請うていた。

 

この教えに基づくと、古代、エルサレム周辺に住んでいた極少数の人しか、神と関われないと言う事になってしまいますね。

エルサレム以外の場所に住む全て他の人たち、ユダヤ人だけを

考えても、エルサレムに徒歩で歩いて神殿に生涯の間に行ける人は限られているし、祭りの時に行けたとしてもそれは年に

3回だけ。日常神殿に行ける人は、神殿の周辺に住んで居た人に限られてしまいます。

 

どうして地上に神の神殿が造られたのかと言う意味を

まず理解していない事から起こる誤解なのですが。

 

イスラエルは地上で天の国をそっくり映し出し、神の似姿の人=トラーに書かれた神のデザイン通りのオリジナルの人を生きる

人達で成り立つ国として神が造られたのです。

 

もっと学ぶともっと見えてきますが、エルサレムの神殿=モリヤ

山での出来事からだけでもたくさんの事実が書かれています。

そして、聖書はどの箇所でも全てイエシュアを指して

語っているのです。

 

だから、神の言葉を一点一画でも消したり、付け足しては

ならないと神が言われた理由は、人が手を加えたら、神が語る

事実が見えなくなるからです。神の言葉を捨てる〜イエシュアを捨てると全く同じ事なのです。

設計図で一ミリでも寸法ずらしたら、ちゃんと建物が建たず

歪んでしまうでしょう。

 

エルサレムにある神殿は、天の国に実際にある”神の家”

そっくりそのままを造ったと言う記録が聖書に書いてあります。

だから、モーセがシナイ山の上=雲の中=天の領域で見せられた

そっくりその通りを造りなさいと神に言われたのは意味があるのです。神が言われた通り!そっくりそのまま!神が見せた

その通りのまま以外を作ったり言ってはならない、この原則を

異邦人は全く無視しているのです。異邦人は平気で神の言葉が

終わり、変わったと信じ込み、他者に宣言しているからです。

 

 

続く