神の造られた記念日はいつ? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプト31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日

<シャバット>を覚え、永遠の契約として、代々シャバット

守らなければならない。

31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるし

である。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

31:18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの

板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに

授けられた。

 

聖書に書かれている言葉の意味は、最初に書かれている

意味がずっと貫かれています。途中で別の意味、

別物の教えに変身しないのです。

”永遠”と書かれている翻訳、元のヘブライ語は”オラーム”です。

オラームとは、”全世界、全宇宙、神の造られた全て”を表す言葉でもあるのです。そして、代々に渡り=ラドラタム、一世代では

なく、永遠に後世に渡り祝うものと紹介しているのです。

 

だから、イエシュアが神の言葉=トラーの一点一画が廃るより、

オラーム=天地が滅びる方がどれほど容易いかと言う言葉で

強調をしたでしょう。神の言葉は変わらない!そんな事

何があっても絶対に永遠にありえません!と言う強調です。

 

詰まり、今日人がこの地上に生きて、天体を眺め、空気を吸い

生きているなら神の言葉=トラーは今日も有効!であると言う証拠、印だとイエシュアが言っているのです。神の言葉だけに

照らし合わせたら、人造神学の教えが、聖書と真っ向から反対の教えであり、異なる、異物、違うものである事が神の言葉から

証明されるのです。永遠に神の言葉は変わらない!廃らないと

神ご自身が言われているのです。

 

歴史の途中で人=ギリシャ、ローマが、異邦人が神の言葉に手を加え続け、変え続けて、神の言葉をないがしろにし、否定する様に教え続けて来ました。

 

聖書に書かれている事をその通りに受け取らない、信じない、

生きない、聖書とは別の教え、別の福音、人種別の契約、

教えがあると信じている理由は、歴史の中の何処かで、誰かが、

人間が、神の言葉を改ざん、手を付ける、加える、差し引く、

変えたと言う事件が要因なのです。その事件=神の言葉改ざん

事件に遡り誰がいつどこで何をどう変えたのか?を調べれば

神の言葉が変えられた事実が明らかになるのです。神は神の言葉を創造の初めから、永遠に変えないからです。

 

モーセの言葉は4世紀で終わり、その後1600年間現代に至る迄モーセの言葉は終了になったと言う人の教えが聖書では無い事が、神の言葉の中に記され、証明され、永遠に証拠として存続しているのです。

もし、神の造られた週一度の第七日目の記念日=シャバットを

否定するならば、それは神との関係にある事実と、

そして神の創造を否定する事であるのです。

 

なぜ?神がそう言われたから。シャバットは”印”であると。

神との関係に入る人だけが祝う特別な記念日、祝い日だからです。

神が人と契約の中にある関係に入った印、そして神が6日間で

全部の業を終了し、第七日目に止まり、憩われたから、この印として人は神と共にシャバット=第七日目の特別な時、夕あり

朝ありが無い永遠の中に入り、祝うと書かれているからです。

 

シナイ山での出来事、シャヴオートで、初めて文字で神が自らの

手で刻んだ神の言葉=教え、約束=婚姻契約を渡された歴史上の

一大イベントがありました。これは使徒2章の都上りの祭りでも

分かる通り、今もずっと祝われている神の記念日です。

 

この時に、全イスラエルとそして共にエジプトを出て来た異邦人たち、約300万人の人全員がシナイ山の麓で、直接神の声を

聞いたのです。これは神がモーセに語られた言葉が100%

イコールの言葉だと信じられるための証拠でもあるのです。

だから、使徒2章でも同じシャヴオートの祭りの時の出来事が

あった時、このトラーの事件を知るユダヤ人達は、シナイ山での時の再来であると分かったのでしょう。

天が直接シナイ山に降りて来た。だから山=天の領域と繋げて

考えているのですね。山を見上げる、主の助けはどこから?

天から来る!と。

暗闇でひっそり行われた事では無いのです。全世界、天と地が
証人として、神の永遠の婚姻契約が渡されたのです。
インドの仙人が、ひっそり何処かの山奥の暗闇で神からの掲示を受けたとか、ジョセフ スミスの様に自己申告の、神から新しい啓示、別の聖書を受け取ったとか、そんなものではないのです。
 
しかも、歴史の中で、全世界の人類の中で、ただ一つの民族を
神が取り出して、運び出し、契約を結んだのは、イスラエルしか
無いでしょう。でもそのイスラエルに繋がる人達、どんな民族でも同等に神の民とされると書かれているのです。
 
神が祝福されると言う言葉は、同時に”接木される”と言う言葉と意味同じなのです。全部神の言葉、メッセージはブレずに、一貫して同じ事、同じ福音を語り続けているのです。全世界の父として選ばれたアヴラハムを通して、全世界の民族が祝福されると
ある事に繋がっています。義とされた事実は、信仰により受け
取ればアヴラハムと同等に神の子らにされる。そして神の子らとされた人達は、神の言葉=教え、インストラクション=トラーを生きると聖書には書いてあるのです。
 

出エジプト19:16 三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。

 

音とありますが、ヘブライ語では”コル”=声です。

そして祭りで吹くショーファーの音は、神の声になぞらえて

いるのです。シャファーの音を聞くものは幸い=神の声を聞いて

生きるものは幸いと言う意味です。シャファーは神の言葉、声

教えを思い出させるものなのです。

 

トラーが終わりと言う都市伝説、俗説、人の編み出したまやかしの作り話が聖書に戻ると記載されています。

 

出エジプト19:9 主はモーセに言われた、「見よ、わたしは濃い雲のうちにあって、あなたに臨むであろう。それはわたしが

あなたと語るのを民に聞かせて、彼らに長くあなたを信じさせるためである」。モーセは民の言葉を主に告げた。

 

ヘブライ語ではどう書かれているのかと言うと、神はモーセに

神の言葉を語り、モーセを通して神の言葉を世界へ伝えたのです。モーセに信じる=神の言葉を信じると言う意味で書かれて居るのです。モーセに語った神の言葉を信じる!と言う意味なのです。だから、イエシュアがずっと言われているでしょう。

モーセに聞け!と。

 

ルカ16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

モーセの教え=トラー=父の言葉=神が語られたモーセに託した言葉を信じないなら、これ以上何を言っても無駄!耳、頭脳は

聞き入れないであろうと書いてあるのです。これはラザロの

たとえ話の中でのイエシュアの警告です。

 

ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。

すなわち、モーセのトラーと預言書と詩篇とに、わたしについて
書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

 

続く