イザヤ66:18
「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。
わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。
異邦人もユダヤ人もイスラエルの神=神の実態=神の言葉を
愛する、生きる人達は、神が集め、神と最も近い場所に引き寄せられ、神の栄光を見ると預言されています。
イスラエルと、異邦人は別々の場所、天と地にバラバラに分かれて統治する?別々の契約、教え、別の福音が適用されると言う
教えとは全く異なる事が、神の言葉の真実、真理、聖書の中に
書かれています。
エハッド=エデンでアダム一人の人から人類が出て、最後も
人は一つに集められ、一つの神、エデンの生き方に戻るのが
聖書のテーマ。
この逆は?神を愛さず、神のトラー=言葉、教えを愛すと口で
言いながら、実際は神の教えを捨てて神の言葉を生きないと
選択している場合は、神の提供する栄光を見ることが無い。
10人の乙女の5人に繋がる警告です。
油=神の命=教え=トラー=婚姻契約の実態をずっと生きて
花婿を迎える準備をし続け、花婿が実際に迎える来る時まで生きていた5人。そして、準備していなかった5人。
5と言う数字を見ただけで、ユダヤ人なら、解説の必要無く
5=モーセの五書=婚姻契約=神の教え、インストラクションと理解出来るのです。5=モーセの五書=父の言葉=シナイ山で
与えられた婚姻契約=神の言葉、教え、インストラクション
皆同じ意味です。別々の書かれ方がするだけで。
この油は、人に分け与えられるものでは無いとあります。
何故なら、それは個人個人が神の言葉を食べて、神の言葉を実際に生きる中で神との関係を育む事が出来るものだからです。
神に義とされた実態を実際に生きる事で成熟する、新しくされた人の領域を生きる実態を自分が再取得して行くプロセスだからです。人の人生を自分が代わりに生きられないのと同じ。
命=神の言葉に根付いた生活をしてたのか、してないのか
だからです。
それは人に分け与えられない、提供出来るものではなく、
神の教え=イエシュアの命を生きた人の中だけにあるものだから、分けられないと書いてあるのです。自分の脳回路を人に
分け与えられないのと同じ事です。以前は、”なんて不親切な事をするの?分けて上げれば良いのに”位に考えていました。
つまり蚊帳の外で歯がみして悔いるとある、神と隔たりのある
場所に追いやられてしまうとちゃんとずっと警告されているのです。神の言葉を無視して、人の教えを生きるとはそう言う結末でもあるのです。
マタイ 25:9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。
店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、
ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
25:12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。<知らない=婚姻契約の関係の中に無いと言う表現です。>婚姻契約=トラー。
25:13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
神の家の子とされたら、生まれた幼子と同じく、神の家の
しきたりを1から全部、神の言葉=教えから教えられると言う事だからです。異教の地の慣わし、習慣、汚れをやめる。
使徒15章。
神のトラー=教え、インストラクション=婚姻契約=
キリストの花嫁とされた人=婚家嫁いだ家=神の家の教えを
1からまっさらな頭脳で全部神に教えられる。
外の汚れ=異教神の要素に混じったものを携えて生き、同時に
神の家の中に持ち運びながら、神の家の茶の前には上がれないのだよ!と教えているのです。神に取ってどんなものが汚れであるのか、創造した創造主に聞いて教えられない限り、人間には分からないのです。人が神の世界を勝手に想像で定義出来ないから。聖別に繋がる大事な鍵です。
神の性質と異なることを神は受け入れられないから。
汚れを持ち込んだまま神の中に入れないからです。
汚れもなんでも一緒くたに受け入る神ならば、聖書に書かれた
神の性質とは反する、偽物の神になってしまうのです。
悪が善、善が悪であるとするのが寛容、話が分かる人と言われる今の世の中と同じ。混ぜ物をしたら、何が神の真実、真理、
本当なのか分からなくなるのです。
別要素=神の性質にマッチしないものを、神の聖なる場所に
持ち込んでは周りが汚染されるからだめ!だからそのウイルス
持ち込む事をする場合は、神から隔離されてしまうのです。
パン種の教えでも教えられている事。別のパン種を取り入れれば
神の子らしい性質ではなく、別物の姿に膨れ上がると。
神がもっとも忌み嫌う罪とは、異教の神々の教え、要素、偶像
シンボルと混ざり合う事なのです。道徳的罪より神にとりずっと耐え難い罪。バアル神の妻はアシェラ=イースター神です。
ワンセットです。イスラエルの遺跡で、イスラエルの神の
柱と、アシェラの柱の抱き合わせを見たことがあります。
バアルとアシェラなのに、イスラエルの神とアシェラが一体。
イスラエルもずっと混ぜ物の教え=神の神殿以外で、捧げ物や
祭壇を作っていた=高き所での礼拝=混ぜ物をしていた痕跡が
遺跡としても見られます。
単純な教えです。神がきよく無いと言われたら、そのまま聞けば
良いだけだから簡単です。創造主では無い被造物が、創造主に
異議申し立て、神に対して反論するからややこしくなり、自分の目に叶う教えを人間がドンドン聖書を否定して作り出している
のです。原点、オリジナル、神の本当の言葉だけに戻り生きよ!が悔い改めの中心の中心なのです。
神の言葉を否定する=神の言葉に対する思考回路がずれていて、それらは異教神信仰、異教徒、異邦人の性質であると書かれています。
イザヤ66:19 わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、
のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、よく弓をひく
プトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが名声を聞かず、
わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。
彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。
プト、ルデ、トバル、ヤワン、様々な国、アフリカ、アジア、
ギリシャetc 異邦人達も、全世界に散らされたユダヤ人達を
通してイスラエルの神のトラーを聞く。
ユダヤ人が世界へ散らされたもう一つの目的は、イスラエルへの訓練だけではなく、神の教え=トラーが世界へ伝えられるため
でもあったのです。
66:20 彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。
世界中から、異邦人により、ユダヤ人がエルサレムに向かう。
異邦人の助けにより、ユダヤ人がイスラエルに戻る事が出来て
いるその事実にも繋がりますね。
清い=タホーとあります。豚で代表される汚れた動物では無く
神の指定する神の宮に相応しくフィットするタホーな動物
捧げ物を携えて来ると預言されています。
イザヤ66:21 「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、
レビびととする」と主は言われる。
66:22 「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。
66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
66:24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
未来に神の神殿がエルサレムにあり、そこに全世界の人が来て
1つ大家族として神と共に喜び、神のシャバット、新月、
祭りを祝う事が預言されています。
ゼカリヤ14章の預言ともぴったり繋がる箇所です。
ゼカリヤ14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの
残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、
仮庵の祭を守るようになる。
14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、
エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
続く