分かりにくい箇所こそ神の語る”奥義”が詰まっている聖書 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

6月27日土曜日、シャバットで、読まれたトラー朗読箇所は、

イスラエル国内では、民数記<バミッドヴァ=荒野にて>の

"フッカ”=おきて複数型と言うタイトルが付く箇所

19:1~22:1です。

イスラエル以外の諸外国では、その前の箇所の民数記16:1〜

18:32<コラッフ>を読みました。たくさんの内容が

詰まっている箇所でもあります。

 

全世界中で同じシャバットの日に同じ箇所を、ヘブライ語の

トラーで読み、それに付随する預言書の箇所、そしてイエシュアを信じる人は、福音書以降から、同じ内容の箇所を読むのです。

三年サイクルのプランもありますが、来る年来る年毎週毎週どの箇所も飛ばさずにじっくり読み続け、学ぶのです。

そして、シャバットで学んだ事を一週間じっくり繰り返し考え続け、生き続けるのです。こんな事をする国民は世界にイスラエル=ユダヤ人だけでしょう。

 

イエシュアが毎週シャバットでトラー朗読をしていた事が

福音書に書かれています。その時、イザヤ書の預言書も読み、

そこにご自分が書かれていると宣言されて、皆驚愕したでしょう。色々な意味で。WWYD?偶然にその箇所を読まれたのでは

無いのです。ちゃんとトラー朗読が計画され、その時にイエシュアがトラー朗読をする係として任命されていて、トラーの箇所に

付随する預言書の箇所がイザヤ書であったと言う、そんな細かい所まで神のプランが浸透しているのです。

 

1世紀のユダヤ人達もトラー、預言書を朗読していた事が書かれています。

当時は一人一人トラーを、各家庭で所有してないのです。

でも殆どのユダヤ人はモーセの五書を空で丸暗記している世界。

でも街囲み=コミュニテイの中で皆が一緒にトラーを聞いたり

する事をしていたのです。

 

トラーは聖書の土台です。ここをしっかり学べば、それ以降の

聖書に書かれている内容を理解出来る様になります。

そして、トラーに書かれている事は奥が深い。聖書の大元が

書かれているからです。

 

ただ読んだだけでは、意味不明な事が聖書に書かれている事に

気が付く箇所があると思います。分からないから、”それが一体

どうしたの?”と余り意味が無い事が書いてある位に考えますが、実は聖書のどの箇所も、無駄な事が書かれていない。重要な意味があり、神が厳選中の厳選の内容を選び出して、そこに記述されているのです。

 

そして、短い言葉の中にとても凝縮された内容が書かれてもいるのです。例えば”イエシュアが泣いた”とあるほんの短い中に

とても深い意味のある内容が記されている。

 

分かりにくいと言うのは、”下知識”が無いからだと言うだけです。意味が分かれば誰でも分かる事だけが聖書に書いてある。

そうでなければ、聖書が記された意味が無いです。

人に理解不可能な事がずらずら書いてあれば、それは意味伝達の役割を果たさない訳ですから。

詰まり、異邦人はトラーを捨て、置き去りにして、お家元から

学ぶ機会がなく、その代わりに人の教え=神学を土台にし、

翻訳聖書だけを読んで来た長い2000年の歴史の産物が=聖書に書かれた意味を理解出来ないと言う結末、形で今現れている事でもあるのでしょう。

 

民数記19:1 主はモーセとアロンに言われた、

2 「主の命じられたトラーの定めは次のとおりである。すなわち『イスラエルの人々に告げて、完全で、傷がなく、まだくびきを負ったことのない赤い雌牛を、あなたのもとに引いてこさせ、

 

赤い雄牛?灰に触るものは汚れる?

19:10 その雌牛の灰を集めた者は衣服を洗わなければならない。その人は夕まで汚れる。これはイスラエルの人々と、そのうちに宿っている他国人との、永久に守るべき定めとしなければならない。<異邦人とイスラエル別の教えと言う神学が真実では

無い事が聖書の至る所に書かれています。>

11 すべて人の死体に触れる者は、七日のあいだ汚れる。

 

意味不明な、不可解な行動や教え?位にしか考えられないです

よね。普通は。一体何言ってんだろう?と。

 

でも11節は日本人ならなんとなく理解出来る箇所かもしれないですね。命にある状態、死=切り離された状態=本来の状態では

無い状態。汚れるとは、汚いとか、きれいを表す言葉では無いのです。神の家に属する、入る、これに関して適している状態では

無い。命から切り離れた状態は、神の意図とは異なる事。罪とは何の関係も無い事なのです。これは長い解説が必要なので今は

置いておきます。

 

只読んでも何の意味があるのか分かりにくい内容があります。

それをこじつけや想像で考えず、当時の人達がモーセを通して

神から教えられている同じ意味が見えれば良い訳です。当時の

人達は理解していたのです。現代人の頭脳が劣っているのでは

無い。現代人には下知識が無いから。聖書は古代のヘブライの

世界の人達へ語られているからなのです。

 

エルサレムの神殿が70ADに崩壊して2000年近く経つので神殿が存在して居た当時、実際に聖書に書かれている神殿の中での教の全てを人々が行っていて、それを執行する祭司達は、

トラーに書かれている神殿の中で教えられていた一連の事を

理解して、人に教えていたのですが、この神殿が70ADに

ローマにより破壊、崩壊された後、ユダヤ人祭司である人達も

散って居なくなったので、トラーに書かれた神殿での1つ1つの

教の内容の真意が語り継がれていないので分からないのですね。

でも神殿無き後に、色々な形で語り継がれ、書き記されている事があるのです。ユダヤ人のラビ達、賢人達により教られている

事があるのです。

 

聖書をちょっと読んでも、明らかに分かる事がありますね。

例えば10の言葉の中に書かれている聖書の土台であるお題目は分かりやすいです。

神の実態を消す教えをするなかれ、人間の手で神を表す偶像を作るなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、偽証するなかれ。とても

分かりやすいですよね。

 

でもこの赤い雄牛や、そしてこのレビ記19:19はどんな意味

が伝えられているのか、読んだだけでは理解不可、すぐに意味が見えません。だから、その中身を書いてある意味通りを学ぶ必要があると言う訳なのです。

 

しかも、トラーに書かれている全ては、イエシュアを表しており

私達人間の生き方、死んだ自分で壊れている自分の中にある

記憶や、体験の修復の仕方、癒され方、神との関係をどう結ぶか、どの様に神の前に出る、近づくのか、人との関係の築き方、修復の仕方神の似姿である人としての生きる上での全て必要な事が書いてあるのです。それを飛ばしたらどう成長、どう癒され

修復出来るのか、どう生きるのか、どう神に近づくのかと言う

詳細が見えないのは言わずとも知れた事実な訳です。

 

レビ記19:19 あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。

 

異なった家畜を掛け合わせてはいけない。ウールと麻を混合してはならない。畑に二つの種=小麦と大麦を一緒に撒いてはならない。

 

これらの教えを人間は簡単に破っていますが、物理的にも

不都合、神のデザインに合わないものであります。

例えば、雌馬と雄ロバを掛け合わせて、ラバが生まれますが、

ラバ同士では、次世代の命を生み出せないですね。神のデザインでは無い、人が作ったものだからです。するなかれ。

やってはならない混合。ウールと麻を混ぜるなかれ。

ウールと綿とは書いてない。この二つの繊維は温度が違い

衣服の性質がとても不安定であるそうです。

そして、大麦と小麦を一緒の畑に撒く事。

 

自分が分かる、理解出来る、出来ないかが、神の言葉が解説する内容、意味の重要性を測る基準では無いのです。トラーは

永遠不変の人間が生きる”道”=イエシュアが書かれているのです。イエシュアは”長子”=初子でしょう。私たちはこの初子=

初穂に繋がる人達です。WWJDとクリスチャンが唱えるなら、

それはイエシュアが生きたトラーを生きるべしとイエシュアが

語られている事をまず知らないとならない訳です。

空想=人が作った、聖書を造り替えた教えではなくて、聖書に

直に戻り考えれば見えてきます。

 

現在は無効になった教え=トラーと神学が教えますが、それが

別の福音であり、危険な教えです。しかも、福音書〜黙示録は、全部トラーを語っているのに、その事実に気が付いていないのです。福音書〜黙示録には、神の言葉の全てが書かれていないので

大幅端折ってしまって、元の教えが何かを学んでいないことも

重なり、大事な教訓や知恵を埋蔵したまま触れていないのです。

 

 

続く