イエスさまを信じると言う意味は、イスラエルの神の提示した
神の家の子ら、家族の姿を大家族全体で生きる”契約の命”の中に
加わる、参加する決意をしたと言う意味です。
本物の神さまに出会った〜!でも、異邦人=日本人やアメリカ人や諸外国、先祖代々イスラエルの家系、血筋に生まれトラーに
根付いた生き方、文化からほど遠く、神の教えが何かを全く知らない、異教の神々の文化、教えの中に代々、好まざるとも生まれ生きて来た人達は、神の家の子らとして生きる事が何か?と言う知識が初めてから全く無い訳です。
シナイ山で、天と地を証人に神の前に宣言した人々、イスラエルと異邦人の混合ミックスの集団は、神の大家族として神の国の
生き方、教えを生きます!と宣言したのです。
その人達は、エジプトに居て、神の言葉、教えを忘れて生きていた、又は全く知らなかった群衆です。
神の国に加わる事は、自由選択です。クリスチャンも言うでしょう。神様は強制しませんと。出エジプトして贖い出され、義とされている事実は100%無償、無条件に与えられるものです。
アヴラハムを代表として全世界に表されたその事実がありますが、義=神の子ら、救われて復活の命を内側に頂いた後、神の家に生きるには、条件がありますよ!と言う事です。
神の教えに聞きたくない、生きたくない場合は、疎遠になります。蚊帳の外。それを、絶たれると言う言葉で表されているのです。神の家に相応しくない生き方をし、周りに汚染と、危害と
誤りの方向へ導く教えを持ち運ぶ場合は、危険なので外に出てと
言う事です。それよりも、神と人との親しい関係の中に入れなく
なるのです。
これは自分の選択ではありませんが、日本に生まれたら、日本人として、又外国人でも日本で生きるなら、日本の国に生きる生き方、憲法があります。これに同意しますか?
しない場合、不都合や追放が起きますよと言う事です。
当然だと誰でも同意するでしょう。
国と言う大規模な組織で無くても、属する学校や会社、地域でも
ルールや教えがあります。互いに平和に幸せに生きるために
その数々の教えやルールが設定されているのでしょう?
そのルール、憲法は、人々の安全、命を互いに保護するため。
神の言葉=インストラクションはそれなのです!
神の国に生きる人が自由でそれぞれ気ままな教えを生きたら
どうなると思いますか?神の教え抜きに。それこそ一体も秩序も
シャロームも何もなくなってしまいます。それぞれの基準の
別々の生き方は、分裂以外の何物でもないでしょう。
神の造られた人間のデザインから外れるのです。そして世界へ
地の塩世の光として、神の造られた人の生き方を伝える事が
出来なくなります。
互いの命を保護し、生きる上での全ての側面を網羅する、
修復の全ての業を実際に自分が体験し、癒されるプロセス、
関係の世界を築く、育む、ガードしてシャロームの状態で
皆が幸せに生きる事が書いてあるものが、神の教え=トラー=
神の国、天の国の憲法なのです。
神の国の一員になった人に対して、何度も神が繰り返し
教えている事があります。シャバットです。これは福音の一番の
中心を教えているものだからです。重要だから幾度も繰り返し教えられていて、約束の地に入る前も念を押されています。
”イスラエルの息子達は、シャバットを覚えて”とありますが、
この覚えると言う言葉の意味は深い意味があります。
覚える=どんな性質の事を語っているのでしょう?
シャバットは、イスラエルの息子達=詰まりイスラエルの神を
信じる全ての人に対して、”神との関係にある印”であると
神が言われました。覚える=ガードする、命を守がごとくの強烈さ、強度、敵を家の中に侵入させない完全防備準備のガードで
守るその度合いを表す言葉なのです。軽々しく覚えている、
忘れたそんな意味では無いのです。捨てる、忘れるなら、命に匹敵するとだから書かれているでしょう。
第七日目を聖別したとあります。
聖別と言う言葉は、創世記の創造が語られている箇所で初めて
出て来る言葉です。それは、第七日目を指して語られている
時を表す言葉なのです。ここに注目。
神が創造の業を終えた。それが私達神に造られた神の子らが
神が止まられたその日=第七日目を聖別する理由であると書かれているのです。第七日目。
この第七日目不思議な日です。
神は場所と時を造られました。第七日目は、”時”に関して語られています。神の子らは、神の時の中に入り、神と大家族の皆と
共に、神と特別な出会いをする事が書かれているのです。
時は感じませんよね。毎日同じに日が流れるから、第七日目だけ
体感する別な現象がありません。
いや、荒野の40年では、シャバットが始まる前の昼間、第六日目の昼間に、天からマナが降って来ましたが、今はその現象を
見ることはないし、創造の始めも目で見る体感する何か物理的な
印はありませんでした。でも、人間は7日目には止まるのが
自然でしょう。花金、金曜日には止まる準備に入っている。
でも、この日は確実に”神の時”定めの時なのです。特別な日。
体感しなくても、神の仰せ通りに、この神の定めの時=第七日目の日に入る人には、特別な神との出会いがあると神が約束して
くださったのです。
第七日目は、夕あり、朝ありの記述がありません。
第6日で全ての創造が終わったとある通り、この日は永遠と
繋がっている印の日でもあるのではないでしょうか。
場所ではなく、”時”の中に入り、神に出会う、
これがシャバット。
十戒と呼ばれる、10の言葉、神の宣言がシナイ山でされました。トラーの土台、お題目、神の国に生きる人の姿=神の国の
憲法、約束が短い10の言葉で表され、その詳細が、トラーに
書かれているのです。
これは、2000年前に終わった教えでなく、永遠に変わらない全人類に同じ神の教え、インストラクションであり、
福音書以降もこのトラーの短い内容が使徒の書簡として書かれているだけなのです。この点を異邦人は多大に誤解しているのです。
どうして?神の言葉を無視して、永遠に変わらないと言う言葉を
退け、神の言葉が語る意味、中身を変えたら、どんな人造の教えも神の言葉を塗り替える事が出来るからやってしまったのです。
しかもトラーを学ばないから、ますます見えない。
ここで注目するのは、神が声を大にして世界へ宣言している
言葉です。
出エジプト20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
神が、創造主が宣言している事に注目してください。
私達は神に造られた者であり、神から教えられる以外、神の真理を知ることが出来ない、神の言葉から汲み出さない限り、真実を掴んだ確信が持てない被造物であると言う宣言です。
全てを神から教えられる必要がある。神の教え=トラーを捨てたら分からなくなるのです。異邦人はトラーを捨てる、忘れる以前に、トラーに何が書かれているのか深くは知らないのです。
神の宣言を真っ向から無視したら、神に何を教えられているのか
見えないのは当然の結末なのです。人の作った教えに聞入らず、
神の言うことを聞いて!と言うことを捨てているでしょう。
2000年前にトラーは破棄されたと、神の宣言を完全に
無視して、自分達の教え=ローマ教の教えに賛同、復唱、
唱えて世界へ宣言しているのです。
福音書以降でその教えのほんの触りや一部を読みますが、
深い詳細はトラーを知らなければ、分からないと言うことに
まず気がつく事が必要なのです。
神が王の王、主の主=神々の中の本物の神であり、この創造主である神が書かれた”契約”の生き方に自由意志で参加して!と神が宣言しているのです。
贖われた人達は、責任がある本物の自由=神の与える真実の自由に生きることに招かれた。その自由は、自分の勝手気ままな思う
願う所の自由ではなく、神が提示する本当の自由=神の教え=
真理に根付く生き方が本当の自由であると宣言しています。
宗教の教えは、それぞれ自由に考え、判断する自分基準の教えを生きても良い、恵の時代になったと遠回しに教えますが、それは神の言葉とは全く異なります。イスラエルの神、イエシュアを
信じる人は、イエシュアが生きた通りの父の教え=トラー=
婚姻契約にあわらされる教えの詳細を生きると聖書には書いてあるのです。
それが聖書から見えない、読み取れないのは、書いてある神の
言葉を否定するから、どんどん見えなくなってしまったのです。
旧約聖書は終わりと言うなら、十戒も意味無く終わります。
福音書〜黙示録も吹き飛びます。トラーと同じ内容が書かれているからです。
トラーが終わりなら聖書も全部崩壊します。罪の定義も
最後の審判も恵も救いも贖いの定義も全部吹き飛ぶことに
気が付いて考えていますか?聖書の定義、意味は全部トラーに
書かれていて、そこから聖書の全てが語られ、書かれているからです。聖書の辞書はトラー。トラー=聖書の柱が、土台が吹き飛べばそれ以降の全ての聖書は吹き飛ぶと言っている事に気が付いてないで、人が作った定義した教えを復唱しているのだと思います。
別の教え=宗教神学の教えのジグゾーパズルのピースを繋げたら、イスラエルの神の言葉=教えとは違う教えになってしまうのは言わずとも知れた事実だからです。
続く