聖書の中には、二つの浸水に関して記されています。
ヘブライの世界、トラーを知る人ならこれを思い浮かべます。
1度目は、紅海をくぐった事。2度目は約束の地に入る前の
ヨルダン川を通った事。過越の祭りの中でも、”2つの浸水”に
関しての教えが語られ、儀式の中にもあるのです。2つの浸し。
紅海を潜ってエジプト脱出した後も、神の目から見ることを
学習していない=頭脳に割礼が無いままの状態、出エジプトしても、頭脳は奴隷状態で在エジプト状態。これは救い主を信じた
現代の人にもある状態なのです。神の目から全てを見る学習を
完全にしていない。
シナイ山で受け取った”婚姻契約”に参加した人達の頭脳、
意識状態。だから、自分の手で編み出した金の子牛でイスラエルの神を拝んでしまう様な事をやった。同じ事を宗教ではしているでしょう。神が言われた通りではなく、自分で編み出した方法で
イスラエルの神を礼拝する。それを神がありがたく思う?
聖書を読めば神がどう考えたかと言う事が書いてあるので、
分かりますが。”わたしの言う通り、言う事以外でわたしに近づかないで”と書いてあります。人は神にどう近づけば良いのか
教えられなければ、分からないのです。
40年の荒野での生活を通して、ヨルダン川を渡り約束の地に
入る人は、頭脳に割礼を受けた状態の人が参加する、”新しく
更新された同じ婚姻契約”を生きる。異教の神々の教えの混ぜ物の教え、思考回路が、頭脳から完全に離脱している義とされた人の生き方を習得している人達。参加する人の状態がまるで違う、
内容はシナイ山で与えられた婚姻契約=トラーを、神のエッセンス通りに生きる人達が生きる、それが新しい契約と聖書で
エレミヤが、イエシュアが言われたものです。
地上の約束の地は、天の国のシャドーコピー、地上で天を映し出す同じ意味の実態を表すものです。だから、天の国に住まう人達は、二心=混ざった頭脳=この世の肉の目と神の目から見る思考回路が混ざっていては、神の国にフルに生きれないと言う事を
表しているものでもあるのです。
これは全部繋がっています。
春の祭りを締めくくる、小麦の収穫でもある”シャヴオート”が
終わり、これから秋の祭りに向かってイスラエルでは雨が全く
降らない4ヶ月間、夏の時を通過します。
夏から仮庵の祭りまでの期間は、一年では最後の収穫に向けて、歴史全体では、イエシュアが戻られる最後の日々の準備期間を
意味するものでもあるのです。
神の記念日の全ては福音のエッセンス、預言的内容を意味し、
神の業=イエシュアの業、福音の全てを表しているものです。
聖書の事実の点と点だけ繋げて行けば、必ず神が教える事実の
画像が浮かび上がって真実が見えて来ます。そして実際に
神の記念日、シャバットを、一年の記念日、祭りを生きて行くと何を教えられ、させられているのか分かります。
死んだ人で生きた、奴隷の記憶、脳回路の離脱〜新しい人を
生きる”きよめのサイクル”なのです。
だから、聖書には成長とか収穫とか、刈り込みとか、分かり
やすい農作業、作物や収穫でも表されています。
初穂、イエシュア、収穫。
復活の命、イエシュアに繋がった人が成長し畑が収穫の最後を
迎えて色づく。麦と毒麦、雑草のたとえ話もそれです。
そして、聖書のどの箇所もですが、トラーはイエシュアそのものを指して書かれているのです。だから、神のどの一言の言葉も
消せない、捨ててはならないのは、全てがイエシュアだから、
トラーの全ての箇所はイエシュアを指して語っているからです。
どうしてその事実に気が付けないのか?生まれながらに
イスラエルでは無い、トラーを知らない、神の教えに馴染みの
ない異教徒異邦人出身だからです。エペソ2:11−12
ヤコブ書の続きですが、多くのクリスチャンはヤコブ書の
価値、ギフトを知らないまま、何故この書が、福音書以降の
書簡の中に存在するのかも理解していないのです。トラーを否定しながら、この書は教えられないからです。
異物な書であると考えているのです。ルターがそう教えたから。
ルターの教えを引き継げば、このヤコブ書は使徒らしく無い価値の無い書であると神の言葉を判定し、さらにルターは”ヤコブ書は、ワラの様な軽い書簡”とも神の言葉に対して物言い、ヤコブ書は律法に人を惹きつけてしまう書である、又は律法を行う意識に人を惹きつけてしまう。”と言いました。
詰まりトラーに敵対せよ!と教えています。ローマ・カトリックの教えを根拠にしているからです。
詰まり、聖書に戻すと、律法=本当はトラー、神の言葉、教え
それに惹きつけてしまう危険な書と言ったのです。
神の教え、言葉に惹きつけるのは危険?誰の教え?エデンの園の
事件と同じ内容になっています。神の言葉を誤解しているから、
トラーを学ばないから、分からないから言っているだけですが、
神の言葉から人の意識をはぐらかす教えの方が死に値する危険な
ものなのです。
思索の前提がずれると全てがずれて行きます。
律法=不適切な言葉なので、本来の言葉に直しましょう。
トラー=神の永遠不変の教え、インストラクション、トラー、
福音書〜黙示録は、トラー、預言書からの抜粋、短いコメンタリーの書、使徒がトラー、預言書の中身が地上に現れた事実を書いた書簡=福音書〜黙示録なのです。
ルターも律法と言う翻訳、ギリシャ語=ノモスからの翻訳で表される、本当のヘブライ語の意味を知らなかった人です。
ノモス=律法と訳される言葉の裏にある本当の言葉、ヘブライ語
は”トラー”=神の教え、インストラクションなのです。
神の教え、インストラクションは”律法”では無いのです。
ルターが理解能力に欠けているのではなく、お家元からヘブライの書、トラー、聖書を学ぶ機会がなかったからでしょう。
学習機会が無かったと言う事です。
そしてギリシャ語のノモスと言うこの言葉は、複数の別の意味、物を表す多用的に適用されている言葉である事実を知らなかったから、聖書に書いてある通りの意味が見えなかったのでしょう。
聖書を正しく読む、理解すると言う教育は大事なのです。
特に翻訳を読む民族は、ユダヤ人と違い聖書に書いてある
ヘブライ語の直接の言語の意味、事実が翻訳で覆われて見えないから、尚更特に聖書の内容を書いてある通りの意味通り正しく
紐解かれる教育が必要であるのです。
聖書に書かれている意味を取り違え、書いてある内容を誤解し、それを次世代へ伝え続けてしまう誤りが起きるのは、聖書の事実とは違う翻訳や、人間が編み出した神学が聖書の真実だと誤解する事から起きるからです。教える人は、原書に戻り、聖書に
書いてある通りの意味、内容をまず知らなくてはならないのです。
ギリシャ語ノモスと言う言葉は、律法では無い、裏のヘブライ語は全く別の言葉。”神の言葉”=トラーを表すには相応しくない
言葉で翻訳用語が表現されているのであると言う事を知らなかったからこの様な誤解を土台にした発言をルターはしているのです。
律法なんて言葉を神の言葉、教えに対して使うと言う所からして
間違った意識を人に植え付ける要因が始まっているのです。
永遠に美しい神の言葉に対して、呪い、不必要、排除、削除と
言う言葉を使って表しているのです。
そしてローマ教、ローマ皇帝が編み出した教え〜トラーは
廃れた、生きてはならないと言う教えを継承し続けているからに
他なりません。神の仰せ、神の教えではなく、それは人の作っ
た、考えた教えを信仰の土台、基礎として来た伝統に乗っ取って
いるからです。聖書とは何の関係も無い、人が考えて作った教えなのです。
聖書を読んでいたら矛盾に気づくはずです。永遠不変と神の口から神が宣言している、又イエシュアも父の言葉=トラーを教える
生きると言っているの、それを破棄するとか終わらせるとか
又は呪いの律法だ、恵みを無駄にする生き方であると同時に言うなんて変だと思いませんか?イエシュアはでは、恵みを無駄に
する生き方を1世紀の人達に教えに地上に来たのでしょうか?
何か矛盾に気が付きませんか?と言う事なのです。
それに気がつかないのはやはりトラーに馴染みがない、神の言葉が何かという意識がない異教徒出身の異邦人だからです。
神の言葉が途中で変わるなんて発想する事自体、異邦人異教徒
思考の影響が染み付いている証拠なのです。
神の言葉が何かと言う基本的な事が分からない、意識が無い。
神が神に敵対するなんて変でしょう?神が永遠に変わらない、
トラーは人に知恵を与えるとか、人の人生の歩みを照らす
道しるべ、神=言葉と言いながら、一方で呪いの律法=廃れよと教えるなんて、これ精神的に錯乱している病気の神?て事
でしょう。
それ以外に、ルターはこう言いました。”ヤコブ書は、無秩序に色々と書き記し、使徒の弟子たちから聞いた教えを用紙に書きなぐったと言う様に思える。又は誰かの説教から、いくつかの教えを取り出して書いてのかもしれない。ヤコブはこれを自由への
律法などと言っているのだ。しかしパウロは奴隷、呪い、死、罪の律法”と言ったのだ。”と。
二つの箇所はこの様に書かれています。
ヤコブ1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される
ローマ 6:14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
解説は次回へ続く。