現象を追い求める様に教える人の教え 神は何を私たちに伝えているのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

どの様な世界、分野でも全く同じですが、言葉で伝達する内容をマックス、最大限フルに理解して、伝達された内容を実際の行動生き方、表現に移す事が出来るなら、それは教えられた事を習得した、マスターしたと言う事だと思います。そしてそれを繰り返し続ければ、自分のナチュラルな実態になる。エキスパート、

その道、生き方のプロになる。

 

信じた後、こんな事を教えられました。第二の聖霊の波を受ける

べし。それにより、信者としての格、レベルが違う様になるのであると印象を植えつけられました。聖霊のバプテスマを受けたら聖霊に浸って全部が変わる、よりすごいパワーをもらう、レベルが上のクリスチャンになるetc etc。。。聖書から気がつけば、それは単なる人の考えなのですが。使徒2章をその様な捉え方をしているのです。でもユダヤ人ならその様には考えない。

聖霊はガソリンタンクのポンプじゃ無いよと。

 

何故神の記念日があるのか、何故アブラハムが75才でいきなり生まれ故郷の父の家から出る様に言われ、全てを神の目から見る旅路に出されたのか?ヤコブも40年の間、実家から飛び出して自分探しの旅をさせられたのか?何故荒野の40年が書かれているのか。全て、インスタントでは無い、”贖われた人”が、神の目から見る頭脳に割礼を受ける、以前の思考回路を全部離脱する

旅路、時間が必要である事実が事細かに聖書には記されています。

 

弟子たちが、昇天以降、穂を数える7週、7回のシャバットを

過ごし、その中で古い人=死んだ人の回路離脱マックス状態で、日々シャヴオートに向けて皆で励ましあってエルサレムで過ごすようにイエシュアに言われたのか、意味があるのです。

 

種を地に植えた途端すぐ瞬時に、インスタントで、3分で出来る

カップラーメン思考で、次の日にいきなり根が出て、芽が出て

木が成長し、花を付け、実をたわわに成らせるなんて誰も

考えないでしょう。蝶が蛹から出て蝶になる過程を見ても

分かります。人が羽を引っ張るのを手伝ったら蝶は不具になり

飛べなくなります。羽を外へ伸ばそうとする時に、体の中から

必要なケミカルが出てその羽を広げ力をつけるからです。

プロセスが必要なのです。

 

宗教の世界は、歩み、成熟の世界を全く教えず”ジャンプ” 

"飛躍” ”不思議” ”奇跡”を教えているのです。聖霊を受ければ

その状態になると教えられてもそれは無理です。それは聖書では無いです。神のデザインでは無いから。赤ちゃんから成人になるには時間と過程が必要でしょう。そしてそれが即座に出来ないと所詮罪人だからと言う理由付けをしますが、自覚=新しい人に

されている事の自覚、注意深く生きる事と、新しい人を生きる

練習が足りないだけです。”新しくされた人”の自覚で生きる事を、日々事細かに聖書から教えられて生きていないから、

詰まり教えだけ聞いて、実際に実践する事をしていないから。

義とされたのは100%神の業。無償。でも、それを生きるには

人間の側の絶え間ない選択が必要なのです。蝶が羽を広げるのは蝶にしか出来ないのと同じなのです。人がそれを生きる事を

する以外に道は無い。義=神が命を与えた、そして命か死を

選択するのは、あなたが決める。あなたは命を選びなさいと

神は言われたのです。

 

神のトラー=言葉、教えを生きる事を抜かしている、

忘れている、神の言葉を生きる事をしないようにさせる教えを

教えられているのです。

生きることはキリストと書いてあるでしょう。

キリスト=律法=廃れたと言う教えを信じれば、神の言葉=

聖書とは違う事を信じてしまうのです。

キリスト=ハマシア=油注がれた者とは、救い=イエシュア=

トラーなのです。

 

救われた後、神の記念日と記念日=イエシュアの実態を日々の

中で生きる事をずっと教えられて行く過程があるのです。

 

これを忘れて、現象、不思議、印に次から次へ飛びついても

無駄なんです。何故なら、ちゃんと神の言葉の中に詳細が書いてあるからです。

トラーは終わり、神の教えは生きるものではないとほとんどの人は聖書ではなく、人造神学=人の教えを教えられる。では実際に

救われた人は何を生きるのか?て聞かれても漠然として、答えられないです。

イエス様のように生きるのだと言うでしょう。でもそれって

一体、実際、何を生きると言っていると思いますか?

イエシュアが教えた事、生きたことは100%トラー=父の言葉=シナイ山の婚姻契約に書かれた事なのです。

これに気が付いていないと思います。

 

神のトラー=聖書の言葉全ては、イエシュアを指して語られているのです。だからイエシュアは、トラー、預言書=わたしそのものと言ったのでしょう。使徒行伝でイエシュアを知った人達は、熱心にトラーを日々調べたと書いてあるでしょう。イエシュア

そのものがトラー、預言書に書かれている事を知っていたから

です。

 

どうして聖書が見えないのか、理由があるのです。異邦人は

肉の生まれがヘブライ人では無いから。エペソ2:11−12

だからです。生まれ、根、思考回路が異教徒思想だからです。

 

例えば、マタイの最初の1:1を読んだだけで、ヘブライ語で

もしユダヤ人が読めば、それだけで救い主が書かれていると

分かるのです。翻訳では、”アブラハムの子であるダビデの子、

イエスキリストの系図”と書いてありますね。

でも、ヘブライ語のマタイの書では、”セファー トラドート

イエシュア ベン ダヴィー ベン アヴラハム”と書いてあるのです。ヘブライ語聖書の原書では、クリスト<ギリシャ語>

ハマシア<ヘブライ語>とは書かれておらず、”イエシュア”と

だけ書かれています。

 

でもユダヤ人が何故このイエシュアが救い主であるのか読んだだけで分かる理由は、”ベン ダヴィー”と言う言葉があるから。

そうです。ダビデの息子=この系図から救い主が出る事をユダヤ人は皆知っているから、このベン ダヴィーと言う言葉だけを

読めば、救い主の系図が書かれている事が読んだだけで分かってしまうのです。トラーを知らない異邦人には決して分からない

世界です。教えてもらわなければ分からない。

 

人は神の口から出る一つ一つの言葉により生きる。

これを異邦人は忘れているのではないかと思います。

ユダヤ人なら当たり前の事だと認識しているのです。

神の言葉に根付いて生きるとは詩篇1にある木に例えて書かれている通り。イエシュア=生ける水の辺りに植わった木=木=救い主に繋がった人がずっとその木から離れない枝で、生ける水に浸りながら成長し続ければ、たわわな実を季節ごとに実=御霊の実をならせると書いてあるのです。

木の年輪でも表されています。神の創造と神の実態はぴったり

エハッド、一つです。だから農作業から、農作物から、自然界の

成り立ちから、創造物からイエシュアは様々な事を教えられたのです。水をたくさん吸った年の年輪は太く表れます。

生ける水をふんだんに吸い取り生きれば、太い年輪が出来る。

 

義の道とは一年のサイクルを神の時=神の定めの時=神の記念日から記念日をイエシュアの実態、レッスンを知りながら、

学びながら、古い人の脳回路を離脱して、新しい人の脳回路を

頭脳に形成しながら生きることが聖書には書かれているのです。

詩篇23章のダビデが書いた、義の道を歩むとはその事なのです。異邦人は読んだだけではダビデが何を意味して書いてあるのか見えない、実際に義の道=モアデイム、きよめのサイクル、

神の記念日を実際に内容を知り、生きてやって無いから余計

分からないのです。

 

地道な日々の歩み。神の前で神の言葉を受け取りその実態を生きる繰り返し。神との直の出会いの秘訣は神が語る一つ一つの言葉の中に埋蔵されているからです。

 

贖われて神の元に連れられて来られた。でも神の家の玄関先までしか入って無いかもしれない状態、親しい関係を享受する奥の茶の間に入らないままのになるのは、本当の自分に出会い、その

本当の自分で、神との本来のデザイン通りの関係を育むプロセスが無い、死んだ自分の記憶の修復のプロセスを端折って、全て

飛び越そう、神に言われた事では無い違うことをやろうと求めるからです。神の言葉に根付いた生き方をしないまま。

 

死んだ自分で学んだ記憶の癒し、修復のプロセス、やり方全てがちゃんとトラーに事細かに書いてある。そして、神への礼拝と

言う、その礼拝の意味の中核は、実はヘブライの世界、聖書では、”近づく=神の元に近づく事なのです。神の指定した通り。

関係の世界の中核の事、それが礼拝の中核であると書かれて

いるのです。

 

人との関係で考えたら分かると思います。

誰かと親しくなる、仲良くなる、その人を知る方法は?と。

婚姻関係で考えれば一番分かる事です。疎遠な関係になるには?

コミュニケーションを取らない事でしょう。相手の言う事を

聞こう、理解しよう、受け取ろうとしない。相手が語る言葉を

遮ったら、無視して捨てたら、それだけで関係は疎遠になる、

相手が何を考えているのかを知る事など出来ないでしょう。

人の教えや神学は、神の言う事=神の永遠の言葉を捨てよと

教え続けているのです。聖書に基づき、クリアーな頭脳で考え続けたら、何をしているのか気がつくと思います。神の言葉、

どこをとっても一つ一つ全てイエシュアなのです。

 

それを飛ばしてインスタントの現象、霊が降ってきて一瞬で

パワーを得て変わる!如くのミラクルを求めるから、失望し、

ある時はある集会でハイ現象を体験してもそれは根付かないのですぐにしぼむ、消える、やむ。又次のムーブメントや新しい教えから教えを求め飛び付いても結果は同じです。

 

これが1970年代から今までの現象、チャーチアニズムの中で

やって来た事なのです。

神の言われることは、”取りて食べよ” ”無い金でワインを買え”

神の言葉で、神の命に養われると言う事を教えているのです。

無い金=無償で提供された神の贖い、救い、恵みで本物の

人生を神の言葉を食べて生きよと言われているのです。

 

続く