今日はシャヴオートを迎えて次の日の、連続2回続きの
週の”シャバット”第七日目の止まる日です。
12年前はシャバットの記述、イエシュアや弟子たちが祝って
いた日が聖書に書いてあるけれども、何を意味して何を祝って
何をする日なのか、その意味、内容を全くもって知りません
でした。
ローマ宗教の神学の教えで解説する教理や記念日は知っていても、聖書に書かれている神が伝えている神の記念日の意味、
その神の記念日を生きる、祝うと言う意味内容を全く知らないままでした。
神の言葉、教え、インストラクション=聖書に書いてある事を
そのまま知る必要があるのは、神の言葉通りではなければ
又は人が神の言葉とは違う意味を解説すれば、神の言葉は
ピュアに純粋ではなくなり、人の教えと言う別の教えに変身してしまうので、神=全世界を創造された創造主だけが伝える事が
可能、神の国を生きる全詳細、神が伝えている意味、内容を知る事が出来なくなってしまうからです。
神の言う通りの内容が、人の教えで妨害され、真実が遮られて、神の伝える真意が見えなくなるのです。
木曜日の日没にシャヴオートを迎えました。ローマ教の教えでは、この祭りはどの年も同じ日、日曜日と言うことに設定されていますが、聖書通りの神の暦=時では、2020年は5月28日日没からで、昨日の日没でこの祭りはイスラエルは終わりです。
今まで聞いて居た神学の教えを外して聖書だけを根拠にして
真実の点と点を一つずつ一つずつ確実にしっかり繋げて行くと徐々に徐々に真相が現れて見えて来る事を発見します。
ジグゾーパズルのピースと同じ、ピースが増える毎に画像が
広がって見える範囲が広がって行く。
その時に人の教え、神の言葉とは異物のピースをはめ込むので
途中で画像が途絶える、見えなくなってしまう、又は別の
画像=人の教え=宗教の世界の教えが造られてそれを見てしまうのです。神の言葉とは異なる、違う、別の肖像、画像、映像、
実態を見せられてしまい、それが神の語る聖書の世界だと誤解してしまう現象は、神の言葉の中に人の教えが混入している事が
原因なのです。
又は神の言葉が宗教に変身している、別の教えのチャンネルの
番組に繋がってその教えを聞いて、それが聖書だと信じ込んで
しまう事現象が起きるのです。
聖書を、人の教えと言うパズルのピースを繋げて見て行く世界。
まず、シャヴオートは、過越の祭りと継続して繋がっている事が
分かるでしょうか。昇天された後、弟子たちが使徒2章の
シャヴオートを迎えるまでエルサレムに留まり、穂を数える
7週の間、準備期間を過ごしていたのです。以前の思考=
脳回路中身離脱は激しかった期間でもあったのです。
シャヴオートの祭りの日を、過越の日を土台にして数えているのです。そして、他の祭りは第一、第七の月の1日、10日、
15日などと、はっきどの月の何の日と言う、月の暦で日程が
書いてありますが、このシャヴオートは、その様な形では記されていません。
過越から数えて7週、フルに7週、7回のシャバットを
過ごした次の日=50日目に来るから<ギリシャ語ペンテコステ>シャヴオート=週<複数>と言う名を神が人に伝えている
のです。
この数字には意味があるのです。7と言う数字にこそ意味があり
その数字を表す意味を別の数字に変えてしまえば、神の伝える
真理を人は汲み取る事が出来なくなるのです。
その前にシャバットですが、シャヴオートと言う言葉と発音が
類似しているのは意味が繋がっているからです。
シャヴア=週。シャヴオット=週複数。
シュミタ=七年 シュミタを7回過ごした次の50年目がヨベル
の年。並べてみても、過越とシャヴオートのデザインと重なっていて、エッセンスが同じ。これは中身をきちんと学ぶ必要が
ある内容なのです。
1週間が7日である事は全人類共通です。なぜなら人は神の造られた時を生きるように造られているからです。
ある国でこれを無視して4日、5日を1週間としようと
試みて、上手くいかないままこの案件は没になったそうです。
神のデザインに反して生きられない。人が朝起きて夜寝ると
言う様に、これを逆にしたら不具合があるでしょう。
理屈ではなく、神に創造された体に組み込まれた体内時計=
エッセンスが神のデザインとずれたエッセンスを生きることを
拒否するからです。人は神を知らなくても、神の造られた時の
中を生きているのです。神は第一日目から第6日の間に全ての
創造の業を完了し、第七日目に止まられて人は神の造られた
時の暦の中=七日間で生きるようにデザインされているから。
だから、人は神のデザインに反して生きると人間の理屈では
かなっていても必ず長期間の間には不具合、ずれ、不祥事が
起こる。その行きつくところは破壊、分裂、損失です。
体も精神的にも関係の中にも。
シャバットがあると言う事は、週の終わり、始まりを知らせているものでもあることに気が付きますか?そして、これは
この過越、シャヴオート、仮庵、イエシュアの再臨の事実にも
繋がる福音の事実を表しているものでもあるのです。
シャバットは週の第一日目にはデザインされていません。
宗教の人造神学の教えでいかに変更しようともそれは
神のエッセンス、デザイン、真理に反する教えなのです。
最終的にイエシュアが戻られるのはいつですか?
最初ではなく、最後です。それをシャバットで創造の最初から
表しているのです。シャバットは週の終わりに来るものであり
週の始まりを表すものでは無いのです。週の終わり、労働の
全てが止まる日なのです。
シャバットは神の創造の恵のギフトです。
人は最後は、シャバットの状態に戻り全員が生きる世界に
入るからです。シャバット=止まる=完了の業=完全なる安息の中に入る。それがシャバットで表されているものでもあるのです。それを地上で今リハーサルする。今日を生きながら、同時に
永遠を常に考えて生きる。常に神の国に生きている事実=神の言葉に根付いて神の国の人として生きる。
これは福音の中心でもあり全部神の言葉、創造に繋がっています。
自然界=神の創造された世界を観察しても分かる事があります。
人は、第一日目から第六日目の間労働して、第七日目で止まる
と言うデザインを神がされました。人がどう決めても神が
決めたことは永遠に変更無しなのです。
月星太陽は、神のモアデイム=記念日を表すために造られた
と書いてあります。ここで質問が出てくるのです。
神の記念日、週一度の第七日目のシャバット、月一度の新月、
そして、”春と秋の都上りの祭り”。
立ち止まり、聖書の事実に注目し、考える事をすると分かりますが、1日は日時計でも分かるし、日没、日の出でも分かります。
1ヶ月は、月の満ち欠け、新月、満月でも観測出来ます。
一年は、太陽の日の長さや、星などで観測出来ますね。
でも1週間は、この天体では観測出来ないですね!
一週間=シャヴァのユニット、始まりと終わりの区切りが見えない。不思議な暦です。しかも7日間。神からだけ知らされて人
がそのシャバットの日=週の終わりの日を知ることができる
特別な日なのです。
これはどうして分かるのでしょう。
エデンの園からずっと神が伝えているのです。
アダムも6日の間耕して、第7日目で止まる。同じです。
第一日目を止まり、第二日目から第七日を働くとは聖書の、
神の教えでは無いことが聖書から確認出来ます。
エデンから出てもすぐに、コバーンをカインとアベルが捧げている。出エジプトする以前、婚姻契約を文書で渡される前から、
モーセはエジプトの王に”神の祭り”をするために、荒野に行かせてくださいと懇願しているでしょう。その記述の前後の脈略
説明、解説が何もなく、突如として出てくる神の記念日やら、
神の記念日まつわる捧げものがされている。神の記念日、
祭り、捧げものをすると言う、シャバットを毎週第七日目に
祝っている証拠でもあるのです。
エデンの初めから、同じトラー=神の教え、インストラクションが口頭で人に語られているからです。
シャバットが目で見える形で誰にでも分かる記述がされているのが、荒野での日常生活です。贖い出されて、花嫁となった人たち
が生きる生き方=トラー=神の婚姻契約の詳細を要約する
シャバット。
週の第七日目が始まる前の昼間、金曜日の昼間に二日分のマナが
天から降ってきた。シャバットの印=天から降るマナ、
肉体を養うマナと、霊のマナが神からだけ与えられる。
第七日目が目で見える形で分かる。ユダヤ人達と少数の異邦人が
神の記念日=シャバットをエデンの園からずっと継承して来た
事実が聖書には記されているのです。
シャバットはエデンから、ずっと神により伝えられて来た同じ日第七日目なのです。荒野から約束の地に入った途端、天からの
二日分のパンは止んで、地から取り出す作物で養われる様になったのです。
続く