1世紀当時、イエシュア信者達は、ほぼ全員がユダヤ人でした。
彼らユダヤ人の信仰の土台は、トラー、預言書です。
ローマ帝国、ローマ皇帝、西洋教父が歴史の途中で、トラー=
神の永遠の言葉、教えを否定し、拒否し、終わらせ、新しく作り出して付け足した教えを混ぜた教えではなく、ピュアに
オリジナル、純粋に永遠の父の言葉、シナイ山で与えられた神の永遠の婚姻契約が信仰の土台でした。今も変わらない。
その後、ローマ政府により様々な迫害をされ、又は中世時代
西洋世界から迫害され、トラーを教える、生きる事を禁じられ
そして大量虐殺までされたユダヤ人達は、深く静かに潜行して
影を潜めた様になったのです
そして、次世代へ同じ信仰が伝わる場合と、そうで無い場合が
あったのです。自分の信仰が子供に伝わり、継承されるとは
限らないと言う事は誰でも経験する事だから分かると思います。
特に何世紀もの迫害を経た後には、あの救い主は、ユダヤ人迫害の教祖様だと子供らに教える様になったユダヤ人達も居た訳
でしょう。しかも、イスラエルの国を復興しなかったからと。
同時に、表向きには全く言わないまま、残りの民=レムナント=
トラー、預言書を生きるイエシュアを信じるユダヤ人達は
どの時代にも居たのです。
ナチスドイツ時代もユダヤ人全殺戮作戦がヒットラーにより
行われましたが、強制収容所の中に居たユダヤ人の多くが
”イエシュア信者”でもあったのです。
そして、その迫害の歴史の中で、ユダヤ人達を守り命がけで
かくまい、助けを与えた多くの異邦人イエシュア信者達も同時に存在していたのです。
神の命を生きる、残りの民はどの時代にも存在していたのです。
そして、福音は2000年前に初めて明らかにされ、出現した
のでは無い事実にちゃんと目を留めて考える事が必要です。
西洋神学では、イエシュアが来られて初めて、福音が伝えられ、
救い、贖いが人類に初めて与えられ、聖霊が初めて人の中に
住まう様になったと教えますが、聖書には全く違うことが書いてあります。
もし2000年前まで神の助けがない、救い、贖いが
無いと言うならば、それ以前に生まれた人は神に放置されていた事になってしまいますよね?そう教えられた事があります。
救い主が生まれる前に生まれた人達は、救いが無いので全員
地獄に落ちましたと言った聖書教師の教えを聞いたことも
ありますが、それって聖書では無いです。
そんな事聖書に書いてありません。どの時代に生まれようとも
人はいつも神に造られた同じ人間。同じニーズがあり、同じ
人間の生き方があり、同じ助け、救い贖い、同じイエシュア、
同じイスラエルの神が居られるのです。
始めから同じ福音、同じ1つの神の言葉、教え、人間の生き方のインストラクションが聖書には書かれています。人間は途中で
構造が変化、進化しない同じ人なので、神の言葉も教えも
変化しないのです。変化すると言う教えこそ、イスラエルの神の
性質に反した人の教え、言い伝え、虚しい哲学、言い伝えです。
6日までに神は全ての業が完了したと書いてある一言でも
理解出来ます。後から付け足し、削除、変更無し!完了した!
神が神の言葉は永遠と言われた言葉、本気で信じてますか?
永遠と言う言葉の意味は日本語でも永遠と言う意味ではないですか?聖書では永遠とは2000年前迄ですなんて意味は全くないでしょう。
聖書に関してだけ、臨機応変、適当に言葉の意味など変更して
良いのさ、などと考えたら、それこそもう滅茶苦茶な教えの世界に展開します。どの言葉にもその言葉が表す意味があるのです。
神が禁じています。一点一画たりとも、私の言葉に手を加えては
ならない!差し引き、付け足しするなかれ。それをそのまま
聞けば、意味が通じると思います。
どうしてそれがテンポラリー、一時的、全人類へと神がそう言うのに、ユダヤ人だけ、異邦人には関係無いと言う意味の定義に
なってしまったの?と考えて、誰が神が永遠と言われた言葉の
意味、内容を変えてしまったの?かと考えて、調べて、真実に
気がつけば良いのです。
常に神の言葉にだけ基づき考えつづける事をする。
人の教えを元に考えては、神の語る真実が見えなくなります。
イスラエルの神の性質は途中で変わらない。神が約束された事、契約を途中で取り消す事は無い。神の約束は全人類へ同じ。
アヴラハムを通して語られた、全世界の民族がアヴラハム=
イスラエルを通して同じ様に祝福を受けるためと言う神の
言葉は永遠に真実だからです。
神の言葉は変わらないとずっと書いてある事実からブレなけれ
ば翻訳聖書を読んでいても、聖書の事実に気が付けるのです。
始めから同じ福音と聖書には書いてあります。太古から語り継がれた同じ福音と書いてあります。そして、最初から”イエシア”
救いは、エデンの園から、いや永遠から存在しているのです。
神が永遠から存在しているからです。
エデンを飛び出した後もずっとイエシュアが人々と共に居られた事実は、ヘブライ語の中ではクリアーに見えます。
エデンから世界の四隅に流れ出る生ける水。
世界のどの場所に散っても、神は共に居られるからです。
細かい詳細は書かれてはいないけれど、カインとアベルは
エデンの園を出た後に、いきなり”捧げもの”をしている場面が
書かれています。??捧げものに対する前後の説明ゼロ、
詳細の解説など無いでしょう?どうして?
どこでどう神に、捧げものの意味を教えられたのか、
書いてないでしょう。この捧げものは、イエシュアに繋がるもの、人と神がどの様に関係を結ぶか、神の前に義とされている
事実ありきで、捧げものの儀式があるのです。
その詳細が書いてない。
書いてないから、なかったと言う事ではなくて、そこには
書く必要が無いから書いてないだけです。後でその詳細が
ちゃんと書かれています。出エジプト、レビ記に。民数記、
申命記に。
でも読み取れます。書いてなくても、全て神のトラーは永遠普遍で、神の口から直接、エデンの園から、アダムとエバに教えられていた同じ福音なのです。
荒野を付いてきた岩。雲と火の柱。神の栄光が肉眼で見えた
40年の旅路。出エジプトの出来事の記録も、イエシュアその
ものです。偽の神々への裁き。10の災いの1つ1つはエジプトの神々に対しての裁きです。裁きの目的は、神の用意する本物の
生き方、神の子らしく神の中で生きる自由への開放なのです。
思考を人造神学ではなく、ヘブライ思索、ヘブライ聖書に
リセットし直して、分断、歴史線上に見ずに、永遠から眺めると言う聖書の思索に切り替えて見たら見えます。
神は始めからずっと同じ教え、インストラクション、同じ約束、福音が伝えられているのです。
福音とは、トラーに書かれた全てが福音なのです。
イエシュアが言われたでしょう。トラー、預言書=わたしその
ものであると。トラーを寝ても覚めてもいつでも思い巡らして
生きよと。命の木をしっかり握り離すなと。
トラー、預言書に書かれた”イエシュア”が来られる事、ユダヤ人達は、皆毎年毎年、神の記念日の”エルサレムへのみやこ上りの祭り”をする度に、待ち望んでいたのです。
ローマもそれを知っていたから、過越の祭り、仮庵の時は常に
厳戒態勢だったのです。ユダヤ人達が救い主を迎えて暴動を起こすかもしれないかと考えていたからです。
1世紀以前の古代も、まだ見ぬ”イエシュア”の詳細の全ては
トラーに書かれているので、アブラハム、イサク、ヤコブ
イスラエルの神、イエシュア、それをヨセフも、ダビデも
皆同じイエシュア=ユダヤ人の救い主、イエシュア ハ マシアを知っていたのです。
知る=頭で知識として知っていると言う意味ではないのです。
”ピカソ”知ってますと言っても、彼の作品や経歴を知っても
それは個人的にピカソと言う人と、知り合いでは無い、親しい
関係を持っていないと言う事と同じです。
救い主がどんなお方なのか、哲学知識として知っているのでは
なく、2000年以降と同じ、個人的な関係の中で関係を結んでいる意味での知ると言うことをどの時代の人もしているのです。
救い主と”関係”=ブリット=婚姻契約の中の裏も表も知り尽くす親しい間柄で知っていると言う意味で書いてあるのです。
続く