世界中の多くのユダヤ人が救い主に出会っている 同じ神の同じ記念日を異邦人も祝い始めている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

夏祭り、お盆、お墓参り、お彼岸、大晦日、新年、節句、

豆まきetc

日本人なら誰でも知っている、生活の中でずっとやって来た

祝い事、行事、記念日。

日本人として日本で生活しているなら、誰でも幼い時から

こられの記念日を祝っていると思います。

教えられなくても、何なのか分かる。

生活の中で実際にやる、体験して来ているものだからです。

 

神の国、天の国の家族の記念日、生きて”福音の全て”を体験する記念日を、神が創造の初めから神の子らのために造られて準備し、それらを”永遠に祝うように”と神の子らに伝えられました。

シャバット、ローシュ ホデッシュ、ペサフ、シャブオート、

ヨム キプール、スコート。

これらの神の記念日の意味の詳細を学ぶ、実際にやって生きて

行くと、飛び出す絵本の様に福音の真髄、エッセンスが見えて

きます。イエシュアそのものです。神の完了の業、新しくされている人=義である事実、そして預言的記念日なのです。

 

きよめのサイクル。ダビデが語っていた”義の道”を歩むとは、

神の記念日から記念日を”新しくされた人”の事実を自分の中に

獲得、習得、体験して行く道のり、その事を話しているのです。

 

これらの神の記念日が一体何なのか、ヘブライ人である

救い主”イエシュア”が祝っていた、イエシュアの弟子達、

信者達が祝っていた聖書に書かれた神の記念日が何なのかを

ずっと知りませんでした。

 

救い主、イエシュアを知らないユダヤ人達は、分からなくても

イスラエルの、ユダヤ人としての文化の中で、これらの記念日を祝っています。

そうして、ユダヤ人がイエシュアに出会うと、これらの記念日の

全ての意味がたちまちクリアーに飛び出し、1つ1つが全部

繋がり、福音を網羅しているその意味がはっきり見えてくると

言います。神の記念日は、イエシュアそのものである事が

理解出来る。

 

そして、創世記から黙示録は1つ、同じ福音であり、

パウロが語っていた教えは、別の教えなんかでは無い、

アヴラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神の永遠に変わらない同じ1つの福音であると皆言います。

 

トラーをずれないで、きちんと学び、知っているユダヤ人なら、誰もが、19世紀に出現した様な異邦人がヘブライ聖書を知らないまま作り出した教え=神学=別の福音がイエシュア昇天以降に出現したなどと聖書に基づきそれらの教えが聖書では無いと

はっきり言います。

 

これが大きな違いだと思います。トラーをヘブライ語聖書から

直接知っている、学び続けている。これは大きな違いです。

異邦人は普通はヘブライ語のトラー、預言書など読めないので、

翻訳だけを読みます。だから、聖書ではない教え、神の言葉を

捨てよ、終わり、呪い、律法などと言えて、簡単に別の福音に

聞き入ってしまうのです。ヘブライ語のトラーを知る人なら

聖書に照らし合わせて、何が偽の教えなのか見えるのです。

 

ユダヤ人、ヘブライ語聖書だけを読んできた人達は

必ず言います。”自分たちのヘブライのスクリプチャー=

聖書の言葉に照らし合わせて救い主が本物なのかどうか

徹底的に調べる”と。

救い主に出会うユダヤ人達は、皆ヘブライ語聖書、トラー、

預言書を調べ、福音書以降に書かれているそ救い主が本当であるか確認しているのです!

そうすると何と言うと思いますか?”ヘブライの聖書、トラー、

預言書とぴったりである。福音書〜黙示録がぴったり

トラー、預言書と同じ!”と言うのです。

別の福音、新しい教えなど聖書には書いてないからです!

 

その作業をして、あの2000年前にイスラエルに来た

救い主が、トラー、預言書の救い主である確信を得て

ユダヤ人はイエシュアに出会うのです。ここが異邦人との大きな違いです。

 

ほとんどの異邦人は、聖書の事実ではなくて、人の教え=神学を

通して教えられる教えを聞いています。聖書の講義を、

聖書に書かれた内容を、人の教え、聖書とは異なる神学を通して聖書を解説されてしまうからです。そしてそれに気が付かない。

なぜ?元=ヘブライ語のスクリプチャーを知らない、トラーを

知らないからです。

 

だからユダヤ人だけの教えとか、ユダヤ人だけがやれば良い

祭り、記念日と言うのでしょう?そんな事聖書に書いてないです。創造主の記念日=わたしの記念日と書いてあり、

イスラエル=イスラエルとイスラエルの神の契約に加えられた

異邦人は永遠に神の記念日を祝うようにと書いてあるのです。

 

私自身も、歴史の途中で、神の契約、教え、記念日が変わって、イエス様を信じた人はもうそれらを祝うべきでは無いですよ

恵みを捨てた生き方になるよと教えられてそうなんだと信じていました。

教師、先生に教えられたら、それが聖書であり正しいと考えて

しまうのです。私の場合もヘブライ語聖書を知らないかったので

そう思っていた。。

福音では無い、聖書では無い神学は大衆を通して教えられるのではなく、少数の教師から大衆へ常に伝えられているのです。

 

ニュースと同じで、1つの出所から出た情報なのに、

それが真実だと思わされて信じてしまう事と同じ効果、

作用があります。嘘でも本当だと信じさせられてしまう。

 

でもそれって聖書に書かれた神が伝えた事実ではではなかった

のです。どうして分かったか?ヘブライ語聖書にはそんな事が

書いてないし、ヘブライ語の言語を見るだけで、明らかに分かる

数々があるからです。

そして、異教の神々の教えが浸透している異邦人の思索、概念とは全く違うことが聖書に書いてあるからです。

 

ユダヤ人はヘブライ語の聖書に戻り探り、福音書以降が

トラー、預言書とぴったり同じだと言います。

でも異邦人はヘブライ語聖書に戻り確認出来ないので

その事実が分からないだけなのです。

しかも、人の神学や教えや、曲げられた翻訳、誤解されている

臭い聖書箇所など、聖書とは違う解説を刷り込まれているので、

気が付けないのです。

でもこれが今逆転し始めているのです。

 

今ヘブライ語聖書を知る、ヘブライ語聖書から救い主に出会う

事をした多くのユダヤ人達が、アメリカやヨーロッパ、世界に

居る異邦人クリスチャン達に招かれて、曲げられてしまった

聖書の事実、聖書に書いてある本当の事、1つの福音、

1つの契約である事実をヘブライ語聖書から解説、伝えて

いるのです。

 

聖書の事実を曲げようとするなら、どうにでもそれは出来ます。

書いてあるのに違う解説をする。永遠と書いてあっても

2000年前までのテンポラリーな教え、もしくはユダヤ人だけの教えと言う人の教えもそれです。神が神の言葉は永遠であると語る神の言葉を否定しているだけってことなのです。本当は。

 

昨晩のシャバットの晩餐で、同じく出エジプト31を読みました。シャバットでも出エジプトを覚えて記念すること。

出エジプト=奴隷から贖い出された事実をずっと思い出して

自分の過去の状態、神の贖いの業を日々忘れないで生きていく。

 

出エジプト 31:12 主はまたモーセに言われた、

31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、

『あなたがたは必ずわたしの”シャバット<第七日目>”を

守らなければならない<ガードする、塾考する、評価、尊重、敬意を払う、参加、やる、etc>これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

 

週の第一日目から第六日目までが労働日と聖書には書いてあります。もちろん、イスラエル以外の諸外国は創造主を知りませんから、神の言葉の事実を生きない文化なのです。

だから、その異教の神々の国々では、第七日目にシャバットとして止まると言う”概念” ”意識” ”習慣”も無いし、

イスラエルの神を知らない、信じてもいなので、その日を創造主の記念日として祝い日だとしてやらないと言うだけです。

 

神の教えは、諸外国の文化や法律の中では認められなくても、

神の国の中では、永遠に変わらない事実、インストラクション、”教え”なのです。

 

続く