言い伝えの解説が聖書の事実であると誤解している聖書箇所の
続きです。
聖書を誤解して解釈する原因は、色々あります。
歴史の中で人の作り出した教え=聖書=神の言葉を否定する
終わりであるとする教えを、神ではなく、異邦人が作り出して
行ったのに、それがいつの間にか神が変えた、イエスキリストが変えた、でも聖書を読むとそんな事書いてないので、パウロが
神の教えを変えた、使徒達が神の言葉を否定した、変えたと
言う事にされてしまっている事。
第二は、聖書を翻訳からだけ読んでいる事。
翻訳の中に、神学を作り出した人が、自分の仮説を証明するために、聖書にはそぐわない、存在しない、でも神学に合った造語や、原本に無い文章や言葉を挿入されたり、又は神学に都合の
悪い箇所を削除したり、言い回しを変えてしまったりした事。
創作聖書を作ってしまった事。
そして、神の言葉が2000年以降には無効になったと言う教え=神学を土台に聖書を読んで、解説しているので、聖書とは違う
解釈、理解をしてしまう事。実は聖書を誤解している問題の
根はシンプルなのです。
でも、長い歴史の中で複雑な数々の要因が絡まり、進化論と同じく、一度真実では無いのに、真実だと思い込まれた教えが世界に流通、浸透してしまうと、その誤解=錯覚=幻想を解くのは
大変困難である事。
情報が流れるより、不真実な情報を訂正する方がどれだけ大変な
事であるのか。偽の噂を消すのは大変でしょう。それと同じ。
名誉毀損で立証されても、その人に誤解がずっと付きまとってしまうのと同じです。
一旦事実に気がつき、聖書の事実だけを繋げて行けば、
神の言葉に関する誤解は解けるのです。
誤解=神の言葉が途中で無効になる、永遠では無いと言う誤解。
神の言葉の真実を見て発見出来たら、不真実が見えます。
だから、聖書だけに戻り確認すれば良い。
聖書では無い事、内容をいくら語っても、解説してもそこには
真実は無い。とてもシンプルな事実なのです。
まずは、マルコ7章、使徒10章に行く前に、こんな教えを一般的に聞いているのではないかと思うので書いてみます。
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ユダヤ人達は、いや2000年前の信者達は全て、キリストの
十字架の許しが有効になる前の一時的な教え=律法を厳守して
生きる事で神の前に、義と認められる事に必死でした。
律法=旧約聖書を生きる事を、律法主義と言うのだと信じられています。
イエス キリストが昇天した後は、古い呪いの律法から解放され、新しい時代の幕開けになり、2000年前から聖霊が人の
中に初めて住まう様になり、今までの教え=律法=モーセの五書や古い聖書の箇所の教えは無用。
一言告白するだけで、何でも許される様になり、今までの面倒な動物や植物の生贄もなくなり、律法は無効になり破棄されました。
イエスキリストを信じる人は、以前の様な呪いの律法を生き
続けるなら、それは神の前に恵を無駄にする生き方とみなされて
神に失礼な生き方をする事になるのです。
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律法=モーセの五書、古い聖書の箇所は呪いなので、今までの
教え=神の記念日、シャバット、過越、仮庵の祭りなど、
神が永遠にガードしてと言われた記念日を全部無効とみなし、
呪いの律法の記念日としました。
それは、4世紀以降にローマ皇帝により編み出された、
新しい安息日です。霊の奥義が初めてローマ皇帝により示されたので、安息日は、実は主は何曜日に復活したのか聖書には書かれていないので不明ですが、”復活”を記念する日を安息日としました。安息日の意味は消えました。
今までの既存のローマ帝国の記念日、王=主を崇拝し、
地場宗教の太陽神を礼拝する日にちなんで、同じ第一目にする
事で、大衆に新しい宗教がすんなりと受け入れられるためにも
都合が良いので、安息日を日曜日に変更される事にしました。
神の言葉が終わった、異邦人にはモーセの五書は無用とは実は、聖書のどこにも書かれていませんが、神はローマ皇帝や
その他西洋人、異邦人、ユダヤ人では無い、聖霊に満たされた
異邦人=西洋教父達、神学者を聖書の預言者のごとくに用いて、今まで明かされなかった聖書の奥義を明らかにし、伝え、
今まで聞いて来た様々な聖書の古い呪いの律法である教えを
ほとんど否定し、終わらせ、新しい教えを伝える役割を
与えました。
今までの古い生き方=モーセの五書=それに付随する書に書かれた生き方を止める事は、呪いの終わりの教えなので、神の御心
なのです。
だから、聖書には書かれていないけれども、新しい契約=
トラーを捨てて、終わらせる教えを異邦人が神学を通して
編み出し、その聖書には無い教えを2000年以降の新時代は
生きる、それが霊に導かれる新しい生き方、恵の時代なのです。
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実際にクリスチャンの世界では、こんな感じで信じられているのが一般的ではないかと思います。
実際に信じられている事を言葉にして書いてみると、本当に
聖書とはずれていることに気が付くと思います。
マルコ7章、使徒10章の箇所から、レビ記11章の食物に関する
神の教えが変更になった印である、証拠である事が書かれているとされる箇所に繋がる食べものに関しての教えなのですが、
その前に多くの混線、誤解があるのでクリアーにして考えて
行きたいと思います。
聖書で、律法主義とされる生き方は、律法=トラーを生きると
言う意味では無いのです。辻褄合わないでしょう。
イエス様が言われた言葉を元にすれば。
”わたしを愛するものは、わたしの言葉=トラーを愛して
生きる”と言われた主の言葉は一体どう言う意味?と自分で
考えたらわかります。言葉=トラーとはトラーを知らない
異邦人にはそれも分からないのですが、父の言葉、仰せ、
定め、戒めetc etc全てトラーの教えをさして主は語られているのです。
もし例えば東京のある区に住むとすると、それらの場所で生きる
事に関しての様々な取り決めがあります。
それらの取り決めや、細かい協定は一体何のためにあるので
しょう?人と人が、お互いを破壊しない、損害しない、不快にしない、迷惑をかけて関係が壊れたりしないため、安全に、協力し
合って、助け合い、和を保ち生活するためだと普通に考えると
思います。
それを、自分だけは自分独自にインスピレーション、その日の
気分、感覚、又は霊に導かれて自由に生きます、人としての
ルールや生き方なぞ関係ないのですと、勝手な事を一人一人が
言い始めたらどうなるでしょう?それこそが無法地帯でしょうね。秩序は乱れ、混乱します。そんな場所に住む場合は生きた心地がしません。
ある国は、もう本当に無法地帯状態の場所があります。
大都市で、全く子供は外に出て遊べないほど危ない。
物を置けば一瞬に盗まれる。誰も信用出来ない。
自分の命も狙われる。安全では無い。そんな場所に住みたくない。生きた心地がしない。
そこは、人間が住むような状態では無いでしょう。
聖書は、神の言葉は、一体何のためにあるのか?と言うことが
まず分かれば見えます。
人のため。人が生きるため。神のデザイン通りに生きるため。
デザインから外れたら傷つき、痛む、破壊されるからです。
シャローム=欠損が無い状態、本来の関係、エデン=喜びから
飛び出さないため。そんな複雑な事では無いのです。
クリスチャンは、今は恵の時代ですと言います。
つまり、以前2000年前までは恵が無い時代と信じています。
でも神が解説されている事実は、2000年以降初めて神の恵を
生きる時代がやってきたのでは無い事が書かれています。
始めから神は、永遠から永遠に恵の神と紹介されている
のでしょう。そうすると人の主張と神の主張がずれている事に
気がつけます。パウロが今は恵の時代と言った言葉は、
今まで神の恵が無かったなんて話しなどしている訳が
無いのです。
一人一人、どの時代でも、本当の創造主に出会い、繋がり、
贖い出された、救われた事実を知り、本物の自分の本物の人間の生き方を知るまで、”恵”の命を生きられる事に気が付いてなかったと言う事をパウロが話しているのでしょう。
救われて、主に出会ってその恵をいただいている事に初めて
気が付いたのでしょう?だから、救われている今は、その人個人に訪れた恵の時と言うことです。
その人にとっては以前は、神の恵を生きる=義とされている本物の自分を生きると言う事をしていなかったと言う事です。
続く