神の言葉の価値、意味、真実、実態を人間が引き下げてしまい
ました。
神であるお方、私たち人類と、動物、生物と、この世界の被造物全ての”唯一のクリエーター”創造者”が神なのです。
その神の創造物に対して、又神、神ご自身であるイエシュア=
トラー=言葉を、人間が塗り替え、再定義してしまいました。
ユダヤ人の神に対する意識は、異邦人とは全く違います。
人の教え=神学が編み出した教えに洗脳されて、神のトラーは
律法で呪いであると教えらえ続けてしまえば、知らない間に神とそして人との隔たりの壁、イエシュアが壊したのに再び壁を作り、異質、異物の神像を刷り込まれてしまったのです。
そう言う人間の教えに洗脳されていない、直接ヘブライ思索で
ヘブライ語聖書を読む人達は、こう考えるのです。
神の仰せを今日も生きる事が出来る幸い、祝福、恵を本当に喜ぶ。
神の仰せを今日も生きれるチャンスを、神から与えられていると言うのです。神の言葉を生きる=祝福だからです。
誰でも、体験するでしょう。誰かに親切にする、優しい言葉をかける、励ましを与えると、響いて返ってくるものは、満足、
暖かい気持ち、交流。でも不親切、無視、冷酷な事をしたら
後から後悔、嫌な気持ち、苦しみ、悲しみに襲われるでしょう?
相手も不愉快です。神の言葉に反した生き方は命を幸いを
エデン=喜びを生み出さない。
神のデザイン=言葉=性質=に沿って生きるか、神のデザインに反して生きるか?人間の生きる神が作ったデザインの詳細、実態は神の言葉=トラーを生きる事なのです。
全く違う意識で捉えている神の言葉。
神が人間に厳しい、面倒な律法を、説教を垂れていると考える
意識で神に対する人達と、神の仰せは何よりも麗しく、蜜の様に
全身全存在に甘く慕わしいものと捉えている人の神との関わりの
違い、関係は違います。
神の言葉を、呪い律法と考える人と、神の言葉を目に見えない
神と直接繋がる術と考える人の神との関わりは、全く違うものになるのです。呪い、律法だとしたら、神の仰せ、言葉を生きる事は呪いの姿になりますよね。ダビデが賛美している内容は
全て、神のトラーを生きる幸いを書いてるんですよ。辻褄合わない教えだとそこでも気がつけるはずです。詩篇、箴言を読む人は。
怖い上司、厳しい、見張りをしてコントロールしていると考えるのと、私たちの存在を大事に考えてくれて、最大限に安全を守り導く人と考える関係の世界は違うものになります。
神の価値観は、神の言葉=トラーの中に詳細として記されています。福音書から黙示録迄の中には、神のトラーの詳細は、
本当に”あらすじ”程度にしか書いてありません。
そのあらすじで表されている内容の詳細は、トラーに書かれていて、そのトラー=神の価値観、神のインストラクション、教えに反する危険な生き方をする人達への警告が預言書であり、
日々の中でトラーの実際を生きる知恵が、詩篇や箴言の諸書の中に記されているのです。すべての聖書記者は、トラーを語り、
トラーの真理を土台として聖書を書いているのです。
福音書以降を書いた使徒たち、その書簡もトラー100%土台
内容にどこの箇所も、互いに相反する事何もなく、トラーを
書いているのです。
人は、神の言葉を変えて、その価値を薄め、下げて、自分の編み出した教え、主張=神学で、神の言葉の真意、意味をすげ替え、すり変えていく事を歴史の中で繰り返して来ました。
それが預言者達の警告である事は、預言書を読めばはっきり
分かる内容です。はっきり何を人類へ警告されているのか書いてあるから、分かるのです。
書かれている歴史背景や、時代の出来事、何を神が警告しているのか、分かれば気が付けます。トラーは永遠普遍だと。
トラー=イエシュアである事を。警告=神のトラー=イエシュアの実態を捨てて生きたら危険。
でも神学は、トラーは呪いで終わりで捨てるものと教えてしまいそれが異教徒世界に育った異邦人信者達が、聖書の真理であると、本気で信じ受け取ってしまって、その神学が世界を駆け巡り、浸透してしまい、今があるのです。1世紀の信者はそんな事考えたことも、聞いたことも、トラーを捨てた別の教えを生きたことも書かれていないのです。
創造の始めに神が神の記念日を設けました。
神が疲れたから7日目に止まり休んだのでは無いのです。
全ての業が完了した。だから、後から作り出し付け足すものはなに1つないのです。創作し続ける事が無くなり、止まったのです。手を加え続けたら、永遠に自分の手から離れて、独立して
向き合う本当の関係の世界に人と神が入る事が出来ないことになります。神の手を離れて完了しなければ、全て創造物は神の
操り人形になってしまうからです。
ヘブライ語聖書の言葉の中では、明らかに
見える事実がたくさんあるのです。
始めからイエシュアが居られる事実が書いてあるでしょう。
だから2000年前に突然新しい種類の救い、贖い、助け、
恵、霊が出て来たと言う人の目から眺めた神に対する考え方は
聖書とは全く異なるものです。
なぜなら、神は永遠から永遠に存在し、制限など何も無い
時空を超えた存在だから。
しかも、神の性質は途中で変わらない、イマニュエル=人と共に
住まう神、過去、現在、未来、変わらない=在りて在る、
アレフでありタヴで在るとちゃんと神の性質=名の中に事実が
書いてあるからです。
7日に止まられたと言うことがまずシャバットの事実です。
そして神が創造物=人との関係に入った”印”婚姻契約の印と
書いてあります。それを人が捨てると言う事自体が、変だと
思えば見えて来ます。
婚姻関係の中で一番大事な日を捨てよと教える人間の教え。
そして、神の創造と重ねて考えてみてください。
神と同じく、人は6日の間労働する様にデザインされました。
現代の世界は、異教の国々では神のトラーに沿って生きませんから、いやイスラエルでもある職種は、土日関係なく交代で
スタンバイしないとならない職場があります。
その例外は外して、神のデザインは7日目に止まる。
イスラエル以外ではそれをしていないから、それで神の言葉が
現代無効になったのでも無いし、イスラエルだけの教えでも
無いのです。人間であるなら、この日はとても重要な日なのです。そう認識出来ないだけで。
WWJDと言うのに、どうしてイエシュアがトラーを生きたユダヤ人である事実を認めないのだろうと思います。
神と同等、人も6日の間労働する様に、神からデザインされています。神を知らない人たちも1週間は7日で過ごしていますね。
そして、夕が来て休み、朝が来て起きる。
人が生まれて育ち、またその人が子を産み、歴史が繰り返される。命が引き継がれて行く。神を知ろうと知るまいと人は
神の造られた世界のデザインを生きる事実があるのです。
だから、目に見えない神の性質を生きるとは、神の言葉を
生きる時に最大限に現れる事実に目を留めて考えれば
真実が見えて来ます。
人は神の栄光を生きる特権を与えられているのに、その祝福=トラーに祝福の内容、詳細、奥義の全てが書かれているのに、
読まない、学ばないので、その神の語る人の生き方のインストラクションの詳細を、知らないまま否定して壊して行きました。
何事も神のエッセンス=神の言葉で書かれた実態に逆らえば不具合が生じるのです。
同性同士では、子供は、命は生み出せないでしょう。
神のデザインでは無いからです。シンプルな事実です。
続く