人は、神の言葉が何故与えられているのだろう?と言う問いが
あります。
それは、神の言葉が与えられなければ、私たちは神がどんなお方で、人はどう生きるかの基準が何も無いからです。
腹に書かれたトラーでぼんやり分かるけど、どうしてか?が
分からないし、自分基準、判断、判定、定義の生き方に擦り変わってしまうからです。
それは、人の命が安全に保護されるためなのです。
だから、永遠普遍の神の言葉、創造の最初から神の口から、
口頭で伝え続けられた神の言葉=トラー=教え、インストラクションを文字で記したのがモーセの五書なのです。これが
神の家の”経典”==家訓、神の子らの生きる国の憲法の全てが
書かれています。その全ては、人が神のデザイン通りに互いの
命をガードし合い、シャローム、欠けの無い状態で生きるため。
古代と現代でどうして信仰内容や教えが変わってしまったのか?
もちろん古代は車、飛行機は無い、移動手段も違う。オーブンも
ガス台も洗濯機も無い。そう言う違いはありますが、
同じ人間と言う基本は何も変わっていないのです。
国や人種が違っても、人は同じ人間なのです。
神の言葉の中身、信仰の内容が変化した教えがあるのは、
それは歴史の途中で人間の教えが造られて、それを混ぜて取り入れたからと言う単純な理由なのです。
だから7日目が1日目に4世紀にローマ帝国の会議で決められて
しまったから、今は1なのでしょう。
イスラエルは、変わらず7のままですが。
現代のユダヤ人、ユダヤ教の中にも、捕囚時代、バビロンなどから取り入れてしまった”オカルト的”な教えが入っている。
トラーではなく、彼らの作った口頭トラーが基本。
しかも、それぞれの宗派のラビの考え以外をしてはダメであると
教えられるのです。
古代カバラー。神秘主義。恐ろしいオカルトには、足を踏み入れないと言うユダヤ人もいるくらい。つまりあの偉大なソロモン王も最後は、異教の神のオカルトなどに汚染されてしまうくらいだから、神の言葉からずれて、別の教えを取り入れる危険がちゃんと聖書に書かれています。人が作るもの〜イズム=宗教。
純粋な神の言葉に人の教えをプラスアルファする、又は
神の教えを削除する事をする、これが問題なのです。
しかも、約束の地に入ったら、神が助け導き出して、全てを与え続け、祝福し続け、その地に連れられて来た事、必ず忘れると
申命記で大警告されている事から、ちゃんと神のことばを捨ててずれて行くイスラエルに対して、神は預言していたのです。
そうするとどうなったか?約束の地から追い出される、
退出させられた。
エデンの園を飛び出した事と同じ事が起きる。
そして、敵に迫られ、危険が迫り、雨が降らず、収穫が無く
神との関係が遠くなる。混ぜ物の神々の教えを身に取り入れ続けている結果です。そして困る。何故?そこまでしないと、
トラー=神の婚姻契約からずれている危険に目が覚めないから
とあります。
日本語、英語で聖書を読んでも、どこでどう神の言葉が終わったと書いてあるのか福音書から読んでみると、そこに書かれている
内容は全く本当にヘブライの世界が書かれています。
イエシュアが言われた父の言葉とは、トラー=婚姻契約、
モーセの五書です。父の口から直接モーセに語った言葉=父の
言葉。それをイエシュアが人に語っています。
父が言われた事以外は言わないとまで言っている。
父の言葉を伝えに来たと言っている。
古代のヘブライ人には、父の言葉=モーセの五書とはっき〜りと
聞こえて分かる。でもその解説の中身が当時のラビたちの解説とずれているから、それを教える教師たちには、うさんくさい、
神に対する冒涜をする人が来たとしか思えない。
同時に、目が開かれる人たちは、イエシュアが語っているのは、
父の言葉=モーセの五書の天国バージョンの解説だと気がつき、
トラー、預言書に書かれた来るべき救い主がこの方だ!と
確信を得たのでしょう。
もしイエシュアがトラーを否定する、父の言葉を否定する教えを
編み出したなら、もうそれこそ本当に追放されるべき教え、
教師、偽預言者でブーイングです。
でも彼ら、イエシュア が救い主と見えない人は
別のブーイングを飛ばしたのです。同朋、故郷に来たのに
その人たちから拒絶されたとある通りに。
でも、トラーが父の言葉である事を拒否すると言う事自体
逆ブーング。イエシュアを否定する事である事に気がつかないと
ならないはずです。両者が今目覚め始めている。
神が事を起こしているからとしか言いようが無い事が世界で
起きているからです。神の時が熟して、2つの別々に別れた人たちが1つになる時がやがて来るからでしょう。
シャバットは人が作った記念日ではなく、神が創造の始めから
設けた記念日です。その日は第七日目です。これは永遠に変わらない。
どうして七日目のシャバットを忘れたの?いや忘れたのなんかではないのです。
はじめから神の記念日がある事すら、教えられませんでしたから。知らなかったと言うのが異邦人には合っている表現です。
ネヘミヤ書のユダヤ人達は、神のトラーを知っていたのに
捕囚の地で親からトラーを教え続けられず、神の記念日、
シャバット祭りを忘れて祝う事さえしなかった。
異邦人は神の記念日が本当は聖書ではいつなのか、教えられて
来なかった。この違いがありますが、両方、神の記念日の意味
永遠の重さ、ヴァリューを知れば、無視して生きる事が
どれほど損失で嘆き悲しむべき事なのか見えてくる。
この日は主が造られたと詩篇で歌われるのは、神の記念日。
シャバット、神のモアデイムです。
この日は主が造られたから、これを楽しい祝い、喜ぼうと
ある通り。
この日、シャバットが始まる前に総勢10人で地中海に行きました。アシュドッド。サーファーがたくさんで最高の波。
もちろん泳ぐには寒いので、水には足だけ浸かりましたが、
みんなで海辺でドリンクを飲み、楽しく談笑。
イスラエルに来た始めから知っている友人と、友人の家族が
ヨーロッパから来ていました。
みんなでシャバットのハーラーのパンをいただきます。
友達とわいわいガヤガヤ、犬も猫も子供も大人もシャバットの
晩餐を楽しむ。それぞれがそれぞれに人生の季節、課題を
通る。でも今日は止まる日。
互いを祝福し、神を祝福する。イスラエルの祈りは
神を祝福する祈りがある。とっても良いです。
SHABBAT SHALOM