イスラエルでは、金曜日になると、いや木曜日あたりから
シャバットで止まる準備モードに入ります。
金曜日の三時にはスーパーなど閉じますし、郵便局も、銀行も
もちろん業務は休みです。でも、ロシア人の店や、観光地などの店、レストランは開いています。
学校は、半日だそうです。そうすると基本、丸々二日休みの人の方がイスラエルでは少ないのです。
以前の日本も土曜日半日学校があり、日曜日だけが丸々休みでしたが、いつからか土日が休みになったのです。
私は、救い主を信じた後、聖書をまずは始めから終わりまで
読んでみようと思いました。分かりずらいけれども。
自分で聖書をちゃんと読む、聖書の中に答えが全部書いてあると言う事を始めに教えられたからです。でも教えられた、聖書に対する考え方、中身は、西洋神学を通した教えであったのですが。
聖書に書いてある事が、神の言葉で、自分の生活を生きる知恵、人生を導く上での答えがあると言う事は始めにインプリントされたので、疑う余地はなかったです。
何故始めから読んだのか?途中から読む事自体が不自然だからです。途中から書物を読んだら、前に書いてある事が分からないまま読む事になると言う事は当然の事です。
しかも、ちゃんと1つの書を全部読まないと、抜粋では前後の
脈略が全く分からないから想像で適当に推測してしまう事に
なります。しかも翻訳の翻訳だったりする場合は、ますます
見えない。でもとりあえず読んでみる。
そうすると分かるのは、流れが1つ、同じ事を語っている事が
分かります。先入観が無く、下知識が何も無いあの当時聖書を
読んだ感想が、一貫している、1つに繋がっている、それが
分かりました。
そして、当時は進路選択をしなくてはならない時期だったから、私への神のプランて何だろう?神に聞いてから決めたいと
考えたからです。それには聖書読んで、神に聞いて、私がどの
道に進学したら良いのか知りたい、教えられなくてはと、
単純に考えたからです。その結果1年を通して、思いがけない出来事が起こり続け、<試練と希望の両方を通過>思いがけない道筋がひかれていて、必要な人達に出会い、将来進む道の選択をする事になりました。最初の信仰生活の1年目は、大きな出来事と
導きをどう捉えるのかの実体験、実践の世界でした。
もともと日本で生まれた日本人です。先祖は遡れば何世代先は、
きっと皆日本人は渡来人で混血なのでしょうけれど、
自分の知る何世代前までは、日本に暮らす日本人です。
ユダヤ人だって、世界に散って行った。日本に渡来した形跡が
あるのですから。
でも思考回路の土台は、日本と言うヤオロズの神を受け入れる
全く異教徒思考です。だから、天国地獄、極楽浄土、仁王様、
天罰、バチが当たる、などと言うコンセプトがどっしり頭に
入り込んでいる。まあ基本、神々に何かせんと、叱られる〜
呪われる〜の世界が刷り込まれている。偶像礼拝の意識の世界。
そして、西洋文化が明治維新以降どんどん入ってくる様になった日本は、他国の文化なども取り入れて来たわけです。
幼稚園時代にミッション系の幼稚園で、サンデースクールに
行っていたのですが、親が”あの宣教師と言うのは、
西洋の宗教の宣伝をする人なんだよ。”と言っていたのが
とても印象的でした。今なら”違うでしょう。救い主は、
西洋=ヨーロッパ、アメリカ=ローマではなくて、
ヘブライ人でしょう。”と言える。
以前なら、”アメリカかぶれしてるね〜”とか、別の文化や習わしをすると”何々かぶれている”と言う言葉で表現されていました。
昔は輸入品を舶来品と言い、トレンデイ、先端流行などと言う
言葉は、ハイカラなどと、終戦直後の人の使っていた言葉と、
現代とではまるでボキャブラリーが違います。
しかも今の10、20代の若者が使う言葉も本当分からないと言います。若者の間で使われているネット言葉や、流行り言葉が
分からない。
同じ日本人とて、現在でもコミュニケーション、言葉にギャップがある。
古代日本人と今の日本人の暮らしや、習慣、言葉も大分違うで
しょう。20年前位、海外に居る日本人小学生に”ホウキとか
はたき”と言ってもそれが何か分からない、日本の幼稚園で歌う童謡が分からないと言っていました。教えないと分からない。
生活の中に無いものだからです。
その時代に日本人が大事にしていた事柄、現代情報社会の中では、簡単に分かるのに、古代のその時代は、人が信じて伝えた
迷信を信じて生きていたりと、その時代の特徴があります。
聖書に書かれた世界も今から何千年前の書、言葉。
福音書以降も2000年前の古代、
しかも輪をかけて全く異文化、外国の世界の書です。
中東のヘブライの世界で、古代のヘブライ人に理解出来る
ヘブライの文化が背景にある内容、ボキャブラリー、当時使われていた言葉で書かれているのです。
それを、現代人に、一言”聖霊”に教えられたら全て分かります
からと言うのは、無理があり飛躍があり過ぎです。
第一、霊に導かれればと言う切り札的言葉は、危ない側面があります。神の言葉と言う基準に照らし合わせる事が無いならば、
なんの霊に導かれているのかさえ分からない。
異教の神々に仕える人と同じ、別の霊に導かれている事に
気が付けないかもしれないからです。
だから基本は、神の語られている言葉を、語られている意味、
その通りにまず知る事は不可欠なのです。それが有って初めて、その正しい情報を元に、聖霊が教え導く事ができる、色々な
側面、深さに入って見る事が出来ると言う事です。
そうでなければ、自分の空想=聖書とはずれた考えを土台に
考えれば、正しい事に導かれようが無いです。
もし聖霊に導かれたら何でも分かると言うなら、学校へも行く必要も無いし、調べる、学ぶ必要も無いし、教師も専門家も要らないと言う事になります。
聖霊に導かれるだけで、どの分野の専門家にもなり、
特殊訓練を受ける必要もないと言う事になります。
外科手術も医学部出なくても、聖霊に導かれて誰でも
出来ると言う事を言っているのと同じになります。
それは神のデザインされた世界とは異なる教えです。
訓練、学習、実践を経て熟練されて行く。それはどの道でも
同じでしょう。インスタント思考と、魔法使いのマジックの世界と同じになります。
祈るだけで、英語もドイツ語も、フランス語もヘブライ語もマスター出来る。そんな事ありえないでしょう。
だから、アバ父は、”常にトラーを学び、思いめぐらせ”と言われたのだから。学ぶ必要がないなら、神がそんな事言うのは
無駄な教えでしょう。
ヘブライの世界は、”考えなさい”と言う世界です。
神が最初から、アダムとエバに質問を投げかけているでしょう。
預言者を読んでも同じです。何故神に問いかけられるのか?
人が神の問いに沿って、考え始めるためです。
信仰を持つと、とたん考える事をやめよ、考えると言うのは
悪い事と教えられる人がいますが、そうだと本当に危ない世界に突入します。霊に導かれるとは、自分の感覚、インスピレーション、ひらめきに合わせて行動すると言っているのかもしれない。
神の言葉に照らし合わせて識別する事を、人は何より神から
求められているからです。何故?自分の命をガードするため。
偽の教えに騙されて連れて行かれないためです。
続く