純粋な神の言葉を生きる ハヌカ最終日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ハヌカの祭りの背景にある、神の宮が汚された事件。

出来事の中心は、神の家、神の子らも、神の宮同等、神の目に

汚らわしいもので自分を汚染して、神の子の姿である事を忘れた事です。別物、異物を自分の中に、自分の思索に混入してはいけないと言う神の警告があるのに、ギリシャ帝国の勅令、死刑を恐れて迎合して、同化して行った事。

 

この点は、神の言葉は2000年前までは呪いで、2000年以降、

救い主が来られたら神の言葉は変わったと教えられている場合には、本当に見えない盲点であると思います。

神の言葉を捨てて生きる事が、恵の生き方と本気で信じている。

神の言葉を捨てる=それこそが、恵を捨てて生きる事なのに。

 

トラーを捨てる、トラーに書かれた神の言葉を生きる事を禁じる

神の宮を乗っ取り汚れた動物を持ち運び、神の聖なる祭壇の上で

豚を生贄として捧げるこの侮辱と、侵害。

黙示録の最後にある預言も、同じ事がなされてしまう事なのです。荒らす忌むべき=神の家にふさわしく無いもので、神の宮を

汚す事が再び行われる預言は、ダニエル書の預言、ハヌカの

背景にあったギリシャ帝国がなした事と同じなのです。

 

ギリシャ帝国に対するイスラエルの神への冒涜に対する抵抗と

異教の神々の習わし、教えに迎合、同化していくユダヤ人同胞達に危機感を感じたハスモニア家の勇敢な人達と、

それに同意、賛同し、参戦に立ち上がったユダヤ人。

 

どうしてそこまでしなくてはならなかったのか?

聖別の意味を知ると見えます。

異教の神々の世界にも、神の宮があり、神殿祭司がいます。

そして、異教の神々の神殿には、神殿娼婦も居ます。

多産を願う儀式を、神殿娼婦を通してする。

彼らも同じ聖別された人達。聖別=目的通りに沿って分かたれている。異教の神々に仕える目的で分かたれていると書かれています。

 

でも、イスラエルの神に聖別されている人達は、イスラエルの

神に造られた目的に沿って生きる事をする人達であると書かれています。

だから、異教の神々、別の神々に仕える人達のような生き方、

ライフスタイルとは分たれている事が書かれているのです。

異邦人には、全く馴染みの無い教え、生き方も書かれています。

ただただ異物としか、感覚的に思えない事もあります。

でも、異教徒の生き方を、自分の中に取り入れる事が出来ない

のは神の言葉に基づけば確実な事です。

 

それが聖書で書いてある聖別の意味なのです。異教の神々=

イスラエルの神ではない他の霊、存在=サタン。

それらの神々に仕える様な事、要素、又は生活習慣を自分の中に

は取り入れられない。

又は人間が造った教え。でもそれはイスラエルの神に属するものでは無いから、生きる必要が無い。生きたら神とは別の要素を表す事になってしまうから。

だから、異教の神々のものと、イスラエルの神とは共通点が

何もなく、交われないのです。サタンとイスラエルの神の違い。

 

人間的には、なんでもかんでも取り入れて、異教の神々に仕える人達の生き方を自分の生活の中に歓迎しても良い?と考える。

その方が角が立たないし、おおらか、寛容に見える。

でもその寛容さは、軽い、不逞を自分の主人に対してするのと同じ事と書かれている。姦淫の罪と、忌み嫌うと厳しく重い言葉で

書かれている。人間定義の寛容は、神の目からはご法度な事。

それは、神の言葉を聞いて無い状態、神の声の下に居ない状態、アダムが騙された時の状態と同じになるのでしょう。

 

姦淫の罪と言う分かりやすい言葉で書かれています。

一人の夫と婚姻関係を結んだ。だから他の男の人とは、

婚姻関係の内容では関わらないと言う事です。

そんな事当然でしょう?て思う。でもそれをイスラエルの神に対して、当然の様に生きていないのです。神の宮でありながら、

混ざり物、神の宮に取り入れられない数々をやり、生きている

事に気が付かないから。トラーに書かれた事が今は終わりだと

言う人間の教えを聖書であると、本気で信じているから。

神の目から見た何が汚れと言われているのか、ピンと来ない。

分からない。

何がイスラエルの神の言う”姦淫”の内容なのか、トラーを知らなければ、捨てれば、神の定義する”汚れ”の詳細が分かる手がかりがどこにも無いから、混ぜ物=姦淫の混濁を自分の中に取り込み続けるのです。福音書以降は、トラーの詳細を知る人達が読者で書かれているので、詳細はリピートして書かれていないのです。

だからトラーを読まなければ、福音書以降の内容がぼやける。

使徒15章のイエシュアを信じたのに汚れにまみれたままの

異邦人の生活習慣を続けて居た様に。

 

この世、異教の国々に生きています。隣近所は異教徒か、

そうでなくても、イスラエルの神の言葉を生きない人達に囲まれた世界に生きています。

その中で、隣近所の方と日常生活を争い無く、調和して生きますが、彼らの習わしや宗教の教えには、浸りませんし、迎合しないし、取り入れませんし、やりません。子供達を別の宗教の神々の

教えを聞かせて、汚染させないように気を配る。判断力の無い子供達、信仰に幼い人を混乱させないために。そう言う事です。

分かるようになれば、何を聞いても識別できるでしょうけれど、

騙されてしまう可能性がある場合には、要注意。偉大なソロモン王の結末は異教の神々の教えに混じった結果である教訓が

ちゃんと書いてあります。

 

いちいち説明などしないまま、異教徒の習わしをやらない。

どうしてそんな生き方しているの?ともし質問されたら、

分かる程度に説明はさせてもらう事はあるかもしれないですが。

 

神の言葉に応答した人は、救いの実態を受けた人たちは、

イスラエルと言うカハールに加えられた、だから実は神の婚姻契約に書かれた姿に賛同して生きますと言う同意をしたと言う事なのです。

そうで無い場合は、絶たれる=遠い場所に離れた状態になると

書かれています。異物、汚れを取り込めば、コミュニテイが

別もの、異教の神の要素で汚されるからです。

使徒15章と同じ事です。

あなたは命を選びなさいと、神が言われたら、命から切り離される生き方を敢えて選ぶ事は愚かである事が分かるはずなのです。

命の木からだけ食べなさい、命の木=トラーから手を離すなかれと書いてある通りに。

 

契約の民に加えられた人の生き方、婚姻契約の中に

書かれた”愛”=アハヴァの詳細をイスラエルで、又は異教の地で生きる、灯台の役割をしているのです。それが地の塩、世の光の定義なのです。

 

神の言葉が語るアハヴァはトラーに詳細が書いてあります。

1コリント13章に初めて書かれたのでは無いのです。

パウロの解説は、トラーに書いてあるアハヴァの

短いヴァージョンです。

 

”あなた自身を愛する様にあなたの隣り人を愛せよ” ”あなたの全ネフィッシュ=存在をもって神を愛せよ”と言いますが、

それってどの聖書箇所ですか?

レビ記19:18、34、そして申命記6:5 神を愛する=あなた

自身を愛し、同様に同じ度合い、質で隣人を愛する。

神を愛する人は隣人を愛する、兄弟を憎むものは神を愛して

いないと。それは全て、トラーから来ている言葉なのです。

 

申命記=古代中東の契約書形式、国と国が条約を交わす際に

使われたフォーマットそっくりそのままで書かれた契約書方式で書かれているのが、申命記です。その契約書は、婚姻契約書。

 

イエシュアの教えは、全部全て、トラーから語っている事に

さえ以前気がつきませんでした。地上で初めてイエシュアが編み出した新しい教えだと教えられたからです。仮説ですね。

イエシュアのたとえ話も、当時存在していた”例え話”、

パリサイ派の教育方法、教え方を例え話を通して、トラーを

語り、人生選択を提示する、

それを使ってイエシュアは、 人々にトラーの内容の生き方、

人生選択の問いかけをし、神の言葉を選ぶ生き方を教えていたのです。

主の祈りさえ、イエシュアが創作したものではないのです。

当時誰でも知っていた祈りなのです。何も新しい教えなど、

2000年以降出現していない、イエシュアはしていないのです。

 

続く

 

 

雲がたくさん浮かぶ冬の景色のイスラエル

 

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ラトケス。マッシュド ポテトで作るものはいつも作るのですが、これはシュレッドしたポテトとオニオンで私が作りました。この週末事件がたくさん起こりました。コミュニテイの親戚である20代の方の突然死。そして友人の姉のご主人のシリアスな

状態での病気入院。

そのお見舞いに皆が行ったので、家で夕飯作りをしました。

ハヌカのお料理のラトケス。なかなか美味しかったです。

そして、前日に作ってあったチキンベジタブルスープ。

白身魚のソテー。サラダとラトケス。

がっくりしている友人の姉にとって必要な夕食でした。

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ハヌキヤ。イエシュアもハヌカを祝っていた事をずっと

考えます。マカバイ戦争がなければ、イエシュア の家系も

全滅だった。でも、どんなにどんなに世界がイスラエルを潰そう、契約の民、その民に加わるイエシュア信者を潰そうとしても神が許可しないのです。

世界が向かう方向は、神のトラーを捨て、神の言葉を生きる事を禁じ、忘れさせ、神のデザインを塗り替え、汚染させる。

タガが外れて世界は、ますます暴走して行くのでしょう。

でも、どの場所にも残りの民、地の塩、世の光が存在して、

破れた戸口に立つ人の役割をしているのです。

 

毒麦のたとえと同じように、必ず救出されるべき人達が

周りに置かれている。光の子として歩みなさいと。

その実際の詳細は、トラー=イエシュア=神の言葉を生きる事。

 

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