イエスさまはシャバットで止まり心から喜び祝う事を教えていた 婚姻関係に在る印の記念日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

12月に突入しましたね。1年は瞬く間に駆け巡る。

大事にその日その日を生きたい。それぞれの人生の道のり、

シーズンは千差万別。誰一人として同じでは無い。

 

だから、誰かと比べても全く意味が無い。自分と言う命と、

自分しか歩めない道を一人一人に、神から与えられて、それで皆が居ると言う事だから。でも、命の出所は同じ。創造主、イスラエルの神が源=親。私は自然発生しました、又は、自分の意志で生まれたと言える人は誰一人として居ないでしょう。どの神々を信じていようとも、イスラエルの神に造られた事実は変わらない。神に造られた事実を知っているか、いないかの違いだけ。

 

神がこの世界を創造された事を、信じるか信じないかも、

関係無く、人が神に造られた事実はいつも変わらずにある。

 

それぞれ、同じ空間、場所、国、時に住んでいても、

それぞれが違う人生のステージの中を通っている。

神殿=神の家の中の、お茶の間=祭壇、究極の親しさ、

”近づく”コバーンを捧げる場所では、色々な人が周りに同時に集って居たわけです。誰かが修復をする時に、何を修復したいのか、何のずれをしてしまったのか、告白している内容を

近くにいる人も聞いている。

 

そこに集う人々は、喜びの中、悲しみの中、色々な状況がある。悲喜こもごも。それぞれがそれぞれの人生の中の季節の出来事の中を通っている。その内容は、その時それぞれ違うけれど。

 

そして、100%人類皆に対して同じ条件は、神に造られた人で

ある事。未来、いや1秒先は誰も知らない、予定は出来るけど、予測出来ない、不可能。そして100%、この世での歩みに

ピリオドを打つ時が来る。これは全ての人に等しく、同じ。

 

そして、保証があるか無いかなんて、そんな当ての無い事に

ついて不安になる必要ない。人が保証と思っている事も、実は

保証なんてされてない。保証は、”神の契約”の中のみ!

神の言葉=婚姻契約=約束、それが、神の家に集う事に同意した人に対しての保証。でも、神は神を知らなくても、同じように

必要なものを与えている事実があるでしょう。悪者にも太陽が出ると。

 

神の子らの違いはなんでしょう?自分が誰に造られたか、

知っている事。自分が誰かと言う事と、神の目から見て語られる自分の本当のアイデンティティを本当に知っているかどうかは

又別の話ですが。

それぞれ個人の中に築いた自己像が、神の言葉通りにマッチしたものであるのか無いのかで、全く別物の自己像を自分の中に植えつけるからです。

そして、神の子らは、神の目的に分かたれている、聖別された存在である事を知っている。ここも、どれだけ神の真実通りに見えてるかも、それ又別の話ですが。

 

自分を本当に知っている。神の目から造られた自己像を知って

生きる事を本当に掴んだら、安定するでしょう。

自分では無い誰か別の人を目標に生きなくて良い事から解放されるから。自分を受け入れる、愛せる事がどんな事か、分かるようになるからです。自分いじめをしない事。

これは解説がたくさん必要だから又別の時に。

 

本当に自分て嫌い!別の人になりたいとは言わなくても、

自分じゃない者になるための、別の目標イメージに向かって

無駄に生き続ける事はしているかもしれない。

 

だからアイドルやアニメのフィギュアーを見て、あんな風に綺麗になりたい〜て同じようなコスプレしたりするのでしょう。

 

誰かと比べなくて良いと分かると、競争する事から解放される。

これ、ヤボクの川でヤコブが”神のメッセンジャー”これは、

イエシュア であったと言う解説もありますが、神と直に格闘した事に繋がります。神と格闘して乗り越えた=イスラエルと言う名の意味はそれです。

 

”自分が誰だか分からない。兄の衣=別の実態を着せられて、

騙しの中を通過しながら生きてきたヤコブがイスラエルになった下りです。

 

神に祝福されていたのにも関わらず、それが実感として分からなかったヤコブ。

祝福されていないと思ってたから、祝福してください!祝福してくれるまであなたを去らせませんと懇願した。自分が誰か分からないからです。神の子は無限の祝福を与えられている事が見えない。これ本当に人間の問題の根でもあります。エデンの園に繋がる。自分が誰かを忘れさせる蛇の言葉。

問題の根は、神の言葉を忘れさせられる、そして別の言葉=教えに騙される。これはずっと現代でも同じです。

 

一日は千年のごとく、千年は一日のごとくとありますが、1日を与えられた時間を、与えられた命を、神のデザイン通りに、

フルに喜びに生きる時、1日の中で千年に値する、神の国の実態を体験すると言う事でもあるのかなと思いました。

 

パソコンの機能を100%知って駆使し使用しているのと、

20%くらいしか使いこなしていないその違いと同じだと

思います。本当はもっともっと、神の与えて下さった、贖い、

救いの世界は広く深く永遠に繋がっているのに、2、3の事位

しか知らない。トラーを教えられないから見えない。

 

長く感じる時間も、あっと言う間に過ぎてしまう。特に喜び楽しみを経験している時。友達と話し込んで、会話に夢中、

フェローシップが楽しくて仕方ない時、子供の頃遊びに熱中

あっと言う間に夕暮れになってしまった〜と言うあの経験。

 

創造主アバ父は、子供達に”喜び楽しみ生きよ”と言っている

お方。上から目線で、見張っている、厳しい神では無いでしょう。

シャバット=安息日と言う言葉が、”止まる”と言うヘブライ語

あるのを知ったのは11年前。聖書を読んでいても、安息日とは

実は”止まる”と言う意味で、止まる日である事を知らなかった。

 

教えてくれたのは、ユダヤ人の友人達。彼らは何々宗教の

グループでもなんでも無い。イスラエルに住む純粋にトラーを

知るトラー教師達。プラス、イエシュア=救い主を知っている。

その友人達の一人、その方も洞察力深いヘブライ語のトラー

=聖書教師ですが、その友人の言った言葉が忘れらないです。

 

それ以前に、西洋神学の教えに1度も、触れる事、聞いた事も

無くイスラエルで育った人。ただただ始めからヘブライ語聖書

だけを、ヘブライ思索だけで直に読み学び、そう言う教育を家庭でされた人。小学一年生の時学校で初めて教えられた箇所は、レビ記全巻。レビ記を歌って踊って丸暗記する事をしたそうです。その人達の人格に触れた時、もう驚愕ものでした。

 

そして、私も始めからそう教えられたかったと、純粋な嘆きを覚えたものです。でも、それは出来ない、戻れない、私は日本人として生まれた。その事実は同時に神から与えられた事実であるから。でも、その日本人=異邦人=テーブルの下に落ちたパンくずを子犬も受け取る権利があるでしょうと言ったあの女性のように

かき消せない渇望がむくむくと湧いて来た。

 

私もヘブライ語聖書の中身を知りたい!と渇望するほど、彼らの知っている神の言葉の中身、内容、深さ、広さ、素晴らしさに、私も引き寄せられました。神の言葉は、美しい音楽の様、麗しい。癒し、力、全ての生きる源が詰まっている。そして、彼らの生き方の素晴らしさ、人格の美しさに惹かれた。

その人が、どうやってイエシュア を子供の頃知って行ったのか

話してくれました。

 

”シャバットを、祝う。祭りを祝う。毎週金曜日の夕方、学校から帰るとお母さんがシャバットのパン=ハーラーを焼く匂いが

ドアの外からも分かって、その匂いを嗅いで、ほっとした。

どんなに学校で嫌な事があっても全部忘れた。

お母さんが家に居てくれて、笑顔で迎えてくれて、これから

みんなでシャバットの祝いをする。それで本当に満たされた気持ちになった。シャバットは知り合いの友達家族や、おじさん、

おばさんとその時を過ごすのが何より楽しみだった。他に行って友達と何か別の事をしようと思わないほど、楽しくて仕方なかった。シャバットや祭りを祝ううちに、神の言葉を知るうちに

喜び、楽しみの中で自然とイエシュアに出会ったんだよ。”と。

 

リッチ ヘリテージ。豊かな神の家の子らの印である、伝統。

祝福、遺産。私だって神の子でしょう?とアバに言ったあの日を

思い出します。そう、主よ教えてください。

 

続く