聖書の内容は、全部繋がっているので、神の言葉が終わったと
言う神学を前提にすると、神の言葉の真実は、全部帳消しになり、どの部分からでもガタガタ崩れて行きます。神がいつ気を
変えるか、何の理由で人を見捨てるか、分からないと言っている事と同じだからです。ユダヤ人を見捨てた=契約破棄したならば、異邦人も同様に、何かの理由で捨てられますと言う事を言っているのです。不誠実な神。誠実、憐れみをつくしと言われる
神とは違う神になる。
神の言葉のどこを削ぐか、終わったものであることにするのか、全て人間の判断と言う事になってしまいます。
神の言葉が真実か、否かの、仕分け判断基準は全て人間中心。
その人次第。その人の考え、判断、フィーリング次第で、
永遠普遍と神が言われた、神の言葉を仕分ける作業。
でも神はそんなことしてはならないと始めから、人類に警告
しています。私たちの命が安全に守られるために。
2000年を境に、違う教え、契約、救いが出て来た?
福音書以降に、始めて全て最終の救い、真理、本物が出て来た
のだ、と教えらて来たケースがほとんどなのではないでしょうか。
使徒に出てくる”クリスチャン”と言う翻訳された言葉。
今までは聞いたこともない、始めて出現する人達?グループ?
これは、クリスチアヌス=キリストに付く者と言う意味の
ギリシャ語です。イエシュアが地上に居られた当時のユダヤ人が、イエシュアを信じるユダヤ人達に付けた名称=”あだ名”を
ギリシャ語ではそう言うのです。この言葉は、使徒に2度しか出てきません。
ヘブライ語では、”マシアフ”、救い主に付く人達。ナツイア=
ナザレ派。ハ デレフ=その道の者と、呼ばれたのです。
ギリシャ語や英語、ヘブライ語の同じ意味の言葉でも、
響きが違うだけで、別物に聞こえませんか?
でもその人達は、始めから存在するのです。カハール=神に呼び出された人達の群、証人は同じ1つの家族=グループ。
その人達は、トラーを皆トラーを生きていた。
トラー、預言書を本当に知る人は、未だ見ない、将来地上に来るイエシュアをその中にちゃんと発見していたからです。
この様な事を、ほどいて行かないと見えてこないのですが、
前後左右しながら書いて行きます。
ガラテヤ1:13、14でパウロが言った、”ユダヤ教”を信じていた頃には〜と言う下り。以前の呪いの教え、イコール、
パウロは、トラーは終わりなので決別したと誤解して読むと思います。決別して、新しい教えを編み出した教祖と思われている。
ユダヤ教と言う言葉も、聖書にはこの箇所しか出てきません。
神の言葉は、宗教では無いからです。
パウロが語っているのは、”神の永遠の契約”トラーを捨てて決別したと言っているのではないのです。神の言葉を捨てる=
ありえない!死んでもありえない事です。神の使徒、預言者として、ありえない。もしあったとしたら、パウロは聖書に、使徒、
預言者として出て来ないです。偽預言者としては、記載されるかもしれませんが。
ずっと書いてある様に、”負えないくびき”イエシュアも言った
ラビ達、人間、リーダー達が編み出した、神の言葉とは
異なる教え=”口頭トラー”。ハラハーと言いますが、いかに
トラーを生きるかの、ラビ達、人が編み出した教えの数々、その生き方や考え方と、パウロは決別した事を話しているのです。
救い主を信じた=トラーに書かれた生き方と決別したのでは無く、人が作り出した教えを生きる事=神の言葉からズレた生き方の全てから決別したと言う事をパウロは話しているのです。
しかも、パウロは、イエシュアが救い主だと気がつけなかった
時代があるでしょう。トラー学者であるのに、部分盲目で、
イエシュアを信じるユダヤ人達を摘発し、ローマ政府の
イエシュア信者迫害に協力していた。
トラー、預言書全ては、イエシュアを指して話している事、
イエシュアに直接出会って、気が付いた!と言う事。
あの木にかけられた人が=トラー、預言書のイエシュアであった事実に、イエシュアが自分に直に現れて、迫られて始めて気が付いたのでしょう。
今まで見聞きしていた事の中には、人間の教えがあり、
神のトラーとは異なるものであったことにも明らかに気が付いた
のでしょう。クリスチャンの世界でもあるでしょう。
聖書には書かれていない、誰かが作ったルールや、教えや、要求
ノルマを生きる世界。
そんなのは、神の仰せでも何でもない、人が作り出した教えだと
一旦はっきり気が付いてしまえば、目から鱗。そんな人間の教えを生きる事は、不必要、その生き方と決別して良いのだと、
パウロは分かったと言う事が書かれているのです。
純粋な神の言葉の実態だけを生きる人に、パウロはなったのでしょう。救い主に出会って。真理の中に生きる自由、喜び、解放を知ったのでしょうね。
ずっと聖書は、同じ事を言っているでしょう。イエシュアの戒めた、”人間の教え”=負えないくびき。プロセライトもその1つです。
これは後で書きますが、イグネチウスが発言した、聖書は、
”ユダヤ教”=古い、終わった、救い主を知らない人たちの教えと、”キリスト教”=救い主を知って本当の救いを得た人達の
これこそ正統派の教えと言う、互いに対抗する、2つの教えだと
言いましたが、聖書は2つの対立する宗教の話が書かれているのでは無いのです。
ユダヤ教=古い、呪いの教えを終わらせて、キリスト教=正確に言うと元は4世紀にローマ皇帝が作った西洋ローマ教が、
新しい時代の新しい契約、命、本物の救いの教えとして、
昇天以降出て来たのだと言う、大体こんな考えであると思います。
聖書だけを根拠に、読みながら、よく考えて行くと、何がどうなって、1世紀のユダヤ信者と現代の信者の信仰の土台、内容が、
違うものになったのか?見えてくるはずです。
聖書の中のイエシュア信者=トラーを生きた。
現代=トラーは呪い、古い、廃れた教えと言う信仰。???
聖書はどこをとっても、”トラー”が土台、どの箇所も
トラーを語っている。だから、イエシュアが”トラーに、わたしそのものが書かれている”と何度も言っていることが記されています。アレフでありタヴ、アルファでありオメガである方は
永遠から永遠に変わらない。神の言葉、約束、契約も変わらない。
ヘブライ思想、ヘブライの世界のヘブライの神への信仰なのに、そこに”西洋の教え=トラーは終わったと言う教えが、聖書が閉じられた後、次から次へと、どんどん出現して、侵入して来たのです。
プラス、ユダヤ人はトラーを語れない、生きる事を、ローマ政府から禁じられたら、もう大元の家元=パウロの様な人達から
学べない。
パウロの書簡は、諸外国に居る人達、トラーを知らない主に
異邦人から、異教の地、その場所での生き方、問題の解決などを
相談するために、エルサレム拠点=トラーのセンター=パウロに質問状を送った、その手紙に対しての、パウロの回答返信が
パウロの書簡なのです。
1世紀当時も、”救い主”を知ったユダヤ人が大勢居たのです。
そしてもちろん、救い主があのローマの刑で処刑されたあの
”イエシュア”である事を認識出来なかったユダヤ人も居たと
言う事です。ほとんどの信者はすべてユダヤ人。
だから、聖書の中に、西洋色ある何も書かれていない事に
読んでいると気がつくと思います。救い主を信じるユダヤ人も、
救い主が地上に来られたあのイエシュアだと認識出来なかった
人達。ユダヤ人はそのどちらかで分かれていたのです。
救い主だと認める人達も、認めない人達も共に”トラー”を
生きていたのです。この事実をずっと考えたら、?て疑問が
湧いてくるはずなのです。どうして?今とは違うの?と。
しかも、カハール=エクレシア、教会と福音書以降は、
誰かが製作した造語で訳されてしまいましたが、
”神に呼び出された人々の群”これは、残りの民、ナザレ
救い主の命を得ている人達は最初から存在しているのです。
続く