矛盾している様に見える箇所 偶像に捧げた肉汚れている 汚れていない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

偶像に捧げたもの、不品行、絞め殺したもの、血。

使徒15:20は、異邦人イエシュア 新信者達が、パリサイ派イエシュア信者達の交わりに入る時に守ってもらう最低限の

ルールのラフ ドラフトです。この項目の元、細かい詳細は、

毎週土曜日のシャバットで、又はこの交わりのグループでの責任者パリサイ派の長老達がトラーを1から教える上で説明

して行きますよと言う事が、15:21です。

 

この一点だけみても分かる様に、ユダヤ人イエシュア信者達、

福音書以降の聖書に書かれているイエシュア信者も、もれなく

100%トラーをそのままガードし、レビ記23の記念日を祝うユダヤ人が殆どの集まりなのです。カハール=エクレシア=群=集会=コミュニテイ。神の家の1つ大家族。

 

そして、彼らが異邦人を手引きするリーダー、教師である

ユダヤ人信者=パリサイ派。

異邦人イエシュア 信者はトラーを知らないと言う事が、

はっきり書かれています。異教徒の世界で生きている異邦人だからです。パウロの様に、トラーを裏も面もヘブライ語で空で知っていて、記憶し、生まれた時から、その様な家庭教育を受けていると言う人,異邦人の中には居ないからです。今でも同じだと思います。異邦人は、トラーなんて知りませんの世界。そう言う環境に生まれ育たなかったと言う事。ユダヤ人を通して、福音が

伝えられる事が神のプランだったでしょう。だから、モーセを

最初に、ユダヤ人が神の言葉を書き記し続け、ガードし、

今日に至る。そうでなければ、私たちは聖書を読む事が出来なかった。

徐々にトラーを捨てる教えに切り替わったのだ?と、勘違いする

かもしれませんが、トラーを捨てる様に強要したのは、神ではなく、ローマ帝国の政治的理由です。そして、ユダヤ人達は、

トラーを語り、教え、記念日を生きたり、割礼を授けたりしたら

迫害、処刑されるので、深く静かに潜行しただけ。だから、最後使徒達やパウロは処刑されて人生を終わったのです。

世界からトラーを語る事を封じ込められたと言うのが真実で、

神がトラーを捨てるように、預言者に伝えたのでは無い

その事実から目を逸らさないで、聖書を読めば見えます。

 

使徒達、パウロの拠り所=情報元=テキストは、トラー、

預言書、そして諸書のみ!この事実に注目してみてください。

 

使徒である人達が、トラーを否定する教えを作り変えた?

そんな使徒は、使徒でもなんでも無い偽預言者であり、神からの

預言者ではなくなってしまいます。預言者とは、神の言葉=トラーをそのまま解き明かし、人に語り、神のデザインした生き方に戻る=悔い改めと訳されていますが、テシュバー=契約の命の姿=トラーに書かれた詳細の生き方に戻る事を悔い改めと、聖書では書かれていますが、それを教えるのが預言者です。

 

それ以前に、把握しないとならない事は、昇天以降初めて人は

救い主の存在を知ったのでは無いのです。同じように最初から、

残りの民=ナザレ=マシア<救い主に付く人達=使徒では、

2度ギリシャ語でクリスチアヌスと言う当時造られたあだ名で、

それらの人達が呼ばれていた事が書かれていますが、ヘブライ語では、נוֹצְרִי Notzriとかマシアッフ、それらの人は聖書の最初から登場しているのです。救い主を信じ、トラーを生きる人達の事を、当時はその道の者=ハ デレフとか、”ナザレ”と呼ばれたのです。

同じ一つの”カハール” ”エクレシア”を、教会と言う造語で

福音書以降翻訳造語で訳されていますが、

同じ家族=神に呼び出され、神の言葉に応答した人達=

カハール<またはエダ=証し>ギリシャ語ではエクレシアと

訳されている、救い主を未来へ見て信じていた人達は

存在しているのです。それが聖書のはじめから、そして預言書にもずっと書かれています。

 

その事実を知っていた人達は、イエシュアが言われた、

”トラー、預言書”はわたしそのものと言う言葉の意味を

知っていたのです。それに応答したユダヤ人の群衆は、この地上に人間として来られたお方が、トラー、預言書に預言、約束されていた救い主であると信じたのでしょう。

 

トラー、預言書は、どの箇所取り出しても、イエシュアを語っているから。そう最初から書かれています。人が救い主に付いての根拠を知る術は、トラー、預言書のみです!福音書以降に

書かれたものは、トラーの抽出、地上での”イエシュア ”の記録。

聖書の最後の30%=使徒達が書いた書簡が書かれている黙示録までの間、誰一人として、現代で言う福音書以降の聖書を読んだ事など無いのです。

預言者は、トラーに描かれた、イエシュアを語っていたのでしょう。誰が、救い主のポートレートを神から伝達され、伝えたのでしょう?聖書記者=トラー、預言書を書いた人達ではないのでしょうか?

 

創世記3:15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

 

2000年前のあの時から、初めて新しい啓示、新しい教え、

新しい救いが出てきたのでは無い。新しい救い?救い=

イエシュアはアルファでありオメガ=アレフでありタヴと書いてあります。永遠から存在しているのです。イエシュア =救い。

 

神の記念日を祝う、生きるとは、”イエシュア ”そのものを知る

生きる事でもあるのです。古代の人達はそれを知っていた。

ネヘミヤ書で、保留の地で、自分たちのアイデンティティ=

神の子らである、生き方、そしてその記念日を忘れていた事、

トラーを忘れて、教えられなかった事を皆嘆いたでしょう。

どれだけ恵、祝福を失った生き方をしてたか気が付いたから。

仮庵の祭りの時の出来事です。

ネヘミヤ8:8ー9

 彼らはその書、すなわち神のトラーをめいりょうに読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた

8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言った。すべての民がトラーの言葉を聞いて泣いたからである。

 

そして、”主を喜ぶ事はあなた方の力”と言われたのでしょう。

その源は、いつも同じ。ある時代から、神を喜ぶ=エデンに住まう事が始まったのでは無い。そうしなければ、生きる力は、2000年前まで存在しない事になってしまう。初めから同じ。

神の中に住まう。神も私たちの中に住まう。イマニュエルの神を信じているのではないのでしょうか?

 

どの時代でも、ある人はその事実が見えてない。

救い主が実際に地上に来られる前でも、シメオンの様な人達は

その実態を得て、新しくされた復活の命を先取りして生きて

居た事が書かれています。ダビデもそうです。聖書に出てくる

預言者達、その実態を知っていた普通の一般庶民=ナオミや、

ルツの様な異邦人もイエシュアを知って生きていたのです。

 

その誤解を解く、そして事実だけを繋ぎ合わせて、聖書を

読んでいけば、同じ事が書かれている事に必ず気がつきます。

 

教えられてきた西洋神学や、その教えを元に語られるコメンタリー=2000年前から、新しい教え、今度は仮ではなく別の本物の救いが出たのだ〜と言う教えを削除して、聖書だけを読めば、

神の言葉の真実が浮き上がります。

1世紀=聖書に書いてあるイエシュア信者達は、全てトラーを

以前と同じくガードして生きていた。誰一人、トラーは呪い、

古い、廃れた、終わった教えなどと語っていない事に気がつかなければならないのです。人の教えは、神の言葉とは異なります。人の解説、誰かの教え、意見が聖書に書いてある事と、違う、異なるなら、迷わず聖書が正しいと認める、認識する、そして聖書が言っている真実を信じる。そうでなければ、嘘、偽り、不真実を土台に考えめぐらしても、神の言葉の真実にたどり着けないからです。

 

 

 

続く