パウロが新しい教えの宗教作り出して、人々をトラーを捨てる
教えに改宗させるリーダーになるなんて、100%決して、
あり得ないのが、聖書の事実である事、その事実に基づいて聖書を読み直せば一貫して最初から最後までトラーを語っている事実が浮き上がります。
何度も書いていますが、もしパウロがトラーとは違う事を
少しでも教えるとするならば、パウロは”偽預言者”と言う事に
なってしまうのです。そうなれば、使徒の書簡など書くミッション、トラー教師としてユダヤ人、異邦人にトラーを教えるミッションなどをする役割を神から任命されなどしなかったと言う事になります。
パウロが神を裏切る=トラー=父の言葉=シナイ山で与えられた
契約=イエシュア の教えのどの箇所も、一点一画でも否定する
変更する、勝手に削除付け足すなどする事は、死んでもありえない事なのです。
パウロが新しい宗教に改心したから、サウルからパウロと言う
名に改名したと言う教えもあります。洗礼名と言う西洋宗教の
習わしを元に考えるからです。もちろん、イスラエルも名前が
変わりますよね。アブラムも、サライも、ヤコブも。。。
パウロは名前を変えていません。西洋宗教の様に信仰を変えたから、サウルがパウロになったのでもないのです。
ポロス=ギリシャ語 シャウール=ヘブライ語。
それをパウロ、サウロと日本語では言うのです。
ポールは英語読みです。パウロは新しい宗教に改心したから、
別の名で呼ばれる様になったと言うのも、人造人間制作の教え
です。人間創作の解説、コメンタリーは巷に限りなく蔓延しているのです。聖書をどの様にも、勝手にシンドバット的に解説する
世界だから。
パウロに、ラビと言う名称が、ある箇所から書かれていない事を
取り出して、ラビ サウルと書かれていない=トラー教師をやめて新しい教えをしたからと言う解説も聞きましたが、
その教えも、人造解釈解説です。聖書は前と繋がりずっと
同じで建てられ続けている構造なのです。
ラビと書いてなくても、それがパウロがトラー学者である事
に全く変わりないのです。なになに先生、なになに教授、その人をなになにさんと呼んで、同じ人を指して語っている。その人の実質は同じなのです。お母さん、ママ、ママの名前は、
リカちゃんだから、リカちゃんと個人名で呼ぼうが、
職業タイトルで呼ぼうが、同じ人だと言うのと同じです。
どこまでも、人間の憶測の解釈が綴ってあるのです。
イエシュアと言う名も当時、お一人だけが持っていた名では無いのです。この元の名は、”イエホシュア”です。ヨシュアと日本語で言いますがそれです。イエホシュアの短い形がイエシュア。
でも、外国語で変えられたら、別の発音になってしまいますよね。イエズス、イエス、ジーザス。でも本当の名は、イエシュアです。
もっと分かりやすい例では、同じ名前でも国によって、読み方が違うと言う事。
ヨハナン=ヘブライ語 ヨハネ、ジョン、ジョニー、ヨニー
似た様な名前で、イヴァン、ユナ、ヨナ 色々です。
ミリアム=ヘブライ語、マリア、メアリー、
マイケル、ミカエル、ミッシェル、マイク、マイキー
国によって発音が違うだけです。
イエシュアが当時の一部のトラー学者<律法学者とかパリサイ派と書かれていますが>を正して討論している箇所がありますが、パリサイ派の学者の皆が、ズレていたのでは無いのです。
シメオンの様に、どの時代にもちゃんと、残りの民=神の霊が
内に住まい、トラーを神の意図通り知り、生きていた人が、
ちゃんと存在しているのです。
聖書には、登場人物全員の内部事情など、事細かになんて書いていないですから、書いてある箇所だけを読み、パリサイ人=全部悪者と言う図式になってしまうのです。キリスト教=クリスチャン宗教の世界で、私腹肥やして悪い事する人達、聖書に無い逸脱した教えを教えて有名になっている人も、残念ながら大勢居ますが、その人達だけを見て=全てのクリスチャン=悪い人、悪い事をやっている人とは決して考えないでしょう?
日本人は、海外に居るある一部の日本人が放った言動、行動
だけを外国人に見られて、又は過去にした行動をあげつらって、
私達10把一絡げに、”だから日本人は〜ひどいやつ”と言う日本人像作り上げられてしまって、そうレッテルを貼られたら
それ違う!て言いたいでしょう。
それと同じ事です。聖書に登場するイエシュアと討論してた
“パリサイ派”の一部の人は、正されるべきずれた思想、聖書観を持つ人なのです。一部のトラー学者、一部のパリサイ派の話をしているのだと、認識しないとならないのです。なぜなら、当時のパリサイ派は、トラーに乗っ取って人に穏便な許しを与えて、
社会で再び生きるチャンスを与えていた、世間で信頼される
人達だったのです。ある一部の人は、厳しい、許さない、
自分たちの規則を生きる、生きさせる事でがんじがらめ。
いつの時代も同じです。
イエシュアのやって居た事も、たくさん当時のパリサイ派の教えに沿った事をしているからです。<安息日に会堂でトラー朗読したり、祭りのやり方などなどetc etc>
12節に”忠実な者"とあるのは、何に対して忠実なのでしょう?
神に対して忠実。そうですね。でも神に対して忠実と言うのは、実際にはどう言う事を言っているのでしょうかと言う事です。
”神の仰せ=言葉=父の言葉=イエシュアの言葉”に対して、
神の言葉=言われた通りをそっくりそのまま人に伝える、
教える、生きる事を教える者と見て、この務め=ユダヤ人と異邦人へ対し、トラー=生けるトラー=イエシュアの全貌=中身を伝える役割に任命したとあります。
パウロを、以前までのトラーは終わりだ、廃れたと言う教えを
する役割に任命したと書いてあるのか、ないのか?です。
あるわけないです。100%無いそれが聖書の事実です。
そうだとしたら、それはイスラエルの神の言葉ではない、
聖書では無い事を教えていた事になってしまいます。
これを読めば、パウロが聖書で死に値する、神の言葉を一点一画でも変える、捨てる、ないがしろにする、終わったものだと
教える教えをする人ではない事は明らかなのです。
1:13
わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。
パウロがトラー、預言者に書かれたイエシュア =救いが
あの地上に現れたイエシュアである点に関して盲目=分からなかった、知らなかった時の”以前のわたし”と書いてあります。
そのパウロは、イエシュアを神、救い主と信じる人は、冒涜、
神に対して名誉毀損だ、死に値する罪だと、盲目ゆえ信じていたのでしょう。真実が見えてなかったからです。文字で書かれた
トラー=肉体をとって来られたトラー=イエシュア と言う事に盲目だった。
パウロの中でも、救い主=イエシュアが来たら、イスラエルの王として、ダビデ王の様に実際に国を統治し、近隣諸国の敵を散らし、ローマの支配から完全に解放され、シャロームな社会が来るのだと、他の多くのユダヤ人達と同様、さらに弟子達でさえ、
初めはそう考えていたのですから、パウロもそう考えていたのかもしれないですね。イエシュア が処刑されてしまったから、
その人が救い=イエシュアだと分からない。ユダヤ人の王としてあの時には来なかったから、救い主では無い証拠かもと考えていたのかもしれないですね。
続く